壁の向こうへ 3
結局、レヴォルツィオンの構成員らしい者と出くわすことはなかった。銃声や、人の悲鳴や何かが爆発する音が響いているのは私の遥か後方だ。もう、危険な一帯を抜けたらしい。
「……ごめん、エリス」
私の腕の中で、ナオトが声を漏らす。
「喋らなくていいから」
つい大きな声を出した。
だが、もうじきナオトも助かる。私は自分に言い聞かせた。
煙のにおいが立ち込める通りの先にあるのは、見慣れた煉瓦造りの、二階建ての建物だ。
平和なとき、熱を出したりしたら母親に連れて行かれた病院。戦闘によって壁や屋根のところどころに穴が空き、窓ガラスも割れているが、それでも崩れ落ちたりしていない。次々と傷ついた人達が集まっている。
「負傷者はこちらに!」
病院の前に立って叫んでいるのは、私のかかりつけのお医者さん。もうすぐナオトは助けてもらえる。
「先生、先生! ワルターさん」
私は煙にやられた喉で叫ぶ。ワルターという医者は、私の声に気づいてくれた。私はそのままワルターの目の前に来た。
「エリス! その子はナオトか? ひどい傷だ」
ワルターは、私の腕の中のナオトを見て言った。
「レヴォルツィオンの連中から私をかばって。お願い、助けて」
「わかった。早く病院の中に。すぐに傷を縫合するから」
「おい!」
突然響いた怒鳴り声、この場に存在することすら許さぬほどの怒気に、私は動きを止めた。横を見ると、一人の肩を負傷した男が、自らの傷口をかばいながらこちらを睨んでいた。
「その黒髪、あれの罹患者だな」
私の体の中に、冷たいものがよぎる。
――それ以上喋るな。
私の思いとは逆に、その男は言葉を続ける。
「さっき俺は見たぞ。そいつは一瞬で移動して、レヴォルツィオンの奴らが撃った銃弾を弾いていた。普通の人間じゃ無理な動きだ。そいつ、クランクハイトにかかった呪術遣いだろう」
「呪術遣いを入れるな! どっかに行け化け物が!」
他の男が反応し、喚き立てる。
傷つき、弱りゆくナオトは、彼らにとって凶悪な敵となっていた。無差別に街の家や人を焼き払った、レヴォルツィオンの構成員そのものである。
――私がついさっき、敵の男達を罵ったのと同じ……。
「この子は違う!」
怒鳴っても仕方がないのに、私は声を張り上げた。だがさらに別の声がこの場に響く。
「病院にそいつを入れるな」
「娘も罹患しているかもしれないぞ。離れろ!」
今日まで同じ街に暮らしていた人々が、悲痛な声で私達を拒絶する。こんな騒ぎが続く間にも、ナオトの命は刻々と削られているのに。
「ワルターさん、早くこの子をお願いします」
しかし、私は見てしまった。ワルターの瞳が、冷たく自分を見下ろしているのを。
「エリス、すまないがその子は、うちで面倒を見ることはできない」
「えっ……!」
私は膝に何かがかすめるのを感じて、とっさに足元を見た。転がったのは、拳ほどの大きさの、煉瓦の破片だった。
「いなくなれ! 呪術遣いが」
街の人が叫び、さらなる煉瓦の破片を投げつけてくる。それがナオトの頭に当たりそうになって、私はとっさに背中で破片を防いだ。重い痛みが背中に広がり、呼吸が詰まる。
「くっ……、変なこと言わないでください、ワルターさん。早く手当てを」
痛みに耐えながら、私は医者の顔を見上げ、懇願する。
「この騒ぎだ。クランクハイトの罹患者を私は差別するつもりはないが、混乱で他の負傷者を助けるどころじゃなくなる」
差別しているじゃないか。
「でも……」
言いかけて、私の腕に石が当たった。痛みに声が詰りつつも、ナオトを落とさぬよう必死で耐える。
「すぐに立ち去るんだ」
ワルターが明確に拒絶をあらわにした。
医者が、傷つき弱った子供を見捨てる。
ありえない状況に、私はワルターの茶色い瞳を見つめ返すことしかできずにいた。ワルターは身を翻し、病院の中へと戻っていく。
街の人達は、何度も私達に向けて石を投げつけてきた。
このままでは背中の傷とは別の意味で、ナオトの命が危ない。
私は踵を返して、病院の前から駆け出した。街の人達が慌てて左右にどけて、私はそこを走り抜けていく。
私の頬に涙が伝って、ナオトの頬に滴り落ちる。傷が痛んだのか、ナオトが小さく呻いた。
このままではナオトは死ぬ。
だから、私は思いついた。
街のはずれ、草原の向こうにそびえる、長大な壁。人間とクランクハイトの罹患者を隔てる、防疫壁。罹患者が万が一にも外部に脱出したり、クランクハイトの能力を駆使して外部を攻撃したりすることがないよう、要塞並みの高さと頑丈さを誇る壁。
あそこなら、この子は差別されない。なぜなら、壁の向こうにいるのはナオトと同じクランクハイトの罹患者、人間ではなくなった者達だから。
後ろ指を指す声が私の後ろから聞こえてくる。
「罹患者だ。呪術遣いだ」
「あの娘にも近寄るな。罹患するかもしれない」
私は聞こえぬふりをして、通りを駆け抜けていく。もうすぐローレンツの街を外れる。旧世紀の城壁を抜け、その外にも広がる住宅地をも走り抜け、平原に出る。
ナオトが、わずかに瞼を開けた。その黒色の瞳で、平原の先にそびえる壁を見る。さっき通り抜けた城壁よりもはるかに高く、果ての見えない黒い壁。
私がいる道の果てには、収容者を乗せたトラックが通るための門があり、レヴォルツィオンの構成員達に破壊されて黒煙を上げている。今ならば簡単に入ることができるだろう。
「エリス、まさかあそこに……?」
弱りきっているのに、ナオトの声が大きくなる。
「こうするしかないから。あそこに助けてくれる人がいるはず」
「よせ。戻れなくなる」
ナオトが言いたいことはわかる。一度あの壁の向こうに入れば、出ることはできない。ローレンツの友達にも二度と会えなくなる。自分達の無事だけを考えろという言葉を残して死んだ、ナオトの父や、私の母の遺体を葬ることも。だが、
「こうするしかないの」
私は走り続ける。 黒い壁が近づいてくる。壁を構成している煉瓦の筋がはっきりと見えてきた。門周辺は無人で、駆ける私を咎める者はいない。私はそのまま、防疫壁、入れば二度と戻れなくなる壁の向こうに駆け抜けた。
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