第9話 翠玉の不調と柘榴石の想い

 エピカと出かけた翌日。

俺は庭師の仕事中に、急な雨に降られた。急いで屋敷の中に戻ったが、ずいぶん濡れてしまったようだ。

 メイドのサルヴィがタオルを持って駆け寄ってくる。


「ストノスさん、大丈夫ですか……?」

「ああ、ありがとうございます。」

 そう言ってタオルを受け取る。ふわりといい香りがした。きっと洗濯したばかりの物だろう。

「着替えをお持ちしますね!」

「すみません……。」

 サルヴィは一礼して、屋敷の中へ向かった。その背中を見送ってから、俺は自分の服を眺める。


 確かに少し濡れている。だがこれくらいなら、拭けばいいだけだろう。……なんて思っていると、突然背後で声が上がった。


「きゃあ!すごいびしょ濡れじゃないの!」

 振り返るとそこには、エピカがいた。彼女は俺を見るなり心配そうな顔になる。

「あぁ……。まあ、すぐに乾くだろ。」

「ダメよ!風邪引いちゃうわ!!」

「でもこの程度じゃ……。」

「ダメったらダメー!!!」


 ……結局、押し切られてしまって、風呂に入ることになった。……まったく、どうしてこんなことに……。

 そんなことを考えながら、俺は風呂場へ向かった。


***

 風呂に入り、濡れた服を着替えた俺は、部屋で本でも読むことにした。……この様子だと、雨はやみそうにないな。今日はこの部屋にこもろうか。


 椅子に座って本を開く。しばらく読み進めていたが、ふと思い立って窓の外を見た。

 外では相変わらず激しい雨が降り続いている。まるで嵐のような天気だ。


 そんなことを思いつつ本をめくっていたが、だんだん眠くなってきた。

疲れていたんだろうか?昨日は早く寝たはずなのに……。心なしか、頭も重い気がする……。


 そして、そのまま俺は眠りに落ちていった。


***

 ストノスが部屋に戻ってから数時間後のこと。エピカは、部屋でゴロゴロしていた。

(あ~あ……。この雨じゃ何もできないわ……。)

 暇すぎて思わずため息が出る。すると部屋の扉がノックされた。


「はい、どうぞー?」

 私が答えると、扉が開いてサルヴィが入ってきた。手には何か持っている。

「失礼いたします。お茶をお持ちしました。」

「あら!ありがとう!」

 テーブルの上にカップが置かれる。紅茶の良い匂いが漂ってきた。


「さっそくいただくわ。」

「はい、ごゆっくりお楽しみくださいませ。」

「えぇ。……ところで、ストノスはどうしたのかしら?」

「ストノスさんなら、お部屋にいらっしゃると思いますよ。この雨では、仕事はできないでしょうから。」

 サルヴィはそう言うと、一礼して部屋を出て行った。私もそれを見送った後、彼の部屋へと向かうことにした。


(ただ部屋にいるなら、一緒にお茶を飲めばいいわ!)

 そう考えて、自然と笑みが浮かぶ。……なんだかんだ言って、彼と一緒にいる時間は楽しいのだ。


 そんなことを考えているうちに、目的の場所へたどり着いた。軽くノックをしてみる。しかし、返事はない。

「ストノス、いるかしら?」

 もう一度呼んでみたけれど、やはり反応はなかった。……おかしい。いつもなら、すぐに出てくるのに。


「……入るわよ?」

 ドアノブに手をかけて回すと、簡単に開いた。鍵をかけ忘れているみたいだ。

 中に入ると、ストノスが机に伏せたまま眠っているのが見えた。本を読んでいる途中で、眠ってしまったのかしら……?


「ストノス?」

 近づいて声をかけるけど、彼は目を覚まさなかった。そこで、揺すって起こそうとした。だけど、肩に触れた瞬間、彼がひどく熱いことに気づいた。


「ちょっと……!?ストノス!!?」

 慌てて体を起こす。やっぱりすごい高熱だ。……これはまずいかもしれない。

「エピカ様……?」

 その時、後ろからサルヴィの声が聞こえた。振り向くと、彼女は驚いた表情を浮かべている。


「サルヴィ!!ストノスが大変なの!!」

「まぁ……!それは大変です……!!」


***

「うぅ……。」

 ストノスが苦しそうな声を出す。私は、サルヴィを呼んだ。

「サルヴィ、何か冷やせるものを持ってきて!」

「はい!」

 サルヴィはすぐに氷水の入った袋を持ってきてくれた。それをタオルで包む。


「これを首筋に当てて、と……。」

「う……ん……。」

 ストノスが少しだけ声を出した。まだ意識はあるようだ。


「大丈夫?」

「……エピ、カ……?」

 彼のエバーグリーンの瞳が、ぼんやりとこちらを見ている。


「……俺は……、一体……?」

「あなた、すごい熱を出してたのよ。……覚えてる?」

「……?熱……?」

「無理して起きなくていいわ。今はゆっくり休んで……。」

「…………。」

 ストノスは何も言わずに、ゆっくりと目を閉じた。


***

 どれだけ時間が経っただろうか。俺は、ふと目が覚めた。……いつの間にか寝ていたらしい。

(……あれ、俺……。どうしたんだっけ……。)


 身体を起こすと、自分がベッドに寝かされていたことに気がついた。側には椅子があって、その上に毛布が置かれている。

(誰かが看病してくれたのか……?)

 そう思った時だった。部屋の扉が開く音がした。振り返ると、そこにはプロムスさんがいた。


「おや、起きられましたか。」

「プロムスさん……。」

「具合はどうですか?」

 プロムスさんは、こちらに近寄って来る。

 俺は、まだ熱でふわふわする頭で考えた。


「……まだ、頭がぼーっとしますね……。あと体がだるくて……。でも、もうだいぶ良くなりました。」

「そうでございますか。それならば良かった……。」

 プロムスさんはそう言うと、安堵のため息をついた。

 そこへ、エピカがやってきた。


「ストノス!起きたのね!……お腹すいてない?」

「あ、あぁ……、うん。」

「じゃあ、お粥作ってくるわ!」

 エピカは嬉しそうに笑うと、部屋を出て行った。


「……あの、ありがとうございました。」

「いえ、私は何もしておりませんよ。」

「いや、そんなことは……。」

「それにしても、まさかストノスさんが風邪をひかれるとは思いませんでした。」

「はい……。自分でもびっくりしました。」


 ……こんな風に風邪をひいて熱を出したのは、いつぶりだろうか。プロムスさんは、優しく微笑みながら言った。

「エピカ様は、本当に心配しておられたんですよ?」

「え……?」

 驚いて聞き返すと、彼はさらに続けた。


「先程、貴方の部屋まで様子を見に行っていまして……。その時、ちょうど私が来たのですが、その時の様子と言ったら……。」

「……そう、なんですね。」

(そんなに心配してくれるなんて……。俺なんかのために……。)


 ……ストノス本人には自覚がなかったが、彼は弱っているせいか、ネガティブになっていた。気にしないと心に決めていたことが、言葉となってこぼれ落ちる。


「……どうして、こんなに優しくしてくれるんですか……。俺は、使用人の一人……。ここまでする必要は無いはずなのに……。」

 プロムスさんは静かに聞いている。

 そして口を開いた。


「……エピカ様にとって、ストノス様はとても大切な存在なのですよ。だから、放っておけないのでしょう。」

「……大切?俺が……?何故……?俺みたいな人間よりももっと良い人はたくさんいますよね……。」


(……この方は、自分の価値が分かっていないのでしょうか……?)

 プロムスは思った。

「……私は長い間生きておりますが、貴方のような方は初めてです。」

 プロムスは、思わず苦笑しながら呟いた。


「……?」

「私は、ずっとエピカお嬢様に仕えておりました。お嬢様は、この屋敷に一人きりでいることが多く、いつも退屈そうにしておられました。」

「……そうなんですか。」

「しかし、ある日突然、お友達ができたと喜ばれたのを覚えています。それが、ストノスさん……、あなただったのですよ。」

「……!?」

「お嬢様が、貴方をこの屋敷に住まわせると言った時は、とても驚きました。最初のうちは、使用人たちも貴方を怪しんでおりましたよ。」

 プロムスさんは、懐かしむように目を細める。


「……それは、そうでしょうね……。」

「はい。それは、お嬢様もお気づきになっていたのでしょう。ある時、貴方のことをお話して下さったのです。」

「俺の……?」

(一体何を……?)

 俺が聞くと、プロムスさんは話し出した。


「お嬢様によると、『ストノスは、家に帰っても一人だって言ってたわ。』と。」

「……!」

(確かにそうだ……。俺は、家でも一人で過ごしていたから……。)

「一人は寂しい、だからここに住まわせたのだと、おっしゃっていましたよ。それから、家族のように接して欲しいと頼まれました。」

(……エピカが、そんなことを……。)

 弱っているせいか、涙腺は簡単に緩んでしまう。


「……すみません、俺……。」

「謝らないで下さい。きっと貴方は、今まで誰にも頼れずにいたのではないですか?」

 プロムスさんの優しい声音に、俺は黙ってうなずいた。


「……そうですね……。」

「それならば、これからは遠慮せずに私たちを頼ってくださいね。」

「え……。」

「貴方は、私たちにとって家族同様なのですから。」

「……!あ、ありがとう、ございます……。」

「いえいえ。……おや、エピカお嬢様がいらっしゃるようですね。」


 その言葉に、ドアの方を見る。すると、ドアの隙間から覗くエピカと目が合った。

 エピカの顔がぱあっと明るくなる。


「ストノス!大丈夫なの?」

 エピカが勢いよく部屋に入ってきた。手には、お粥の入った皿を持っている。

 俺たちに気を遣ってか、プロムスさんは一礼して部屋を出ていった。


「うん……。もうだいぶ良くなったよ。ありがとう。」

 そう言うと、エピカは安心したような笑顔になった。

「良かった……。」

 エピカはベッドの横の椅子に座る。

「あの……、心配かけてごめん……。」

「いいの。ストノスのことが心配なのは当たり前だもの……。」

 エピカはそう言いながら、ふっと息をついた。


「はい、これ!私が作ったお粥よ。食べてみて?」

「……え、エピカが……?」

「そうだけど、何か文句でもあるのかしら……?」

「ないです……。いただきます……。」

「じゃあ、はい。」

 エピカはレンゲを差し出す。俺はそれを口に含んだ。

(……美味しい……。)


「どう?口に合うかしら……?ちょっと塩を入れすぎちゃったかもしれないけど……。」

「……そんなこと無いよ。おいしい。」

「そっか……。なら、よかったわ……。」

 エピカはほっとした様子で微笑む。

「……なぁ、エピカ。」

「何?」


「……どうして俺なんかのためにここまでしてくれるんだ?」

「……?どういう意味?」

「俺は、使用人の一人なんだぞ?」

「それがどうかしたの?」

「普通は、こんなに良くしないだろう……。」

「……私は、貴方が好きだから。」

「!?」

 エピカの言葉に、思わず目を見開く。

(好き……!?)


「……貴方は、私の大切な相棒バディよ。」

「……そうか……。相棒か……。」

『相棒』。その言葉はすんなりと俺の心に馴染んでいった。


 エピカと出会ってから、まだ日はそれほど経っていないのにも関わらず、いつの間にか俺の中で彼女は大きな存在になっていたようだ。

(俺もお前のことを大切に思っているなんて言ったら、どんな顔をするか想像できるな……。)

「ストノス……?」

 不思議そうな顔でこちらを見ているエピカを見て、口元が緩む。


「なんでもないよ。ただ、ありがとうって思っただけさ。」

 エピカの顔が一瞬で真っ赤になる。

「べ、別に私は感謝されるようなことはしてないし……。」

 エピカはそう言って、ぷいっと横を向いてしまった。

(こういうところは、まだまだ子供っぽいよな……。)


「……でも、本当にありがとう。」

 俺がそう言うと、エピカは俺の方をちらりと見て、小さく笑った。

「どういたしまして!」

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