第2部

第40話.依頼の朝



 とある宿屋にある湯浴み場である。

 天井まで、もわりとした湯気の漂う空間では、ちゃぷり、ちゃぷり、と小さな水音が響いていた。


「……ふはぁ」


 鼻から抜けるように息を吐く少女が、ひとり湯の中に浸かっていた。腕を伸ばして、もう片方の手で腕に湯をかけている。その水音が、辺りに響いていた。

 薄手のガウンをまとった肢体が、湯気抜きの窓から射し込む朝日に浮かび上がる。女らしい色気とは無縁の凹凸の少ない身体つきで、痩せぎすな少女だ。


 というのも拾われた家で、召使いか何かのように扱われてきた少女――クナは、毎日の食事も満足にとっていなかった。食用の野草に詳しくとも、草を食んでばかりでは栄養は不足する。

 しかし次第に、彼女の食生活は改善されつつあった。本人は、これでもだいぶ太ってきたのだと認識している。枯れ枝のようだった腕も、足も、少しずつ肉付きが良くなってきているのだ。


 肩の長さまで、伸びるままに任せて伸ばされた黒髪は、今は頭の高い位置でひとつに結ばれている。湯に入れると、宿の亭主から叱られるのだ。

 それに相手を睨むように鋭い橙色の瞳に、低めの鼻。むっつりと結ばれた唇は、人によっては不機嫌そうだと捉えるだろうが、クナはいつもこんな顔つきをしている。


「ふわあぁあ……」


 温かな湯に浸かっていると、どうにも欠伸が止まらなくなる。

 じわりと込み上げてきた涙で目元を濡らすクナを、退屈そうに片目で見やるのは白い子犬だ。名前はロイという。『死の森』と呼ばれる森の深くで、狼の姿をして現れた獣で、ウェスの街に入る際に子犬に化けたのだ。


 ロイは浴槽に浸かるクナを眺める位置に陣取り、伏せをしている。自分が狼だったことも忘れてしまったのか、可愛らしく、あどけない仕草でときどき首を傾ける。湯が飛び散り、身体が濡れ鼠になっているのが不服のようだ。早く出たくて仕方がないと、その視線はクナに訴えている。


 子犬程度の視線の圧力に屈するクナではないが、このまま熱い湯に浸っていると、二度寝してしまいそうだった。やれやれと立ち上がり、水を吸ったガウンを引きずって湯から上がる。ガウンを絞るのも待ちきれない様子で、ロイは脱衣場に続く戸をかりかりと前足でかいている。




 薬師であるクナがウェスに到着して、六日目の朝である。


 冒険者組合でキバナを売り、臨時営業届を出し、昨日までの三日間は露店を出した。

 クナの手元には、およそ八千ニェカがある。日々、生活費や食費でお金は減っていくわけだが、それを上回る速度で貯金が増えつつある。贅沢はできないけれど、心にも余裕が生まれつつあった。

 そして今日は露店を出すつもりはない。ポーションの材料が不足しているというのもあるが、クナはとある人物から、個人的な依頼を受けていた。成功すれば、数本のポーションを売る以上の利益が見込める仕事だ。


 湯浴みのあと、クナが宿屋『アガネ』を出ると、出入り口の前には、頭の後ろで腕を組む男が待っていた。

 振り返ってクナの姿を確かめるなり、ぱっと表情を明るくした男の名はリュカという。ウェスの街に住む駆け出しの冒険者だ。


 母親の病を治してほしい――そう依頼してきたのがこのリュカという青年である。

 朝日を浴びる短い髪は、金色に見紛うほど美しく輝いている。が、今朝はその毛先があちこちに跳ねていた。ひどい寝癖だった。

 誰もが息を呑むほど容姿に恵まれた男だが、このとおり、あまり本人は頓着していないようだ。しかしそんな無鉄砲な人なつっこさが、より人目を惹きつけるような、不思議な魅力のある男だった。


 青い目を細めたリュカが、自身の胸元を立てた親指で示す。


「おはようクナ。さっそくだけど、オレんちに案内するぜ!」


 逸る心を抑えきれないのだろう、言い放つリュカをクナは見上げると。

 淡々と首を横に振った。リュカが愕然として目を見開くが、そんな顔をされても困る。


「……私、まだ朝ご飯食べてないんだけど」


 そもそも待ち合わせまで、あと一時間以上ある。

 クナはリュカに会いに出てきたのではなく、朝食用のパンを買おうと表に出てきただけなのだった。



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