第32話.地獄の森
四人の男は、もともと王都を中心に活動する冒険者だった。
国の都として、交易の中心地としても栄える土地には、各地から冒険者が集う。そこで男たちは、多くの冒険活劇を繰り広げてきた。
奈落のような崖の下、海辺の不気味な洞窟、神秘の力が色濃い林、幻覚に惑わされる霧の丘……数多の困難をくぐり抜けて、死線を掻い潜り、今まで第一線で活躍してきたのだ。
ときには冒険者組合から直々に護衛依頼を受け、貴族の当主や美しい令嬢を守って森を駆け抜けたこともある。酒場で声を張り上げて武勇伝を語れば、誰もが男たちの勇気と力に憧れ、手を叩いて褒め称えた。
だから四人が、その地に興味を持つのは必然だったろう。
『命惜しくば、死の森には近づくな。惜しくなくとも、死の森には踏み込むな。嘆く家族は、お前の骨さえ拾えない。泣く妻は、小池で粗朶を燃やす、粗朶を燃やす……』
これは、平民たちによく親しまれる童話に登場する歌詞だ。
歌われる『死の森』とは――ウェスの南方に大きく広がる森を指す。
生還した者は、片手の指の数より少ないとされる魔の森。かつて聖獣が住んだ森は、今や強力な魔獣の巣窟と化し、命知らずの人間は容赦なく踏み散らされる。
しかし、だからこそ、四人の男は『死の森』への挑戦を決めたのだ。
誰もが頓挫し、逃げ出したこの試練を、自分たちならば乗り越えられる。その自信と自負があった。
そう、男たちは、何も森を舐めてかかっていたのではない。
それどころか慎重に慎重を期して、時間をかけて入念な準備に取り組んだのだ。
王都で名の知れた武器屋と防具屋で、男たちは魔獣を貫く剣や棍棒を、身を守る盾や革鎧を新調した。
日持ちのしないポーションだけは、ウェスの街で買い揃えた。ひとり八本ずつという十分な量だ。常の冒険ではひとり二、三本とするのだが、『死の森』に入るのだからと、念には念を入れた。
それぞれ、背負った荷の中に瓶を入れる。動きを制限しないよう、しかしすぐに取り出せるよう帯革や腰のベルトに吊り下げる者も居る。
何一つとして不足はなかった。南門を越えた男たちは拳を突き合わせて、頷き合った。
また、新たな冒険が始まるのだ。
(……その結果が、これか?)
骨が折れ、だらんと垂れ下がるだけの腕を押さえて、男は呆然としていた。
冒険の始まりを出迎えたのは、一頭の魔猪だった。
ただの魔猪であったならば、陣形を取り、勇ましく向かっていくことができただろう。だが、そんなことはできなかった。
のっそりと現れたその偉容を、四人は口を半開きにして見上げるしかなかったのだ。言葉はなかったが、一目見て、全員が思ったことだろう。
――でかすぎる。
鼻息荒く昂ぶる魔猪の図体は、男が知る魔猪の優に三倍近くはあった。
無理だ、とただ、思った。これは、人が相手にできるような魔獣ではない。
逃げよう、と男は叫んだつもりだった。
しかし実際は、それより早く、魔猪が突進してきていた。
耳をつんざく、雷にも似た雄叫びと共に、仲間のひとりが跳ね飛ばされた。四人の中で最も才気に溢れた、頭目として慕われる人物である。
少し荒っぽい性格に難があるものの、仲間には気前の良い男の身体が、嘘のように宙を舞った。
爽やかな樹冠に、赤い血液が飛び散る。おもちゃのように地面に叩きつけられる仲間を、確認する暇もなく、男の全身を強い衝撃が叩いていた。
背後の木々に叩きつけられ、呆気なく腕の骨が折れていた。
苦悶の呻き声を上げる。しかも追撃があった。折れた腕を、魔猪の角が貫通していた。脳が焼き切れそうな痛みに、もはや、絶叫することさえ叶わなかった。
それまで武器も構えず固まっていた仲間のひとりが、奇声を上げて魔猪に飛び掛かった。死角からの攻撃だったはずが、鍛え上げられた長剣は魔猪の身体に傷ひとつ刻めず、根元からぽっきりと折れた。後ろ脚で蹴り上げられて、男は血まみれで意識を失った。
もうひとりが、震える声で炎魔法を唱え出す。冷静沈着な魔法師だ。だが恐怖のあまりか、股を小便が流れ落ちて、足元に水溜まりを作っている。
そこに犬のような声が聞こえた。
割り込んできたのは魔狼の群れだった。木陰から素早く躍り出てきた影が、魔法師の男を引き倒す。最初に倒れた頭目の頭にも、戯れのように噛みついてぶんぶんと振り回す。
男の頭を絶望の一色が染める。しかし、そこで想定外の出来事が起きた。魔猪と魔狼の群れがぶつかり合ったからだ。
激突し合う両者の目には、すでに弱々しい人間たちは映っていない。というのも彼らにとってそれは、最初から哀れな獲物に過ぎなかったからだ。
男は、それを幸運だと思った。獣たちの眼中にすら入らないことを、何よりの幸運だと思えた。そう思うしかなかった。
放心した魔術師の頬を叩くと、それぞれ倒れる仲間に近づく。逃げられる機会は今だけだ。魔猪と魔狼が戦う間に、この場を離れるしかない。
意識のない男を引きずって歩くのは、おそろしい重労働だった。
少しでも重量を減らすために、持ってきた荷やポーションは地面に落としていく。瓶の蓋を開ける一動作が、命を分けると分かっていたからだ。
男は、痛む手足を無我夢中で動かした。呼吸の音は聞こえなかった。もう死んでいるかもしれない、と思う。
だが、ここに置いていこうとは思えなかった。せめて故郷で暮らす彼の母親に、骨だけは届けなければならない。
『嘆く家族は、お前の骨さえ拾えない。泣く妻は、小池で粗朶を燃やす、粗朶を燃やす……』
骨を持ち帰れるならば、自分たちは勇者と呼べるのだろうか。
だが、誇れることなどあろうはずもない。
すでに、遠くに南門が見えている。四人は森の深い場所に踏み入ることさえできず、恐怖のあまり引き返しただけだったのだから。
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