口元が緩んできて、話してもいないのに、照れくさくて。

 明かりが一つもない夜空と、おかしな水の上。冷たい風が体を撫でる時に、ほのかにあの人の香りが私にぶわっと当たる。

 どうしようもなく、あの人なのだ。

 私だけが気づいていて、あの人は気づいていない。


 声を掛けようと思った瞬間、それまで硬かった水が元に戻った。

 私だけが、水に沈んでいく。声を上げたはずなのに、あの人は振り返りもしない。

 聞こえていないのだろうか、聞く気がないのだろうか。

 もう、あの人の笑顔は、見れないのだろうか。

 水の中で、私の声は泡になって消えていく。


 目を瞑ったまま、意識が起きる。

 がたんごとん、がたんごとん。

 揺れる地面。

 考えるまでも無かった私は、目を瞑ったまま、電車の中をイメージする。

 今から私の視界に飛び込んで来る景色は、これだろうと。

 勢いよく体を起こすのと同時に、両目を開く。


 そこは確かに電車だった。

 だが、座席が無い。窓やドアは普通なのに、車内は濁りの無い白一色。

 窓が少し開いている隙間から、冷たい風が流れ込んで来る。

 車内を見渡して、珍しそうにしてみたが、後ろだけは向く気が湧かなくて。

 後ろを見ないように立ち上がって、前の車両に移ろうと歩く。

 がたんごとん、がたんごとん。

 一緒に足元も若干揺れる。

 前の車両をドアの窓から覗く。

 同じような車内が見えた。


 そういえば体が濡れていないな。

 何となく思って、ドアを開く。


 瞬間、私の足は砂を踏んでいた。

 灰色の砂。

 見渡す限り、灰色の砂で出来た砂漠。

 地を押しつぶそうとしている曇天。

 何て味気無い場所だろう。


 ただ、風だけが、いつも通りに冷たい。

 後ろを何となく見ても、電車の影も形も無い。

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