第4部
「アクティベーテッド」
その女の唇がそう囁いた。
俺は耳を疑った。おそらく、隣にいる角山もだろう。その言葉に国家安全保障に携わるものが戦慄しないはずがない。
「まさか。アクティベーターは?」
「本人です」
「理由は?」
「官邸でお伝えします。ご同行を。」
どうやら本当らしい。
「わかりました。」
「それと」
桜木警部補は少し体をそらして、壁の先を指差した。
「そこにいる橘さん、彼女もご同行願います」
さすがだ。一発で部屋のどこに隠れているのかを探りあてたのだ。
-八月九日午前九時頃 東京都港区 国道15号上
燦々と照りつける日差しの中、俺たちが乗せられた車はパトカーに先導されながら国道15号を北上する。パトカーに誘導されるため、道路交通法施行令13条が適用され、緊急車両として走行できる。そこまで緊急の要件ならヘリを使うという手段も考えられただろうが、撃墜のリスクを恐れての自動車での輸送だろう。
車は三田通りを進み、正面に東京タワーを望む。
「桜木警部補、ここまでする要件は一体なんでしょう?」
「私たちも何も知らされていないわ。おそらく官邸で初めて説明を受けることになるでしょうね」
助手席に座る桜木警部補が答える。
「特定秘密保護法ですか。」
「ええ、香織ちゃん、飴ちゃん、いるかしら」
そう言って桜木警部補は振り向きざまに橘に飴を差し出した。橘はどうも、と言って受け取った。
「ただ、言えることはこれは未曾有の事態よ。我が国初めての実効的な有事宣言がなされるかもしれない」
「治安出動ですか」
自衛隊法第78条に規定される命令による治安出動。それは一般の警察力を以ては治安を維持できないと判断された場合、内閣総理大臣の命令により自衛隊の一部又は全部に出動を命令できる。二年前のテロ事件でも治安出動は発令された。しかし、発令から失効までの期間が3時間と短く。使用された武器も12.7mm弾一発と実効性の伴ったものとは言えなかった。
「いや、それ以上かも・・・」
まさか、この警察官はそれ以上を考えているのか。そう思わせるだけの今の事態とはどのような状況だ?
-八月九日午前七時頃 東京都千代田区 首相官邸
車は首相官邸西玄関に入った。正面玄関に面する玄関ホールには首相動静を探るメディア
が詰めかけているからだろう。そう言った記者たちに扮して官邸の中に入る。
もうひとう、西玄関から官邸に入る理由がある。首相官邸は立地上の特性から正面玄関と西玄関では階層が違う。西玄関が1階分低くなっている。そして地下一階が内閣危機管理センターとなっている。目的地はその危機管理センターだ。つまり、西玄関の方が早く危機管理センターに到達できるのだ。
エレベーターで地下一階に降りる。地下一階のエレベーターホールには保安検査場が併設されている。まず、係員に身分証を提示する。次にミリ波スキャナーを通る。隣には手荷物検査施設がある。
「この子もお願いします」
後ろで、桜木警部補が橘にも検査を受けさせている。
「どうしてです? 一般人でしょう?」
検査を通った後、警部補に耳打ちで聞いてみる。
「アクティベーターの命令。」
どういうことだ? 彼女が何らかの形で関わっているのか?
コンクリート打ちっぱなしの廊下を進むと、黒い表札が目に入る。
『国土安全保安庁』
内閣総理大臣を長官とするこの組織は「対テロ非常事態対処法」に基づき設置されている。平時は、国土安全保安庁次官の元に運営されるが、内閣総理大臣が必要と判断した場合、招集令に基づき「対テロ非常事態対処法」で指定された機関が隷下に配置され総理に直接情報提供を行う。
「対テロ非常事態対処法」で指定された機関-対テロ特務機関-はさまざまな省庁に分散して配置される。その一部が情報作戦群や警備局制圧課だ。そのほかにもさまざまな機関が存在しそれらは全て内閣総理大臣の直轄で運用される。そして対テロ特務機関の招集を我々はこう読んでいた。
「アクティベート」。
部屋に入るとU字型のテーブルとその先、口の開いた側に大型ディスプレイが三面据え付けられている。官邸のワンフロア全体を使っており、体育館のように広い。部屋の中にはすでに多くの人間が蠢いている。
「対テロ非常事態対処法」成立後、一度も動かされていない施設。今これが稼働している。
俺はU字テーブルの右翼側に回る。角山が橘を連れてくる。
U字テーブルの両翼に三つずつデスクが並べられている。それぞれ各部署に割り当てられているのだ。
情報作戦群は真ん中に位置する。対して、警備局制圧課は反対側の根元側に位置する。
U字テーブルには各機関の代表者が座り、それを補佐できるような形で机が並んでいるのだ。
情報作戦群の机には見慣れた顔と、見慣れない顔が入り混じっていた。
「来たか」
初めに声をかけたのは内山一佐だ。
「神威!」
続いて駆け寄ってきたのは、東山と鴻上だ。
「状況は?」
申し訳ないが、今はそれどころじゃない。体を捩って駆け寄ってきたメンバーを掻い潜る。デスクにはPCと書類、それと証拠品と思しき物が散乱している。
何が起こっている?
「もうすぐ総理がいらっしゃる。それまで少し落ち着きなさい」
内山一佐とは違う、少し落ち着いた、しかし、威厳のある声。顔を上げると声の主がこちらを見ている。白髪の男、制服は濃い緑色、胸に菊を背景に五つ葉の白い桜をかたどった徽章。つまりこの男は-
「了解です。栗崎統合幕僚長」
実質的な自衛隊の最高指揮官、統合幕僚長。まさか、この場に出てくるとは。事態は相当切迫しているのか。
ふと後ろを見ると橘は呆然と立ち尽くしている。無理もない。ここは一女子高生の関わる場所じゃない。我が国の行く末の決まる場所なのだ。
「総理が入られます!」
この部屋唯一の部屋の入り口のそばから声が張る。各機関を代表する人間はU字テーブルに席に着く。俺たちのような事務方は机の周りで立ったままだ。
しばらくして、この部屋のまさに首であり頭である首相が入ってきた。
幸谷喜一内閣総理大臣。史上最年少にも並ぶ若さで首相の座についた男だ。決して引き締まった顔立ちではない上、少し平均よりも老いが顔に出ている。だが、その目はしかと目の前の現実と向き合っているようにも見える。
部屋の中が静まり返る。その場にいる、全員の足音が止まった。
静かに幸谷総理がU字の根幹に座る。両隣には鳥栖内閣官房長官と秋津副総理が控える。
「私から説明をさせていただきます」
口火を切ったのは市川情報本部長だ。俺はこの男に一度会ったことがある。情報作戦群の二階層上の上部組織、それが情報本部だ。陸海空、全ての自衛隊が手に入れた情報を集約する役目を持つ組織。そのトップは将クラス、つまり統合幕僚長と同階級の人間が割り当てられる。
「まずこちらをご覧いただきたい」
中央ディスプレイにwebページが映る。俺も、目の前のデスクから同じ資料を手繰り寄せる。
「これはMarineTrafficというサイトの一部です。MarineTrafficは船の現在位置を公開するサイトです」
正確にはMarineTrafficは自動船舶識別装置、AISの信号を元に位置、速度、指針、進行方向、回頭率、喫水、積み荷、目的地、到着予定時刻、そして現在の位置が公開されているサイトだ。ここを見れば大体の船舶の全ての情報がわかるようになっている。
「このサイトに日本標準時でおととい二十三時から未明にかけて以下のような表示が確認されました」
中央ディスプレイの表示が切り替わる。手元の紙には半分に割られた右側に同じものがある。
どうやらある船舶を追跡したものらしい。画像の左端から上端まで鉤括弧のような海岸線が続いている。これはどこだ。海岸線のすぐそば、画像の左上に「Rason」とある。まさか-
「これは、万景峰92の航行記録です。」
室内をどよめきが走った。それもそのはず、万景峰92は北朝鮮籍の船だ。万景峰92は彼の国のトップだった金日成の80歳の誕生日の記念に作られた旅客船だ。過去には新潟と北朝鮮の元山を結んでいたこともある。直近では、平昌オリンピックで彼の国の管弦楽団の輸送に使われた。
しかし、万景峰92のルートが明らかに不自然だ。羅津港を出港後沖合に出てすぐに帰ってきている。もちろん積荷は不明。
「このルートを見れば明らかな通り、不審な航路をとっています。次にこの画像をご覧ください」
俺はデスクの上の唯一の画像を手繰り寄せる。紙上には二つの画像が載せられている。
「この二枚の画像は光学衛星IGS-O-8によって撮影されたものです。場所はウラジオストク。時刻は右側がおとといの午後二十二時、左側が昨日の午前十一時です。注目していただきたいのはこの赤丸部分です」
赤丸部分。右側の写真では大型のコンテナ船が写り、左にはいない。つまり出港している。
「お分かりのとおり、右側の画像に写るコンテナ船が出港しています。しかし、この日、この港からこの時間帯に出港した船舶はMarineTrafficに記録がありません。MarineTrafficは自動船舶識別装置の信号を元に公開されます。そのため、事実として、コンテナ船は故意に秘密裏に出港したということになります。次に-」
そう言いかけた時だった。
「その自動船舶識別装置を停めていたということが言いたいのか? ならなぜそれが問題なんだ? 」
声を上げたのはU字の開口部、俺たちの反対側に座る石丸国土交通大臣だ。
呆れた。お前は国交省の人間じゃないのか。なら、本来これはお前の管轄だろう。
「『海上における人命の安全ための国際条約』では国際航海に従事する総トン数300トン以上の船舶、および国際航海に従事しない総トン数500トン以上の船舶に自動船舶識別装置の設置義務を規定しています。話を戻します。続いてこちらをご覧ください。」
手元の紙を裏返す。こちらにも画像が印刷されていた。
「こちらはレーダー衛星IGS-R-6により撮像された画像です。」
白黒の不鮮明な画像。明らかに合成開口レーダーが捉えたものだ。そもそも、日本の情報収集衛星には二種類ある。光学衛星とレーダー衛星だ。光学衛星はその名の通りカメラなどの光学機器を用いて情報を採集する。一方、レーダー衛星は合成開口レーダーを用いて情報を採集する。もちろんこの違いは採集されたデータにも現れる。光学衛星は分解能が25cm級なのに対してレーダー衛星は分解能が50cm級だ。
画像に目を落とす。白い影が二つ、黒い背景に浮かび上がっている。白い影は大きさは違えどどちらも細長い。そして接するように並んでいる。
「これは万景峰92がUターンした地点を我が国の衛星が偶然捉えたものです。おそらく船体のサイズ、形状からして、画像左側の白い影が万景峰92、右側が先ほどのコンテナ船と思われます。このことから我々は万景峰92が公海上で瀬取り行為に及んでいると分析しました。」
瀬取り。それは本来、浅瀬に侵入できない大型船から小型船に積荷を移して陸揚げすることを指す。だが、現在、多くの諸外国、そして我が国の政府認識では「公海上で、違法に物資の積み替えを行うこと」とされ、その目的は違法な物品の密輸入、ひいては北朝鮮の経済制裁逃れとされる。
「そして、我々の分析では瀬取りの荷物は相当大型の物品、それも何らかの兵器ではないかと考えています」
そう考えるにたる根拠は明白だ。瀬取りは通常石油を主要品目とすることが多い。そのため瀬取りの主役はタンカーが自然と多くなる。だが今回は旅客船だ。わざわざ積み替える荷物はおそらく、大型の兵器である可能性は否定できない。
「なぜそれそれを官邸に上げず、今の今まで放っておいたのだ!」
声を荒らげたのは鳥栖内閣官房長官だ。黒縁眼鏡と右分けの前髪。元々外務大臣だった男だ。
いつものことだ。情報提供者と政策決定者の対立。あくまでも情報提供者は官僚、自己保身のために情報を出し渋ったりする。もちろん市川はそんな卑しい人間じゃないのは百も承知だ。
それでも、彼の与えた情報によっては自分の身どころか、政府が憲法議論の槍玉に挙げられることにもなりかねないことを理解しているはずだ。一方、政策決定者は明確な情報を欲する。それが無ければ自分の進退に関わる決断をできないからだ。
だが、今回は市川情報本部長に白星が上がる。理由は単純だ。
「何もできないからです。」
「は!? 」
「今回の事案が発生したのは公海上とはいえ、ロシアのEEZ、排他的経済水域内のことです。」
ここで言いたいことはこうだ。自衛隊に対し自衛隊法第八十二条に規定される海上警備行動を発令し、海上自衛隊を出動させる方法も法律上は取ることができた。だが、場所はロシアのEEZ。明らかに敵対行為と見做される上、瀬取りを行っていた業者がロシア国内にいることはもはや明確な事実だ。
彼の簡潔な回答に鳥栖官房長官はあっけに取られている。
「その上で話を進めます。それでは本題の今日未明の事案についてです。防衛、法務、警察の各省庁のシステムがハッキングされ、全関係者に以下のようなメッセージがお送られました。」
さっきまで手に持っていたプリントを滑らせ、別の紙に手を向ける。メーラーのスクリーンショットだ。
『日本国政府各位
一週間以内に橘 香織たる人物の身柄をこちら側に引き渡せ
もしこの言葉が聞き入れられていないと判断された場合、大量破壊兵器を国内で使用する』
簡潔で整ったメッセージ。それは市川が読み上げたのと一致している。顔をあげ、橘の方を向く。緊張と不安、いや、ここで名指しされたことへの呪詛のような感覚なのか、体が反応していない。
逆の方に目をやる。U字の根元側、僕らから見て反対側に座る桜木警部補がこちらを見ている。こちらを見たまま唇を動かす。
『ひとくしろ』
赤いリップクリームは目立つがこういう時には便利だ。彼女の唇はそう動いていた。
すぐに市川に目線を向ける。わかっているとばかりに市川は頷いた。
「我が国では人質の交換についての明確な法的条文はありませんので、ここでの議論は差し控えさせていただきます。」
うまく交わしたなと思った。実際、総理に法律の詳細について教授するのは防衛省の人間ではなく、法律のプロ、内閣法制局の人間がすることだ。
「ここでは、大量破壊兵器についての議題に収めたいと思います。」
「君の言い分では、北朝鮮の関与を示唆しているようだが、その橘香織という人物を追っていたテロリストはロシア系という話ではなかったのか?」
少し責め立てるような口調で尋ねるのは秋津副総理だった。少し垂れた顔からはどことなく老いぼれ感を感じるが、目もとは睨むように強い。
「申し遅れましたが、このメッセージの送信者についても報告があります。」
「それがロシア系のテロリストではないというのかね?」
「ええ、『吉良川孤月』と」
部屋中が一気にどよめき立つ。さっきとは桁違いにどよめく。だが俺たちにはわからない。もちろん、この報告をした自衛隊の面子は反応は示さなかったが、内山一佐の顔を覗くと、並々ならぬものがあるのを感じた。吉良川孤月というのは何者だ?
「ともかく、この部屋で情報を私が提供できるのはここまでです。」
「ちょっと待った!貴様、さっき『大量破壊兵器についての議題に収めたい』と言ったよな! あれはどうなったんだ!」
またも声を上げたのは秋津副総理だ。
「少なくとも、我々は情報を掴んでいません。ただ、・・・」
「貴様あれほどの口を叩いておいて、自分は何も知りませんと言いたいのか!」
「違います!私はただ、確定に近い分析を報告しているだけです。ただ、・・・」
「ただ、なんだ?」
「ただ・・・私個人の憶測としては総トン数一万トン近くの船にたった一つの大型兵器を載せるとは思えません。おそらく、大型兵器をいくつか搭載しているものとみるべきかと。」
『私個人としての憶測』。その言葉で市川は保身に走った。だが、この情報は議場を静まり返すには十分だったらしい。皆が想像する最悪の事態。それは北朝鮮に搬入された大型兵器が大量破壊兵器だったとして、それを繰り返し使うことが彼の国に可能だということだ。
「他の機関からの報告は?」
はじめて彼が口を開いた。まだ若い総理が重い口を開いたのだ。
「公安調査庁からです」
挙手があがったのは自分の背後、自衛隊のデスクの隣、法務省からだ。
公安調査庁は本来破壊活動防止法に基づいた調査活動を行う組織だ。そのため司法警察権は待たず、強制捜査権だけで調査を行う。ただそれだけでも十分な規模を誇っている。オウム真理教関連の調査から北朝鮮工作人のマークまで担当する範囲は手広い。
デスクからU字テーブルに男が駆け寄る。まだ若く髪は逆立っている。着ている紺色パーカーの後ろには「公安調査庁」の白抜きの文字が入っている。
「公安調査庁特殊事案対応課の桐谷です。」
男はU字テーブルに前のめりになりながら名乗り出た。
特殊事案対応課。いままで司法警察権を行使できなかった同庁の中で唯一司法警察職員として逮捕権などを持つ部隊。銃器の取り扱いについても許可されている。これらは過去に公安調査庁に付与されることが議論されてきた権限だ。「対テロ非常事態対処法」により、その一部に権限を付与する形となった。
「我々は事前に自衛隊情報本部からもたらされた情報をもとに国内の『土台人』の査察を行いました。結果として、在日朝鮮人系の『土台人』に動きはありません。このことから、テロリストが北の支援を受けていることは否定できます。」
『土台人』は国内における他国の工作活動の協力者を指す。主に在日朝鮮系が多く、公安調査庁や警察が動向を監視している。
「警察庁警備局の勝間です」
次に手を挙げたのは警察庁の勝間警備局長だ。警察庁警備局は日本最大の情報機関と言ってもいい。警察の広域なネットワークと活動実績は日本有数だろう。
警備局内には元来、主に二つの部署が存在した。警備企画課と外事情報部だ。警備企画課は全国の都道府県警に属する公安警察に対して司令塔の役割を果たす。外事情報部は国内におけるスパイ活動の取り締まり、つまり防諜を担当する。
その警備局に新設されたのが制圧課だ。常時から警備企画課や外事情報部の情報をもとに、重大事案を引き起こしかねない組織を監視、ことが起こる前に制圧することが目的だ。その最大の利点は自衛隊と違い、常時から警察法、警察官職執行法に則った武力行使が可能な点にある。
「8係の情報では、ロシア大使館から不審な通信が確認されています。ただ、暗号化されており、解読に時間がかかりそうです。また-」
外事技術調査室、通称、8係は外事情報の収集を行う通信傍聴機関、つまりSIGINT機関だ。古くは戦前から存在し8個の通信所で傍聴をおこなっている。
淡々と報告を行う警備局長の隣で桜木警部補がまた口をおごかす。
『かくまえ』
すぐにテーブルを離れる。後ろに座り込む、橘の手を取る。引く手が重い。明らかに体が反応していないのがわかる。
無理にでも引きずるようにして、入り口の近くのドアを開ける。
ドアの先は宿泊室だ。緊急時、さまざまな部署の人間を収容できるようになっている。週少人数は二百人を超す。ドアを開けると通路になっており、奥から両側に二十ものドアが連なる。
手前のドアの不在票を『在室』に切り替え、開く。
それぞれのドアの奥には二段ベッドが五人分配置され、その奥にはデスクと小さなシャワールームが備わっている。部屋はさっきまでの廊下と違い木目調に統一されている。電球の色も暖色になっている。
「しばらくここにいろ」
とりあえずは橘をここに放り込んでおくしかない。
「ちょっと待って! 私はこれカロどうなるの!? 」
部屋を出ようとする俺に橘が問いかけてくる。その様子だと随分焦っているらしい。
「それは国政が決めることだ。」
「意味わからない! 一人の人間の命をなんだと思ってるの!?」
「じゃあ、広島型原爆での被害者は何人だと思う?」
俺は握っていたドアノブから手を離した。そして彼女は黙り込んでいた。
「十四万人だ。」
「だからって、一人の人間を犠牲にしていいわけがない! 」
「俺だってそんなことは言いたくない! 」
その時、ドアが軋む音がした。顔を覗かせたのは内山一佐だ。
手招きしてこちらを呼んでいる。
「とにかく、今はここにいろ」
そう言い放って部屋を出た。
連れられてもといた会議室の戻ると、会議は最終段階に入っていた。
それは国家安全保障会議の招集についてだ。
簡単に言えば国土安全保安庁は国家の『脊髄』に過ぎない。危険な状況をある程度回避するための脊髄反射。それが国土安全保安庁の役割だ。しかし、危機的状況が目前に迫り、大規模な武力行使の必要性に迫られたとき、それは一度『脳』で考えるしかない。つまり、閣議を開く必要がある。そして、国家安全保障の最高決定閣議は国家安全保障会議だ。
「総理、あくまでも慎重な判断を」
念を押すのは鳥栖官房長官だ。
政策決定側はこの事案を後手に回すことにしようとしている。
理由は明確だ。この事案をどう片付けるにしても政府判断が槍玉に上がることは目に見えている。対テロ非常事態対処法が成立したとはいえ、我が国の国防政策には依然として課題が残っている。一つは、米国との歩調を合わせること。9.11以降米国は「テロとの戦争」を宣言し、「テロリストと交渉しない」という姿勢を保っている。二つ目は、憲法九条だ。交戦権を否認した憲法九条により、自衛隊に認められるのは必要最低限の自衛のための武力行使にとどめられる。
この二つの議題が拮抗しているのが現在の国家安全保障の課題だ。
「恐れながら総理、国家安全保障会議は緊急で開かれるだけではありません。予防的な措置としても開催することができます。」
明確には述べていないが開催を迫ったのは野田防衛大臣だ。
彼のいうことは事実に近い。実際、防衛議論の中心を何度も担ってきたのは国家安全保障会議だ。
「だが、不用意に国民の-」
「もういい」
反論しようとする副総理を止めたのは総理だった。若いながらも、今までの総理とは違う、リーダーシップを示しているようにも見えた。
「官房長官、明日の五時に国家安全保障会議を招集してくれ」
「朝のですか!? 」
「くれぐれもメディアに気づかれないよう」
「わかりました……」
副総理がなぜか市川を睨んでいる。公務員如きが、とでも思っているのだろうか。
延々と続く政策決定者と情報提供者の対立。もっと言えば閣僚と官僚の対立に近しい。これは日本の政治によくある問題だ。
だが、今、それを議論する時間はないはずだ。
「全員集まれ」
会議が終わったあと、俺たちに集合をかけたのは内山一佐だった。
会議後はほとんどの機関でそれぞれのテーブルに戻っていった。もう一度調査活動を洗い直し、国家安全保障会議に挙げる資料を整えるためだ。
「三年前のテロ事件について説明する」
そう言って内山一佐は三年前のテロ事件いついて語り始めた
-三年前、当時存在していた内閣情報調査室。その情報調査官がクーデターを企てた。それは各国情報機関と協力して戦争を起こし、世界秩序を再構築するというものだった。
それに気づいた警視庁公安部は現場の差し押さえとして関西空港を強襲、当の情報調査官率いる武装集団と衝突した。
武装集団のメンバーは北朝鮮ゲリラが多く、そのほとんどが政治的意思を持っていた。実際、占拠された空港からの工作員浸透や、阪神工業地帯への砲撃が図られた。
結果として、海上警備行動による巡航ミサイル攻撃と治安出動令での一発の銃弾により、関西空港の占拠は解かれた。また、国内に浸透した工作員も特別法により一年前に殲滅を完了している。もちろん当の情報調査官も射殺済み。-
「では『吉良川孤月』とは何者です?」
俺は内山一佐がこの場で俺たちに二年前の話をしたのはこのためだと確信していた。彼は無駄な話をわざわざするような人物じゃない。常に自分の部隊の外と内に気を配って行動する人物だ。
ニュースで流れる程度の情報をわざわざ皆の前で話すなんてことはしない。
「吉良川孤月は二年前の事件の首謀者だ。」
「しかし、一佐、首謀者である情報調査官は射殺されたはずでは? 」
尋ねたのは東山だ。
「情報調査官はそう名乗っていたが本人ではないことが確認され、吉良川孤月は別の人物で消息不明だ。」
「では、なぜ、その調査官は吉良川孤月の名を語ったのでしょう? 」
「それもわからない。何せ、本人はもう既に死んでいる」
国内初の政治犯が今もまだどこかで存在し、未だに活動を続けている。
そして、そいつはまた姿を現した。
「これは俺の予測だが、おそらく『吉良川孤月』は人物ではない。集団、組織、そして何らかのシステムだ。そして君たちが対峙することになるのは、今まで我が国に現れなかった未曾有の脅威だ。」
内山一佐のその言葉には重みがあった。事実、二年前のテロ事件まで発生の兆候をほとんど見せず、発生後も跡形もなく姿を消している。
俺たちの相手はそいつなのだ。
-同日午後零時 東京都千代田区 首相官邸四階
「神威、お前が国家安全保障会議に出席しろ」
わざわざお手洗いに呼び出したかと思えば、内山一佐がそう告げた。
「なぜです?」
「任務の内容に上官の理由を聞く必要があるのか?」
「それでは軍隊式に命令を聞けと言ってるのと同じです」
「自衛隊は軍隊だ。」
「自衛隊は軍隊じゃない!」
俺の反論が響き渡る。
「話を戻そう。そこまでして出たくないのか。」
「そもそも、俺をこの件から外すべきかと」
「なぜそう思う? 」
「私情を挟みかねないからです」
「だがお前に必要なことだ。」
必要? 今更この男は何を言いたい?
「とにかく、お前が安全保障会議に出席しろ」
一佐はそう言うと、俺の肩をかすめて出ていった。
この世界の人間を切り分けてもクソしかのからないのか。一人心の中で愚痴をこぼす。
明らかに事態が政治の領域に変化している。これは明らかに俺の関われる領域じゃないはずだ。
俺の身分は一等陸曹で幹部自衛官じゃない。確実に俺を政治の駒にする腹なのは察しがつく。
洗面台の蛇口をひねる。流れ出る水を手ですくって、顔面に打ち付ける。
俺がすべきことは何だ? あくまでも政治の領域で政治のコマにならないために、俺はどううごくべきだ? 幸いにも、俺にはその権利が与えられている。情報作戦群の一員として、総理への直接報告ができるルートを持っている。だけど、それは政治じゃない。
俺は鏡に映った自分の顔を睨みつける。
決して政治のコマになってたまるか。その決意だけははっきりとしていた。ただ、それに見合うだけの実力はない。政治は強権的なシステムだ。本気を出せば一人の人間の命など簡単に握りつぶせる。俺はその一部になる気はない。だが、それに飲み込まれないようにするだけの力などない。それが何よりも悔しい。
前髪から、水滴が滴り落ちる、
-翌日八月十日午前零時 北緯三十八度二分五十六秒 東経百三十五度八分四十九秒 日本海上
護衛艦DDG-175「みょうこう」CIC
海上自衛隊護衛艦隊第三護衛隊群第三護衛隊所属、艦番号DDG-175、「みょうこう」は海上市営隊のミサイル護衛艦の一つで、イージスシステムを搭載している。総排水量9485トンにも及ぶこの船の中核をなすのがCICだ。
CICの真ん中で、砲雷長、御室隆之一等海尉はいた。現在「みょうこう」は防衛省設置法に基づく、調査・研究目的で母港の舞鶴から出港している。突然の招集と出港命令。理由を聞かされたのは出港してから二時間後、今から三時かほど前のことだった。
北朝鮮の武器の瀬取りを監視しろ。その命令に基づき公海上に護衛艦を派遣している。国連安保理決議2375により、国連加盟国は北朝鮮に瀬取りを取り締まる権利があるのだ。
御室がゆっくりと席に腰掛ける。
その時だった。
「JADGEシステムより、佐渡のレーダーサイトが飛翔体補足!」
JADGEシステムは航空自衛隊の運用する早期警戒システムだ。佐渡には弾道ミサイル防衛に一角を担うレーダーサイトだ。そこには弾道ミサイル対処能力を持つJ/FPS-5A、通称ガメラレーダーが配備されている。まさかとは思うが。
ふと席をたつ。
「本艦のSPY-1レーダー、飛翔体を探知!」
レーダー画面にミサイルの軌跡が映し出される。おそらく、発射地点は北朝鮮の舞水端だろう。ゆっくりと高度を上げる飛翔体。北朝鮮からの飛翔体は年に何十発というペースで打ち上がる。
だがレーダーサイトに映し出されるそれの軌道はいつもとは違う。明らかに日本海側にずれている。
御室はすぐそばにあるマイクを手に取った。コードを引き伸ばしマイクを口元に近づける。
だが、その必要はなかった。
「対BM戦闘用意」
CICに入るその男が告げた。艦長の如月一等海佐だ。
「は! 対BM戦闘用意!」
海上自衛隊には自衛隊法第八十二条の三に基づく弾道ミサイルに対する破壊措置命令が常時発令されている。この飛翔体のこの軌道は日本国内に落下する恐れがある。
「対BM戦闘用意!これは訓練ではない!これは訓練ではない!」
鳴り響くサイレンと号令。バタバタと、艦内で乗組員が準備を始める。「訓練ではない」という言葉が館内に響き渡る。過去一度もスピーカーから流れたことのない言葉だった。
御室もヘッドセットを被る。これは自分の経験した中でも最悪の事態だ。弾道弾は落下するだけでも相当なエネルギーを持っている。その落下を防げるのかどうかは自分の指揮にかかっている。
「イージスシステムをBMDモードに移行、『ふゆづき』に連絡」
対空戦闘武器システムであるイージスシステムは弾道ミサイル防衛、BMDを担うことができる。だが、BMDに対応中は他の対空目標には脆弱になる。そこで僚艦の「ふゆずき」に対空防衛を頼む。
「目標、トラックナンバー01、以後目標をαと呼称」
「イルミネータ、スタンバイ!」
「全部甲板VLS、セル一番から八番、SM-3装填確認!」
「セルハッチ一番から八番、開放!」
淡々と迎撃準備が整っていく。訓練の通りの手順。だがその場にはなんとも言えない雰囲気が漂っている。緊張のようでありながら、焦りの混じった雰囲気だ。
「対空戦闘! CIC指示の目標! SM-3攻撃始め!」
「了解、セルハッチ一番から八番、SM-3撃ち方初め!」
「SM-3、コメンスファイヤ! 撃て! 」
船体が少しだけ沈む。前方の甲板に設置されたVLS、垂直発射装置から八発のSMー3ミサイルが放たれた。
「本艦のSM-3、目標に対し正常に飛翔中、インターセプトまで十五秒!」
SM-3は弾道ミサイルの弾道上最高点付近で命中するように飛翔する。もし、最高点で迎撃できなくとも残りのミサイルで迎撃できるはずだ。
「初弾、インターセプトまで5、4、3、……」
レーダー上の二つの輝点が重なる。
「ターゲット、サーバイブ!」
ターゲット、サバイブ。目標の撃墜に失敗している。だが残りのミサイルで対応できるはずだ。
「目標、増速して、下降中、第二弾、インターセプトまで5、4、3、……」
またも輝点が重なる。
「ターゲット、サーバイブ!、目標、対地速度マッハ20に到達! 」
マッハ20?明らかに増速のペースがおかしい。
一度、ハワイ、カウアイ島沖の太平洋ミサイル試射場での試験に参加したことがある。
あの時の模擬弾道ミサイルでさえ、撃墜直前の速度はマッハ6だ。
「第五弾、インターセプトまで5、4、3、……」
レーダー要員の声に焦りが入る。
「ターゲット、サーバイブ!、目標、軌道変化! 」
「どう変化した!」
思わずレーダー画面を覗き込む。鉛直面のレーダー画面。起点は、海面に滑り落ちるようにゆっくりと軌道を変えている。シースキミング軌道。レーダーから隠れるように水面スレスレを飛ぶミサイル軌道だ。この速度で、この軌道を飛ぶのは間違いない。
「最終弾、インターセプトまで5、4、3、……。ターゲット、サーバイブ……。目標の撃墜に失敗しました……。」
レーダー要員の声が焦りから失望に変わった。レーダー上で起点がゆっくりと、本州に近づく。
その様を、CICにいる全員がただ、眺めている。この位置関係ではこの船はどうすることもできない。
「艦長……」
「千歳の第三高射群に連絡、市ヶ谷にも上げろ」
「は……」
ゆっくりと、ヘッドセットに手をかける、
俺たちができるのはここまでだ。いや、元から何もできなかったかもしれない。
こうなった以上、そうかどうかだけは確かめさせてもらおう。
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