第3部
ー三日後 八月四日
それから数日間、私たちはこのホテルで暮らすことになった。初日、私は昼まで寝ていた。起きると窓際で角山くんが本を読む隣で、神威がライフルを構えていた。
「何を読んでるの?」
私が角山に尋ねたのに、答えたのは、神威だった。
「スナイパーデータブック。今までの狙撃記録とか銃の諸元とかを記入して集めてある」
「だってさ」
角山君が補足するようにいう。
食事は別の人が届けてくれた。おそらく自衛隊の人だろう。
中身はホテルのレストランで作られた物らしい。翌日聞いてわかったことだが、最初はコンビニ飯を食べるつもりだったらしい。ただ、不健康すぎるのと安全面での危険性から避けたそうだ。
ライフルを構えるのは監視のためらしい。監視番は角山君と神威が交互に担当していた。
寝るときは私と神威が同じベットで寝ることになっていた。少し心配だったが、神威はそういうのには興味がないのか私に背を向けて寝ていた。神威がきていたパジャマがわりの白い半袖シャツがなんとも寂しげな気がした。
二日目も特段何もなかったように感じる。外出は禁止されていたが、Wi-Fiはホテルのものではなく持参したものを使うことができ、特に不快感はなかった。
その間にも捜査は続いていたらしい。角山君と神威が時々交わす会話からいくつかわかったことがあるらしい。
一つは、警備会社のサーバーに不正アクセスの痕跡があるらしい。そこからカメラ映像が漏れているようだ。
「でも、防犯カメラから隠れるように動いたじゃん?」
「いや、京都駅で二ヶ所の防犯カメラに俺たちの姿が写ってる」
申し訳ない、と神威が頭を下げた。仕方がない、というのが私の正直な気持ちだった。いつかはどこからか漏れると思っていたのも事実だ。
もう一つは、京都府警に内通者がいる可能性が上がっていた。明らかに公安と自衛隊の意思疎通を妨げる動きを公安側が示しているそうだ。
「ちょっと待って。あなたたちの口ぶりだと、犯人が誰かわかってるように聞こえるけど……」
私がそう聞くと、二人は顔を見合わせ、重い口を開いた。
「僕たちがつかんでいるのはある僕たちの監視下にあったテロ組織が京都会館での劇物散布テロを行い、その被害者である君を襲った、ということだ」
答えたのは角山君だった。その顔は初めて会った時よりも深刻そうな顔をしていた。
「ただこのテロ組織について所在が不明であり、背後にロシア政府がいる可能性が高い。今、警察や公安調査庁、俺たち自衛隊に外務省も追ってる。けど、その内部に内通者のいる可能性が高い。そういう話。」
深夜、ふと目が覚めると神威が起き上がっていた。どうにも角山と監視番を変わるらしい。ベッドに座っている神威の体が間接照明に照らされる。ふと気づいた。
毛が無い。
正確には体毛が一切ない。体が白く、腕や脛にも一切毛がないのだ。
彼がベッドから離れ、ライフルの元に着くとき、その白さが、消えていく幽霊のように見えた。
三日目。日中は昨日と同じような日々だった。ベッドに転がりながら動画サイトを眺める。ネットサーフィンをしたり、テレビをつけたり。まるで日曜日のようだった。
しかしそれが起きたのはその日の夜だった。
初めは何もなかった。神威はいつも通り背を向けて寝ている。私も目を閉じてしばらく寝ていた。だけど、明らかに様子が違う。神威の呼吸が激しい。寝返りを打って神威の背中を見ると肩で息をしているのがわかる。ゆっくり起き上がって、そっと顔を覗き込む。眉を顰めている。悪い夢でも見ているのだろうか。肩を叩いて起こそうとしたその時だった。
「来るな!!」
飛び起きて、枕元に置いてあった拳銃を構え始めた。しかし、拳銃を構えた先はテレビ画面で誰もいない。なのに彼は鬼気迫る表情をしている。冷や汗が滝のように出ているのがわかる。
「来るな……!来るな……!!」
まるで何かに追われる様。
「神威!」
私が呆気に取られていると、異変に気づいた角山君が神威に近づいた。その時だった。
「死人はもう黙ってろ!!」
神威が素早く角山に拳銃を向け、引き金を引いた。幸い、弾は出なかった。しかし、神威は何度も引き金を引いている。
「神威!落ち着け、神威!」
神威が引き金を引くたびに部屋中に軽い金属音が鳴り響く。角山が少しづつ近づく。
「黙れ!」
その言葉の直後、角山が神威の拳銃を構える手を上にむけ、そのままベッドに押し倒す。
「やめろ!離せ!死に損ないが!」
神威が罵声を浴びせながら足をバタつかせている。
「橘さん!腕押さえて!僕、足をさえるから!」
「は、はい!」
私が腕を押さえる。抵抗する力が強い。さすがは自衛隊員だ。だけど、ここで離すと確実にまずいことが起きるのはわかっていた。体重を両腕にかけて無理やり押さえつける。
不意に神威の顔が近づく。角山君ほどでないにしても、顔がいいんだなと、その場にふさわしくないことを思ってしまった。
「落ち着け!目ぇ覚ませ!神威!」
「離せ!クソが!」
神威は叫びながらまだ抵抗する。なんでこんなに体力があるのか。
「幸四郎!落ち着け!」
不意に抵抗する力が弱まる。
「幸四郎?」
私が釣られてそう尋ねる。神威の顔を改めて見て気づいた。
彼は泣いていた。
「かあ……さん……?」
彼のそう尋ねる目には涙が浮かんでいた。私の手から、神威の腕がスルスルと抜けていく。
「……母さん……!」
そう言いながら彼は私の首に手を回す。後ろ髪をかきあげるように首を引き寄せてくる。その姿はまるで-
「離れて」
そう言ったのは角山君だ。今気づいたが、昨日よりも深刻そうな顔をしている。私が離れると、彼は神威の胸ぐらを掴み、手のひらを振り上げた。二発ほど神威の頬にビンタを食らわせる。
「起きろ!」
三発目に入る前に、角山の腕を神威が止めた。もう一方の腕で角山君の服を掴んで体を持ち上げ立ち上がる。
「大丈夫か?」
角山が心配そうな顔で神威に問いかける。
「ああ、悪い。本当にすまない。」
口調はいつもの神威だが、疲れ切った顔をしている。
「薬は飲んだのか?」
「まだ飲んでる。少し水を……」
「辛かったら言えよ」
そう言って、角山が神威の背中をさする。
私は唖然とした。神威はいつもならあまり感情を出さないはずなのに。しかし、これは感情ではない気もする。それはまるで何かに取り憑かれたような、そんな気がする。
疲れたのか、私はそのまま崩れ落ちるように寝てしまった。
翌日起きると、神威はいつものごとくライフルを構えている。角山君の姿が見えない。おそらく、洗面所で顔でも洗っているのだろう。
「おはよう」
「うん……」
いつものぶっきらぼうな返事だ。
起き上がって、洗面所に向かう。ドアを開けると、角山君が歯を磨いていた。
「あ、おあお、おおいあお?』
歯ブラシを咥えたままで話すのでよく聞き取れない。が、大体何を行っているのかはわかる。
私はドアを逆手で鍵をかける。角山君は気づいていないのかキョトンとした顔をしている。
「ねえ」
「ん?」
「昨日の神威は何?」
角山の顔色が変わる。神妙な顔つきだ。口から歯ブラシをゆっくりと引き抜く。
「僕が言える話じゃないよ」
口を濯ぎをえた角山がそう言った。
「なんで?」
「うーん、理由はねえ……」
そういうと、角山君はシャツを脱ぎ始めた。
だけど、あらわになるのは綺麗な白い肌ではなかった。
角山君の体の肌が何箇所か変色している。青くなったり、黒ずんでいたりする。赤く腫れ上がっていたりもする。極め付けは左肩の付け根から右の腹部にかけてミミズ腫れの様なものが走っている。
「これ……何……?」
私がその傷をじっと観察しながら尋ねる。
「昔、小二の頃だったかな、その時に親にナイフで切りつけられてできた」
「え?」
「児童虐待だよ」
角山君は一息置いてこういった。その単語は知っているし、聞いたこともある。だけど、実際にその痕跡に触れるのは初めてだ。
無数の傷をまとった角山君は何か少し達観した様に話し出した。
「どうにも母親は俺がチヤホヤされることが気に入らなかったらしい。それでストレスのはけ口に殴られてた」
「誰にも相談しなかったの?」
「それが普通だと思ったんだ。一種の躾だと。小三の時に学校の先生に見つかって児童相談所に受け渡された。その後は児童自立支援施設に入った。神威と会ったのもそこだよ。」
「神威も、虐待で?」
「ううん、彼は違う。けど、あまり深く聞かない方がいい。僕みたいに言えるものじゃないから」
そういうと角山君は肩に手を置いて洗面所から出ていった。
私は顔を洗いながら、神威のことを考える。
角山君は神威が児童自立支援施設にいたと言っている。なぜ? 虐待ではない、自立に支障の出る何かを抱えている? それが自衛隊に入った動機、「贖罪」? 彼の中身は一体、何?
撓りで顔を拭き、洗面所を出ると、神威はパソコンに向かい、角山君がライフルを構えている。
監視番を交代したのだろう。
私はベッドに寝転がってスマホを手に取ろうとする。視界の横から白い手が伸びる。神威だ。
顔を上げると神威の顔はまるで温度を失っていた。
「昨日はごめん」
彼の青紫の唇が動く。そういうとすぐに、パソコンの前に座り直した。その背中はまるでPCの中に入り込もうと、いや、逃げ込もうとしているかの様だった。
夜、今度は神威に監視番が回っていた。私がシャワーから上がると彼は窓際の椅子に座って品川の夜景を眺めていた。パソコンに向かっている角山君に声をかける。返事をするとすぐにシャワーに入った。私は神威と向かい合うようにもう一つの椅子に腰掛けた。
神威もそれに気づいたのか、こちらをチラリと見た。が、すぐに窓の外に視線を戻した。彼のシャワー上がりの濡れた前髪が眉間に一筋垂れている。顔色は良くなっていた。だけど、その横顔から少しの哀愁を感じる。
私も窓枠に腕を突き立て、頬杖をつき、外を眺める。時折流れる電車の光が尾を引いていく。隣のビルはまだ明かりがついている。
「ねえ」
私はふと尋ねた。
「神威はなんで自衛隊に入ったの?」
「贖罪……だよ」
あの時と同じ答えだ。だけど口調が疑問から断定へと変わったいる。
「贖罪って誰への?」
「国家」
言い切る様なその口調はまるで忠誠を示しているようだ。
「国家に何か反する様なことをしたの?」
「人は犠牲を見たくはない。」
「は?」
「犠牲を見たくはないから、裏に隠す。見えないふりをする。その集合体が国家だ。人間の生活の犠牲を国家が背負う。俺はその犠牲を背負わせた。」
「児童自立支援施設にいたから?」
私が尋ねると、彼は首を縦に振った。
「じゃあ、何で児童自立支援施設にいたの?」
だけど、この問いには答えない。でも、彼は答えの代わりにこういった。
「俺は国家に忠誠を誓うことしかできないから……」
そういうと彼の一筋の前髪が少し振れた。どうにもこの男は『国家』に執着があるらしい。
「質問変える。あなたのいう『国家』って何?」
「国家とはシステムだ。犠牲と利益のシステム。国民はその構成員でしかない。」
「つまり、あなたが守りたいのはシステムな訳?」
「そう、システムは構成される限り動き続ける。国民とは置き換え可能なアセットでしかない」
さっきからのこの口ぶり、まさか彼はこんなことを思ってなどいるまい。
「あなたは日本人がみんな死んでも構わないと?」
「ああ」
そのまさかをこの男は考えているらしい。
「この国のシステムは優秀だ。何が起きたとしても動き続ける。」
彼はこちらを見て答えた。まるで皮肉めいている。
「でも日本は民主国家……」
「では何故ヒトラーは生まれた? 民主国家が国民の意思という内実から反し暴走する例ならいくらでもある。歴史の図書館はそれでいっぱいだ。」
彼は静かに立ち上がった。
「いいか!日本の民主制は終わりを迎えている。八十年間戦争を『見ようともしなかった』せいでな!そのことも知らず『民主主義万歳』などとほざく無知な人間など守るに値しない!」
無知とは随分な言いようだ。そこまでいうなら私もいうことは言わせてもらおう。私も机を叩いて、席を立った。
「何!?あなたは私が守るに値しない人間だって言いたいわけ!?いいわ!あんたみたいなクソ野郎になんて守られたくもない!」
これ以上こいつに言いたいことはない。私はもう彼の顔など見たくもなかった。私はそっぽを向くと足早にベッドに向かった。途中シャワーを浴び終えた角山に声をかけられた。
「どうしたの?」
「何でもない……」
そう返す声に泣きそうな感情が含まれていることが自分でもわかった。
私はベッドに潜り込んだ
ああ、多分今、とても醜い顔をしているのだろう。
私はひとりだ。叔父も叔母ももういない。親は出張で遠くにいる。守ってくれる人も自分から捨てたのだ。
涙が一筋こぼれ落ちていく。
翌朝、俺が起きるとそこに橘はいなかった。
角山は慌てていたが、俺には原因はわかっている。昨日あんなことがあったのだ。
しかし、本気でそう思っているとは思わなかった。確かに、言い位すぎたなと思うところはある。それは後悔している。だからと言って、本気にはされていないと思っていた。
「カムちゃん、ずっと一緒だからどこにいるか当てられるでしょ?」
角山が俺に尋ねてくる。
そうは言ってもほとんど会話したことのない相手だ。どこにいるのかなんてわからない。それでもある程度の検討をつけることはできる。
橘が京都会館で発表しようとしていた内容はある鉱石に関するものだ。その発表の出だしは確か…
「真珠の耳飾りの少女」
-同日十二時 国立西洋美術館
スカートの裾を翻しながら、私はその建物に足を進めた。雑踏の中、ル・コルビュジエの建物に入る。シックな黒い壁に沿って歩き出す。
館内には実業家・松方幸次郎の集めた美術品コレクションが並んでいる。その多くは戦前フランスに存在し、戦時中には敵国資産として押収されたものが多い。
私はそんな作品たちに目をやりながら奥へと進む。一度二階に上がると、絵画の展示室だ。だけど、私のみたい絵はこれじゃあない。一階に戻り、彫刻の展示室を抜ける。そして企画展示室に足を向ける。
「オランダ絵画展」、そうタイトルを記された垂れ幕の横を私は通り過ぎる。
本当はこの企画展が目的だった。
だけど昨日、あんなことを言った手前、時間潰しに常設展も入ってみることにしたのだ。
本当は昨晩のことを後悔している。もちろん、彼が間違っているという意見を曲げる気などない。それでも、言い過ぎたのは私自身でも自覚しているし、今、そんなことを言うべきでもないのはわかっていた。だからと言って、謝る気にもなれないのだ。
私が悶々としながら少し歩くとその少女は佇んでいた。
黒い背景の中でその少女のその存在は際立ち、目には鮮やかに映る。振り返りざまにこちらに目をやるその顔はどこか幸せそうに見える。いや、驚いているようにも見える。少女のターバンの青は輝くでもなく、色褪せるでもなく、ただ海のような瑠璃色をそこに存在させている。ターバンは元々オスマン帝国の文化らしい。本来、オランダには存在しないファッション。でもそれを描くことで、異国情緒を生み出している。もしかしたらその少女の目は-
「遠い何かへ向けられているのかもな」
ふと声がした。振り向くとそこにはシルクハットの男が立っている。
「確かに。青いターバンが示すのは当時脅威とされていたオスマン帝国。オリエンタリズムの産物か。」
また隣で声がした。振り向くと、こちらもまたシルクハットの男だ。
ふとシルクハットが腰を曲げた。
「やあ」
そう陽気に声をかけながらその男はシルクハットをずらした。角山君だ。
「なんで……」
なんでここがわかったの? そう尋ねるよりも先に隣のシルクハットが答えた。
「お前のことだ。調べればすぐにわかる」
その声は今私が一番聞きたくはない声だ。
「それじゃあ、行こうか」
声をかけたのは神威じゃなく角山だった。
外に出るときた時よりも人は少しまばらだった。だけど、それでも人はまだ多い。
私は二人に挟まれながら歩く。上野駅は美術館を出て左手にある。
なんだか不思議な気持ちだ。
角山君はずっとニコニコしたままだし、神威は何を考えているのかもわからない。
私がこんなふうに逃げ出して、どう思っているのだろう? 怒っているのだろうか?
気になって神威の顔を覗き込もうとした。
その時、私の足が何かを蹴飛ばした。無意識のうちだ。
驚いて首を前に戻すと、子供が背中から転んでいる。自分が目を逸らした隙に子供と私の足がぶつかったのだ。
「大丈夫!? 」
急いで駆け寄って、子供のそばに近寄る。子供は私の顔を見るなり大きな声で泣き始めた。子供らしい甲高い泣き声。
「たっくん!? 大丈夫!? 」
子供の母親らしい人が近寄ってきた。
「ごめんなさい、息子が……!」
私の顔を見るなり謝ってきた。
「いえいえ、私こそ……」
そう言う後ろで大きな音がした。私がそう言ったすぐ後だった。振り向くと、神威が倒れかけている。かろうじて、角山が支えている。
「大丈夫です!お気になさらず!」
私が立ち上がって、神威の元に行こうとすると、角山君が変わらずニコニコした顔で私たちに声をかける。彼らしい対応だと思う。だけど、明らかに神威の様子がおかしい。頭を押さえながら、項垂れている。私がもう一度視線を戻そうとした時、角山が神威に何かを耳打ちしたのを私は見ていた。
私がホテルに帰ってきてから、神威が帰ってきたのは午後九時を回ってからのことだった。私はもう風呂を済ませていた。
神威は帰ってくるなり、浴室に滑り込んだ。心配に思い、浴室の中を気にしていると、角山君が「気にしないで」と声をかけてきた。しばらく、ベッドで足を伸ばして本を読んでいると、神威がシャワーを浴びて出てきた。いつものように、ライフルの横に座ると、また、窓の外の夜景を眺め始めた。
ふと、彼の手が動く。寝巻きがわりの半ズボンのポケットから何かの薬を取り出した。
「何?その薬」
私は気がつくとベッドから立ち上がって、神威の手を押さえていた。ふと目が合う。
なんでだろう。今までこんなことはなかったのに。彼に無意識のうちに興味をそそられることも、目が自然と会うことも、そして彼の目の中の本物の彼に見惚れることも。
「あ、えっと、その、昨日はごめん……なさい……」
ふと我にかえり、恥ずかしさが込み上げてきた。
「昨日、だけ?」
「いや、えっと、今日、も……」
問い詰めるような彼の口調にたじろぐように答えてしまった。
「俺も、昨日は言い過ぎた。ごめん。」
だけど、彼の声色に明らかに元気がない。
「それで、何?」
気づくとさっきまで手の内にあった薬を、彼は握りしめて隠している。
「その薬は何?」
私が問いかけると、彼は素直に手を開いて中身を見せた。
「そう、それ。それは、何?」
「聞きたいの?」
いつもと違う、どことなく、甘えるような口調だ。
「嫌なら話さなくても、いいけど……」
「いや、話すよ」
-それは小学校に上がってから初めてのクリスマスだった。
その日僕は、二人の両親と家族で一緒に買い物に出掛けていた。僕の家族は毎年クリスマスにパーティーをすることになっていた。出掛けたのはその買い出しだった。ショッピングセンターは緑と赤に色づき、僕の心もまたクリスマスへの期待で胸を膨らませていた。
だけど、事件は起きた。
家に帰ってからだ。その日、僕が家の戸締まり係だった。だけど、鍵を閉め忘れていたんだ。僕らが買い物に出掛けている間、家には泥棒が入っていた。勿論、ただの泥棒だったらよかった。だけど、家に入り込んでいたのは強盗だった。後から聞いた話だと、酔っ払った米軍兵士が拳銃を持ったまま犯行に及んだらしい。家に帰ってくるや否や、物陰に隠れていた強盗に僕は人質に取られた。突然大男に持ち上げられこめかみに拳銃が突きつけられたのを覚えている。僕の心の中は恐怖でいっぱいだった。
そこからはよく覚えていない。
ただ覚えているのは、犯人が何かの隙に落とした拳銃を拾って、人影に向かってとにかく引き金を引いたことだ。それが間違いだった。恐怖で泣きじゃくりながら、放った銃弾は守りたかった家族をも奪った。流し続けた涙が切れる頃、拳銃の先で僕に手をのばしているのは両親だった。血塗られた手で、僕の頬に触れる。顔もよく覚えてはいない。口元が少し歪み。僕に何かを伝えようとしている。だけど、僕はその言葉さえ聞き取れなかった。最後の言葉さえ、僕は知らない。
しばらくして、サイレンがやってきた。
俺は、守るべきものを、大切なものを自らの手で奪い去った犯罪者となったのだ。
どうやら、110番をかけたのは自分らしい。警察署の取り調べ室の中で、俺はとても冷静に、静かに電話をかけていたらしい。事情聴取ではいろんなことが聞かれた。事件の日の状況、家族のこと、どうやって拳銃を撃ったのか。
最後に俺は担当の警察官に尋ねた。「これからどうなるのか」と。その警察官はただ首を横に振った。そしてこう付け足した。「だけど、これだけは覚えていてほしい。君が悪いんじゃない。偶然そうなったんだ。誰も悪くはない」と。俺は、ふざけるなと思った。誰のせいでもないなら、俺は恨むことも、悔やむこともできない。もうどこにも進めない。心底、呆れたものだった。
事件はほとんど報道されていない。一つは在日米軍がらみの事件であること。もう一つは触法少年による事件であること。触法少年とは14歳未満で刑罰法令に触れる行為をした少年ことだ。触法少年は少年法のもとで保護される。そして、俺の場合は、身寄りがないことから児童相談所から家庭裁判所に送致された。結局、審判の結果、児童自立支援施設に入ることになった。警察から、児童自立支援施設に入るまではものの数日もかからなかった。どうにも俺はいられては困る存在らしい。俺を社会から隔絶したいかのような扱い方だったのを覚えている。
児童自立支援施設は海のそばにあった。家のあった場所からは遠く離れていたけれど、前みたく、海を眺められた。最初、俺は児童自立支援施設を少年院のような施設だと思っていた。だけど、実際はとてもオープンだった。施設は全寮制で、どの寮に寮母と寮父がいた。最初に寮母から与えられたのはパソコンだった。
「これであなたの好きな事を探しなさい」
優しくそう言って与えられたパソコンをずっと弄っていたのを覚えている。ハッキングを覚えたのもそのパソコンだった。最初はセキュリティのあまいサイトを狙って攻撃を繰り返していた。そのうち、ハッキングの掲示板を見つけてそこに入り浸るようになった。そこでは俺も一人の人間になれた。みんな社会の中でどこか疎外され、居場所を無くした者達だった。角山が施設に入ってきたのもその頃だった。この頃にはとっくに高度なハッキングができるようになっていた。
小学六年になった頃、どうにも悪夢をよく見るようになっていた。前々から寝つきはいい方ではなかったし、時々悪夢を見ることはあった。だけど、その頃にはより頻度が多くなっていった。俺は、悪夢を見るたびに眠るのが怖くなっていった。そのうち、眠れない日には寮の屋上で涼むことにしていた。そのうち寮母に見つかって、カウンセリングののち、病院に行くことになった。
精神科に初めて行ったのはその頃だった。担当の先生は少し歳をとった男性の先生だった。最初は雑談、そのうち症状を詳しく聞くようになっていた。しばらくして心理検査を受けることになっていた。パズルのようなものや、絵を描くものもあった。絵は昔から好きだったせいでだいぶ熱中してしまったのを覚えている。その後も何度か病院に通う日々が続いた。中学に上がる頃に診察室で告げられた。
「おそらく『心的外傷後ストレス性障害』、まあ俗にゆう『PTSD』、それと、中等症以上のうつ病の症状がありますね」
そこから薬漬けの日々が続いた。PTSDはカウンセリングですぐによくなった。だけど、いまだにうつ病症状は治らない。ずっと処方された薬を飲み続ける生活だ。
それでもハッキングは続けていた。中学も最後の学年になる頃には、同じ施設の子供とチームを組んでハッキングを繰り返してきた。ある日、施設に制服姿の男が押しかけてきた。防衛省のシステムに侵入した次の日だった。パソコンを膝の上で抱える僕らをその男はまじまじとみていた。
「君たち、僕の下で働く気はないかい?」
男が開いた口からはその言葉が出てきた。俺はためらうこともなく「はい」と答えた。あの日、僕が無くした守るべきもの。それを見つけられる気がした。-
「だから、俺はここにいる。そして昨日俺は嘘をついた。僕の贖罪の相手は国家なんかじゃない。俺の家族だ。家族という犠牲を、国家を守ることで償い、弔う。それが俺の贖罪だ」
俺がそう告げると目の前に座る橘は何も言わず、ただ、こちろを見つめている。
「でもいつか、贖罪ははたせる……よね……?」
「もう無理だよ」
「え?」
俺は手のひらを彼女に向ける。
「パキシルって知ってる?」
俺が問いかけると彼女は何も言わず首を横に振った。
「じゃあ、なんで橘さんと俺が一緒のベッドで寝ても問題ないんだと思う?」
これにも彼女は答えない。
「パキシルはSSRI、選択的セロトニン再取り込み阻害薬の一種で副作用に勃起障害が含まれる。」
「え……でも……やめれば……」
「急激に量を減らすと、発汗、吐き気、激しい頭痛などの離脱症状が現れる。それに、ずっと放置しておいたせいでうつ病症状が治ってもまた発症する恐れがある。……だからもう、無理なんだよ。俺に課された罪は永久に続くんだよ……だからもう……」
ふと顔を上げようとすると、どこか温もりを感じた。俺は彼女に首の後ろを掴まれ、顔は肩口に押しつけられた。少し甘いような香り。この感覚をどこかで感じたことがあるような気がする。
「どうしたの?」
俺は呆然としたまま尋ねた。
「そんに……自分を責めないでよ……」
嗚咽混じりの声。
「なんで?俺は……自分を責めてなんて……」
「あなた……今、泣いてるよ……」
「橘さんも……」
「知ってる……。でも、自分を責めて、戦い続けなきゃなんて、思わないで……」
「それでも、俺は……」
「家族は、それで浮かばれるの……? 」
あの時俺が奪った家族は、今、俺はを見て何を思うのだろう? 彼女のいう通り。俺を見て浮かばれない表情をするのだろうか? それても、俺を認めるのか? わからない。もう12年も経っているのだ。家族の生前の記憶もない。
俺は呪われている。記憶にもうない家族に。それでも、俺はー
「俺は、戦うことしかできないから……」
その日の夜だった。私はいつもの通り眠りについていた。
ふと温かいものを自分の背中に感じる。神威の腕だ。手のひらがせなく伝って首筋に、そして、後ろの髪をかき上げるように、引き寄せられる。神威の額が、私の胸に触れる。
毛の少ない、赤ちゃんのような肌。
「……母さん……母さん……!」
その声には少し嗚咽が混じっていた。その声は少し子供っぽさも混じっていた。
腰をかがめ、私の胸に額を押し付けるように、泣きつく。
その姿まるで、子供のようだった。
神威には呪いがかかっている。それは家族だ。その呪いは彼の時を止めた。止まったまま、彼はその日に取り憑かれているのだ。
「神威! 起きろ! 」
「ねえ、起きて! 」
その日、いつもとは違い相当深く眠れていた。だけど、どんな夜にも夜明けはある。
俺を叩き起こしたのは角山と橘の二人ともだった。
ふと目を覚まして飛び起きる。
橘はともかく、角山がこんな起こし方をするのは緊急の時だけだ。
「状況を」
ベッドから抜け出し、窓際の机に向かう。
「正面玄関にPCが2台、その間に車両が一台。」
ライフルのスコープを除き、急角度で下を見下ろす。PCはパトロールカーの略だ。パトロールカーの屋根に「305」の表記が見られる。
-まずい
警視庁本部車両だ。
「角山! 」
「了解! 」
角山が、部屋のドアに張り付き、警戒する間、俺は、ベッド横のホルスターを腰のベルトに取り付ける。歩きながら拳銃をホルスターから引き抜き、スライドを引く。薬室から実包が飛び出る。左手でキャッチして、ズボンのポケットに入れる。
角山とは反対方向、右側のドア枠に張り付き、一歩離れて、グロックを構える。
ドア枠は他の壁よりも少し強固にできている。つまり、ドア枠に体の正中線を合わせることで、被弾しても致命傷になることを防ぐことができる。
角山がドアに耳をつけ音を聞き取る。
角山の左手がゆっくりと上がる。エレベーターホールから誰かが来たということだ。
少しの時間が流れる。チラリと後ろを確認する。橘は死角に隠れている。
角山の手が振り下ろされる。今、足音が止まり、ベッドの前に人がいるのだ。
間髪開けずにドアチャイムが鳴る。この期に及んで丁寧な野郎だ。角山と目を合わせる。
ドアは右開き。先に接敵するのはこちらだ。
角山と目線を合わせる。頷いた瞬間に角山がドアを一気に開ける。
降ろしていた拳銃を一気に目線の高さまで振り上げる。角山は一歩下がりながら同じように振り上げる。
だがそこにいるのは敵ではなかった。
廊下に佇んでいたのはスーツ姿の女性と男性だ。女性の方が少し、前に出て、警察手帳を構えている。
「警察庁警備局制圧課です。」
なるほど、道理で少し雰囲気が違うわけだ。女性の方はどこか鍛えられた体つきだ。もちろん美人ではあるがその美しさは一般のそれよりむしろ、虎やチーターのようなネコ科の肉食獣を彷彿とさせる。
「桜木警部補ですか? 」
拳銃を下ろしながら尋ねる
「あら、自衛隊の方でもご存知の方がいるようね」
知らないはずがない。東京大学法学部卒で国家公務員試験を首席で通過。警察庁に入庁後、警視庁に出向、女性で初めて緊急時初動対応部隊ERTに配属。その後警察庁に戻り、警察庁警備局制圧課に就いた人物だ。
「何のようです? 」
「アクティベーテッド」
その女の唇がそう囁いた。
俺は耳を疑った。おそらく、隣にいる角山もだろう。その言葉に国家安全保障に携わるものが戦慄しないはずがない。
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