第2部
ー七月三十一日 十三時 京都駅八条口構内バーガーショップ
京都市南部に東西に横たわる京都駅。その東端にあるバーガーショップは南北地下自由通路と東西に伸びる飲食店街の交差点に位置する。
俺はそのカウンター席に座っている。目の前にはガラスが貼られていて、行き交う人々の様子がよく見える。ショルダーバックから取り出したPCを開きブラウザを立ち上げる。
入力するアドレスは自分の仮想通貨口座だ。JR東日本の発行するICカードでは仮想通貨を使った支払いが可能だ。これを使って切符を買う必要なく改札を通ることができる。
俺の隣の席にプラスチックのプレートが音を立てて置かれる。
置いたのは橘香織だ。
午前中の襲撃後、バイクを使ってここまできた。理由は京都からの離脱、市ヶ谷への移送だ。
しかし、セーブハウスがバレていることから監視されていることは明らかだ。その上監視方法に心当たりがない。尾行をつけられたりした記憶もない。そのためにわざと遠回りをしあらゆる監視システムを掻い潜ってきた。例えば主要幹線に設置されているNシステムや買い物の際に記録が残るクレジットカード、さらには指紋が残る現金での支払いも避ける。そうでもしなければ足が残る可能性があるのだ。
橘が買ってきたバーガーを口に運ぶ。
「どう? 美味しい? 」
訪ねてきたのは橘だ。
「うん、うまい」
「よかった・・・! 」
「別に橘さんが作ったわけではないでしょう? 」
「だって、あんた、何が食べたいとか言わなかったじゃん! 」
彼女は頬を膨らませてそっぽを向いた。親戚が殺されて泣き出したのかと思えば、今度は怒り始める。忙しない少女だ。
「……ねえ、これからどうするの? 」
俺は腕時計に目をやった。
「十三時三十五分発の『のぞみ366号』に乗って東京駅まで向かう」
ガラス越しに電光掲示板が目に入る。まだその列車の表示はされていない。
「そう……」
彼女はそっぽを向いたまま答えた。
昼食を食べ終えると、立ち上がって新幹線八条口改札に向かう。
彼女には昨日俺がきていた黒のマウンテンパーカーを着せている。店内を出ると彼女はすぐにフードを被った。監視カメラに顔が映らないように、そう言いつけておいたのだ。
ICカードをタッチして中に入る。目の前には警備員が立っている。
入ってすぐに右に百八十度曲がる。橘の顔を押さえる。曲がってすぐの階段の先で監視ガメラがこちらを見ている。階段を上がりまた右に百八十度曲がる。まっすぐ進んで一番奥のエスカレーターを目指す。もちろんその間も橘の顔を押さえたままだ。
エスカレーターを上るとホームに出る。ホーム上のカメラは駅職員の安全確認用だ。決して外部との接続はないはず。橘を押さえていた手を離す。俺たちが乗るのは2号車自由席だ。
歩いている途中にアナウンスと共に列車がホームに流れ込む。
N700S系。東海道新幹線の最新車種だ。
列車の動きが止まりホームドアが開く。橘を先にして2号車にのりこむ。もうすぐお盆が始まるせいか、車内は家族連れで混雑していた。
この車種のセキュリティは頭に染み込んでいる。車両の中心を貫く通路の両端、客室のドアの上に防犯カメラが設置されている。車内に計二箇所。
入ってすぐの座席に座る。一台からは死角になりもう一台には背を向ける、この場所が防犯カメラから逃れられる場所だ。
軽快なブザー音と共に列車が動き始める。ここまで来ればもう安心だ。今まで全ての監視カメラに対策している。写っているはずがない。
列車が米原を通過した頃だった。ジャケットの胸ポケットのスマホが鳴った。取り出して画面を見ると送信主は内山一佐だ。
「こちらウィザードキラー」
画面のロックを解除して電話に出る
「ウィザードキラー、無事か!」
「ええ」
「橘は?」
「隣にいます」
「今どこに? 」
「新幹線に乗って東京に向かっています。」
「よかった! セーブハウスが襲撃された聞いて肝を冷やしたぞ……。」
「今、捜査状況はどうなってるんです? 」
「今現場を中部方面警務隊第131地区警務隊が捜査中だ。おそらく容疑者はシベリアだろう」
想像通りだ。
俺たちのセーブハウスは全て防衛省地方協力局が入手したものだ。もちろん職員が個人名義で購入したものだが、金は全て防衛省から出ている。そのため、セーブハウスは防衛設備として扱われ、捜査権は自衛隊の警務隊が担当する。
「あと、ついでに伝えておく」
「なんでしょう? 」
「公安がお前に目をつけている。」
驚いた。まさか曲がりなりにも協力関係にあるはずだ。
「理由はこの前のあれと、事件で化学兵器使用の事実を掴んで放っていたんじゃないかと嫌疑がかけられてる。」
内山一佐は続けた。
この前のは自業自得だが、もう一つに関しては知ったこっちゃない。単なる言いがかりだ。
「今、オスプレイを手配してワルドーを東京に戻している。俺はお前を一度パージする。市ヶ谷への移送は諦めろ。代わりにホテルを手配する。警察にも他の民間人にも関わるな。いいな?」
パージ、すなわち進行中の状況から離脱し独立した行動を指示する、もしくは、進行中の状況からの隔離。内山一佐は事態を重く見ているらしい。
「了解」
そのまま電話を閉じた。
「誰から? 」
顔を覗き込みながら橘が尋ねる。
俺は重い口を開いて告げる。
「上司から。悪い知らせだ。」
その知らせを話し終える頃には名古屋駅に着いていた。
その知らせを聞いた彼女は興味がないかのような態度だった。
名古屋を出てしばらくすると浜名湖が見える。
「ねえねえ! 見て! 」
彼女は俺の肩を叩いて窓の外を指差す。
「浜名湖だな」
「驚かないの? 」
「大体わかるから」
彼女はその後も窓の外を見続けていた。
「ねえ」
突然彼女が問いかけてきたのは天竜川を渡ってすぐだった。
「何? 」
彼女はまだ窓の外を見続けている。
「普段どんなことをしてるの? 」
「それは言えない。本物の防衛機密だ」
「今、幾つなの? 」
「十八歳、橘さんと同い年。」
「どこの高校からきたの?」
「横須賀の陸上自衛隊高等工科学校。」
「中学校は? 」
「南中っていうところ」
「なんで自衛隊に入ったの? 」
その言葉に胸がちくりと痛む。親指で人差し指をなぞる。電光掲示板に目をやる。
「贖罪……かな……」
その時だった。
「この席、空いてますか?」
声をかけられた方を向くと、そこにはスーツ姿の金髪の男が立っている。外国人観光客らしい。
「ええ、構いませんよ」
にっこり笑ってそう伝えると、男はひとつ前のシートを回転させ、俺たちと向かい合うようにして座った。
確かに新幹線のシートは回転してボックス席にできるが、なぜそうする?
理由はすぐにわかった。軽い金属音が鳴った。
男がこちらに銃口を向けている。
手元を布で覆い、拳銃を隠してはいるが、銃口を向けている。
「女をこちらに渡せ。用件はそれだけだ。」
男は体を乗り出し脅すように低い声でそういった。もう一度聞けば、その男の言葉にロシア訛りがあるのがわかる。
隣に目をやると、彼女もこのことを把握しているようだ。見るからに硬直している。彼女の手を取り手の甲を叩く。人間の脳はある脅威が現れるとそちらに全注意が向くようになっている。手の甲をたたき注意を分散することでパニックを遠ざけるのだ。案の定、彼女はこちらを向いた。
次に、廊下に目をやる。どうやら最寄りのデッキには三人お仲間がいるようだ。見てはいないが後ろ側、もう一つのデッキにもお仲間がいるのだろう。
こちら側も前のめりになって低く声を抑えて問う。
「お前の目的はなんだ」
沈黙。
数秒間の沈黙。それを破ったのは銃声だった。
俺は相手の目線を読んだ。相手の目線が俺の眉間に向く。すぐに頭を下げ、拳銃を両手に掴み射線をずらす。
相手は驚いて発砲する。近くで銃声を聞いたせいで耳が痛む。しばらくは耳鳴りが続く。だけど、予想通りの反応だ。引き金を引いたせいで拳銃は排莢不良を起こす。これでしばらくは撃てない。すぐに右手でホルスターから自分の拳銃を引き抜く。サプレッサー付きだ。デッキの三人を腕を流しながら射殺する。相手が武装を取り出す前に。
最後の仕上げに目の前の男の脳天に一発、銃弾を撃ち込む。
立ち上がりざまに振り向くと、悲鳴は聞こえこそはしないが、車内はパニック状態になっている。乗客が不規則に動いている。
橘の手を掴み、立ち上がらせる。おそらく橘も耳鳴りで聞こえないはずだ。無理に引っ張りながら進行方向に歩き出す。
反対側ー進行方向側-デッキのドアからスーツ姿の男が見える。やはりお仲間がいるらしい。
拳銃をもう一度構え直す。拳銃を目から近い位置に持ち上げ、目線と照準線を合わせる。C.A.Rシステムだ。暴動やパニック状況下でも銃を奪われず、そして、正確に射撃するためのスキルだ。
パニックになる人垣からスーツ男に一発ずつ引き金を引く。射殺した男の背後にいるもう一人は、血の霧吹きを浴びることになる。歩みをとめず、もう一度引き金を引く。人は最も簡単に倒れていく。人混みに紛れてドアに近づく。人混みはどうやら進行方向とは逆の方向に進んでるらしい。人垣の途絶えた瞬間にもう一度引き金を引く。これで三人は始末した。
走って、デッキに滑り込む。入ってすぐの出入り口部分に橘を隠す。
「大丈夫か!?」
もう耳は回復しているはずだ。
彼女は大きく頷いた。
俺はベルトからタクティカルライトを取り出し、真横の客室とデッキを隔てる壁に突き立てる。
非常停止ボタンだ。壁には緊急停止ボタンが埋め込まれている。これをタクティカルライトで作動させた。
彼女を前にして次の車両に走り込む。この車両はまだパニックにはなっていない。しかし、どうやら、後ろから追手が来ているらしい。地面を蹴って走り出す。列車は緊急停止ボタンを感知して急ブレーキをかけている。慣性力を利用して少し走りやすくなる。
彼女がその次の車両に入った途端に立ち止まった。
前を覗くと、客室乗務員がカーゴを押して向かって来る。
「くそ!」
俺は橘の脇の下に腕を入れ、腰をかがめ、膝から彼女の体を掬い上げる。少し重い気がしたがそのことを口にしている暇はない。すぐに走り出して、左足で踏み切る。体が宙に浮く。次に右足を客席の角にかけ。右足を蹴り出す。斜め下では客室乗務員が驚いた顔をしている。体をひねらせ振り返りざまで着地する。両足を地面につけ、今度は膝からかがめて衝撃を和らげる。踵が滑り数センチ動く。
彼女を両腕から下ろすと、なぜか顔を赤らめていた。
「橘さんは先に行って、ドアコックを開けろ! ドアの横に箱があって、その中のレーバーを引けば開くはずだ!」
俺がそういうと、彼女は顔を赤くして、何度も頷き奥のデッキに駆けていった。
俺は反対方向に進み、今だ唖然としている客室乗務員を、隣の3席シートに突き倒す。
客室がざわつき始める。
「すみませんが、しばらくそこにいてください! 」
そう言いながら、カートを席につっかえるよに横に回す。しゃがみ込み、両手を伸ばす。カートを盾にして拳銃を構える。両腕が二等辺三角形の形になるアイソセレススタンスと呼ばれる構え方だ。
デッキのドアが開く。
「全員伏せろ! 」
追手の姿が目に入ると同時に、引き金を引く。右の頬を薬莢が掠る。追手はすぐに体を引っ込める。引き金をひき続ける。制圧射撃だ。引き金を引くたびに一歩ずつ後ろに下がる。残弾数が残り一発になる。そのままマガジンリリースボタンを押し、銃を横に振る。遠心力で弾倉が飛び、代わりの弾倉を差し込む。薬室に一発を残してのマガジン交換。タクティカルリーロードと呼ばれる手法だ。
デッキに入った後も引き金を引く。扉の横に立っている橘の様子からして、車両はまだ完全には止まっていないようだ。
デッキのドアが閉まる。すぐに射撃をやめ、壁に隠れる。
扉の外の景色が動かなくなる。先に俺がドアから飛び降りる。続いて橘が恐る恐る地面に降り立つ。
周囲を見渡す。右手にはトンネルが続いている。どうにもトンネルに入る途中で停車したらしい。
おそらくもうすぐ追手も列車から降りてくるだろう。身を隠す必要がある。しかし、周囲は山ばかりだ。仕方がない。年頃の女子にやらせるには厳しいが、ある手段を思い浮かべていた。
-十六時 静岡県菊川市東海道新幹線沿い
土の匂い。肌につくような蒸し暑さ。鳴り響く蝉の声。時々流れる列車の音。そして、追手の足音。
俺たちは、列車を降りてしばらく歩いたところの茂みに隠れている。俺は茂みに隠れることは慣れている。訓練で何度もやったからだ。
茂みに隠れるコツは一つだ。自然界にないものを消す。例えば人間の体のラインだ。頭から肩にかけてのラインは人間が人間を人間と認識するのに十分なほど特徴的なラインだ。言い換えればこのラインを消せば人間とは認識されない。
もう一つ。人間の肌の色を隠す必要がある。人間の明るい肌は自然界には存在しない。従って特殊部隊が茂みに入る時などは濃い色のドーランを顔に塗るのだ。
しかし、今手元にはそんなものはない。もちろん、そういう時のための方法もある。単純だ。
泥を顔に塗るのだ。
隣にいる橘の顔を見る。顔が泥まみれだ。実は泥を顔に塗る方が隠蔽効果が高いという話もある。俺は訓練で何度もやってきたことなので気にはならない。しかし、緊急時とはいえ女子高生にこんなことをさせるのは気が引ける。
しばらく、地面に臥せっていると、足音が遠ざかっていった。どうやら諦めて撤収したらしい。茂みから出ると蜃気楼に霞んで西に向かう集団が見える。
続いて、橘も茂みから這い出てきた。振り返って顔を見ると明らかに嫌そうな顔をしている。
ペットボトルを取り出し、中の水を橘の頭からかける。泥を塗るように指示した時、彼女からの交換条件が落とすのを手伝うことだった。
「もう〜最悪……」
落とし終わった橘がタオルで顔を拭くながら呟く。
「ごめん……」
「メイクも落ちちゃったたじゃん、仕方ないけどさ」
タオルから顔を離した彼女の顔を見て、俺はそれでもすっぴんなのかと驚いた。
「ほんとごめん……」
その顔を見てしまうと、罪悪感が募ってくる。
「で、これからどうするの?」
「東海道線沿いに歩いて菊川駅まで向かう」
「だいたいどれくらい?」
スマホを見ながら答える。
「一時間くらい」
驚愕の声が蝉の声とともに山中に響いた。
-十七時 JR菊川駅
菊川駅に着いた頃には空が茜色に染まっていた。途中、俺の顔につけていた泥を落としておいた。横では橘が疲れ切って座りながら寝ている。
俺はスマホの画面のアイコンをタップする。緑のロボットをかたどったアイコンだ。
顔を上げると、目線の先で年配の男性が車を止めて出てくるところだ。
「行くぞ」
橘を起こし立ち上がらせる。
車を止めた年配の男性に向かって歩き出す。スマホを右手から左手に渡す。
年配の男性の手には車のスマートキーを握っている。
俺と男性がすれ違う。その時にスマホの画面をタップする。
そのまま俺は男性が止めた車に近づく。振り返ると男性は券売機で切符を買っている。おそらく時期的に孫を迎えに行くのだろう。
「どうしたの?」
橘が尋ねる。
心苦しいが仕方ない。もう一度スマホの画面をタップする。軽快な電子音とともに車のランプが光る。
「え?」
橘が口を開けて唖然とした顔になる。
「乗って」
「でも、これ……」
「いいから早く乗って」
彼女が助手席に乗り込むのを確認して、エンジンボタンを押す。
シフトレバーをDレンジに入れてブレーキを外す。車がゆっくりと動き出す。
「ちょっと待って! これあのおじいさんのだよね!? 」
「ああ」
「これ、窃盗・・・!」
「刑法235条、他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。」
「だから、懲役刑に・・・」
「50万円以下の罰金、これぐらいなら予算から払える。それに傷つける気もないから返すも同然だ」
そもそも、今、先の事件の捜査として第三種特命捜査活動が発令されている。この発令下では他の捜査活動とは違い、武器の無制限使用を前提として捜査中の自衛隊員には警察官職務執行法が適用されない。つまり、自衛隊法の範疇での行動となる。自衛隊法では第三種特命捜査活動下での民間物の使用に関して規定はなく、それらの使用で生じた損害は国家賠償法により賠償されるとある。
つまり、今車を民間人から接収したとしても罪には問われない。もっともこのことは特定秘密にあたるが。
「そもそも、どうやって盗んだの!?」
「あのじいさんが使っていたのはスマートキーだ。スマートキーは常に電波を発信している。その電波を記録して、再度発信すれば解錠できる。」
「運転免許は!?」
「訓練中に取った」
彼女は唖然としたままこちらを見ている。
俺はハンドルを握りながらジャケットの内側からスマホを取り出し、電話をかける。
アームレストにスマホを置いてスピーカーに切り替える。
「もしもし?カムちゃん」
かけた相手は角山だ。
「頼みたいことがある」
「ハコなら品川駅前に確保したよ」
ハコというのは滞在場所のことだ。
「掃除は?」
掃除は盗聴・盗撮機の捜索を意味する。
「ハムに任せるつもりだけど」
ハムとは公安のことだ。今この状況でハムに任せるのはまずい。
会話しながらハンドルを右に切る。
「いや、お前がやってくれ」
「了解、それじゃ」
「おう」
そのまま電話が切れた。
「友達?」
尋ねたのは橘だ。
「いや、仕事仲間の方が正しい」
ハンドルを左に切る。山道に入る。日が落ち切ってはいないとはいえ、だいぶ暗くなっている。
「この後どうするの?」
「この後静岡駅に向かって『サンライズ出雲92号』に乗る。ただ夜行列車だから列車の到着時間まで山の中で車を止めて追手を振り切る」
「普通列車を乗り継ぐことはできないの?」
「できても通勤列車のほとんどに防犯カメラがある。もし俺たちが映れば一時間前と同じ羽目になる」
「だからって山に入るのは……」
「警察はすべての自動車を追跡できるNシステムというのを持っている。このシステムが乗っ取られている可能性を否定できない。だからNシステムの設置されてない山の中に入る必要がある」
彼女は少し心配そうな顔をした。
「だから、今日は今のうちに寝ておけ」
「わかった」
そういうと不服そうに席を倒し、そっぽをむいて寝始めた。
そんな硬い席で簡単に眠れるはずもないだろうに。
-翌日 八月一日 四時 JR静岡駅駅前
「起きろ」
俺は静岡駅駅前に車を止め、後部座席で眠る橘を起こす。寝づらいだろうと、橘を補助席から後部座席に移しておいたのだ。
「ん……」
寝ぼけながら目を擦っている。俺は手を引いて車の外に連れ出そうとする。
「待って……」
ここで寝ぼけながら駄々をこねられても困る。
「起きろ!」
俺が大声で起こすと彼女は大きく目を開いた。
「よし、行こう」
驚いた顔のまま立ち上がり、ついてくる。過去に俺が訓練で受けた起こし方だ。
切符は既に買ってある。『サンライズ出雲92号』は日本で唯一定期運行している寝台列車だ。そのためプライバシーの観点から車内に防犯カメラは一切ない。
改札を抜けてホームに上がると列車が軽快なモーター音と共に滑り込んできた。ベージュ色の車体に茜色のマークが描かれている。
入るのは5号車、寝台券のいらない『ノビノビ座席』の車両だ。
客室に入ると、窓側に通路が伸びており、座席は二層構造になっている。フルフラットな雑魚寝席となっていて、一人のスペースがかなり広いが高さは大人一人が座ってぎりぎりなくらいだ。
席は7Dと7A。上下で分かれることになる。
席を案内すると、彼女は下の席に滑り込みすぐに寝始めた。俺は上の席に登って、ジャケットを脱ぐ。各席には一つ大きな窓がついている。隣の席とのパーテーションに腰掛け、窓の外を眺める。少しずつ車窓が明るくなってくる。目的地はもうすぐだ。
-七時三十分 品川プリンセスホテルメインタワー 2840号室
『サンライズ出雲92号』を品川で降りて、高輪口から駅を出た。もちろんこの間も監視カメラを警戒して橘の顔を伏せさせた。目的のホテルに着くと、フロント横のエレベーターから二十八階に上がる。廊下を通って目的の部屋の前に着くまでに何人かの作業着姿の男とすれ違った。
部屋の前に立ち、ドアを開ける。
目の前にいたのは敬礼をした角山だ。こちらも敬礼で返す。
「久しぶり」
先に口を開いたのは角山だ。
「ああ」
「彼女が香織ちゃん?」
目線を向けられた橘がたじろぎながら答える。彼に初めて会った者はこうなるのも無理はない。
「あ、えっと、初めまして、橘香織です」
角山が覗き込むように橘の顔を見る。
「あの、何か……」
「うん、かわいいね! あ、僕、角山っていうよ。よろしく!」
明らかにふだんと声色が違う。完全に口説き落とそうとしている。
もちろん、これが単なる口説きのスキルではない。ヒューミント(HUMINT)。彼が得意とする手法で、人間を媒介した諜報手段を指す。もしかすると、彼は彼女を使うつもりか……?
「角山」
「はいはい、部屋はウチの第一防諜中隊が掃除した」
「荷物は?」
「お前のセーブハウスから一週間分持ってきてる」
そう言って俺の方へボストンバックを投げる。受け取ると彼はにやついた。
「そして、君のはこっち。」
そういうと橘には手渡しでボストンバッグを渡した。いけすかない野郎だ。それでもずっと前からの仲だ。嫌いにはならない。
受け取ったボストンバッグをベッドの上に置く。バッグを開くと見覚えのある迷彩柄のノートケースが入っている。
「角山、お前まさか……」
「ご名答!」
振り返りざま角山が気分良さげに答えた。角山がしゃがみ込んでベッドからケースを取り出す。弦楽器のケースだ。誰と偽ってチェックインしたんだ、この男は。
ケースから取り出されたのは砂漠仕様のライフルだ。おそらく自衛隊の過去の海外派遣で秘密裏に携帯した物だろう。
「弾は?」
俺は二脚を展開して壁際のテーブルに置きながら尋ねた。
「.338ラプアマグナム。」
「マクミランのTAC-338か」
「あたり!」
銃を構える。銃床を肩につけ、グリップを握り、スコープを覗く。TAC-338は高威力の.338ラプアマグナム弾を打ち出すスナイパーライフルだ。『アメリカンスナイパー』の名で知られるクリス・カイルもこの銃を使っていた。
「ゼロインは?」
「一応した。」
銃の弾丸は放物線を描いて飛ぶ。つまり、照準線と弾道との交点は二つ。そのうち遠い方の点を距離に合わせて調節し、当たるようにすることをゼロインと呼ぶ。
まず、向かい側のビルまでの距離を測る。腕を伸ばし、人差し指を横にしてビルに重ねる。向かいのビルの28階から最上階まで人差し指で長さを数える。おおよそ一つと半分ぐらいだ。このことからビルとの距離は300m台だ。
もう一度グリップを掴み銃を水平に保つ。小指でコッキングハンドルを握り、ボルトを引く。弾丸が銃身から飛び出る。親指の付け根でコッキングハンドルを戻す。
「撃つなよ」
「ああ、癖でやってるだけ」
向かいのビルの28階に照準を合わせる。300m先で弾道がどんな軌道を描くかは予想がついてる。
スコープ上部のエレベーションノブを回して照準を垂直方向に調節する。
一度スコープから目を離し向かいのビルの屋上を見る。吹き流しが右側に流れている。風向は北から南。風速も吹き流しの流れ方から判断する。
スコープに目を戻す。スコープ横のウィンテージノブを回して水平方向に照準を調節する。ノブの一クリック分で0.25MOA、つまり100ヤード先で照準が0.25インチずれる。
「もう大丈夫か?」
「ああ、ゼロインしなおした。」
俺はそう答えて腰を上げる。
「それと、一つ問題がある」
少しニヤついた顔をしながら角山が補足する。
「何?」
「僕も泊まり込みで警護することになる」
「それで?」
「ベッドが二つしかない」
振り返って気がついた。確かに二つしかない。となると誰かが橘と同じベッドで寝ることになる。
「カムちゃん」
「何?」
「最後にしたの、いつ?」
「何を?」
「何をって…… 」
意味がわかって少し胸の奥を刺された気がした。
「ああ、あれか、いや、ここ六年、してないな」
自分で言っていて少し嫌な気分になるが、しょうがない。
「じゃあ、問題は解決だな」
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