林檎

月波結

林檎

 父は画家だった。

 家にはテンペラ油のにおいが充満し、色の混在するパレット、持ち手の塗料が剥がれてきた絵筆が空き缶に無造作にさしてあった。


 とは言え額縁に飾られている絵はなく、アトリエの床にはたくさんの絵が立てかけられ居心地の悪い不安定さを醸し出していた。


 飾るべき絵もなければ売れる絵もない。


 父が画家と呼ばれたのは、有名な先生に師事してきたことと、一枚の絵がかつて大きな賞に入ったことがあったからだ。その絵は売れてお金に変わった。


 ふと目をやると、いつも父は林檎のデッサンをしていた。

 日によってそれは鉛筆だったり、木炭だったり······。それがどういう基準で変わるのかはわからなかった。ただの気まぐれだと思うのだけど。


 林檎は窓際にくたっと敷かれたサテンの布の上に置かれ、その存在を示していた。

 それを父は、ある日は削るように荒々しく、またある日は穏やかな陽光の下にあるかのように繊細にデッサンした。


 林檎はいつも赤くて下の方が緑の酸っぱそうなものだったが、絵によってそれが蜜をいっぱいに保った真っ赤な林檎に見えたし、清々しい匂いたつ青リンゴのようにも思えた。


 とにかく父は林檎を描く画家だった。


 普段の父は穏やかで、怒ることもなく、無口で弱々しい人に見えた。

 わたしが友だちとピクニックをするためにサンドイッチの入ったカゴを持って「いってきます」と言うと、テーブルに腰掛けて少し休憩を取る父は「ああ」と一言いった。




 春のはじめ、淡い日差しがクローバー畑をまだらに照らし、先に着いていた彼はわたしに手を振った。わたしは笑顔を返した。

 彼の手にはシロツメクサの素朴な白い花が数本握られ、わたしににこりと微笑んだ。


 ロイとは幼馴染だ。

 母がまだいた頃、ロイの母は内気なわたしの母の数少ない友人のひとりだった。母も父同様、物静かでひっそりとしたひとだった。

 自然、わたしとロイが一緒にいる時間は長かった。


 林檎が熟してシードルになるように、当たり前のようにわたしたちの気持ちを近づけたのか、それとも互いに無意識に気持ちが寄り添ったのか、ふたりの気持ちはぴたりとひとつだった。

 わたしの心の中にある透き通る小さな水晶が光を放っていた。


「なにか美味しいものを持ってきてくれたのかな?」「お気に召すかはわからないけれど」

 顔と顔を合わせてくすぐったい笑いを互いに漏らした。

 微風そよかぜはやさしくわたしたちを迎え、ふと止んだ笑い声もそっと流していく。


「親父さんは相変わらず?」「ええ」

 彼は遠い目をして、わたしの持って来たキュウリのサンドイッチをひとくちかじった。

 沈黙は地を這うようにふたりの間を流れた。彼は次に言うことを考えているのか、それともこの静けさを味わっているのか、判断がつきかねた。

 わたしは真似をするように口をつぐんだ。


「呼び出しがかかったんだ」

 それはわたしが恐れていた台詞だった。

 顔が青ざめるのを隠しようもなかった。

「来月には行かないといけないと思う。――待っていられるかい?」

 こくり、と間髪置かずに頷くことしかできなかった。彼がいなくなれば、わたしの世界は終わってしまう。


「······ここはこんなに静かで穏やかなのに、地続きのところで血が流されているとは思えないな」

 ぽつりと呟いたわたしの目から、涙がすっと線を書くように滑り落ちた。

 それに気づいたのか遠くを見ていた彼はわたしに向き直り、わたしの頬を撫でた。化粧もしていない、そばかすだらけの頬を、そっと。




 彼が行ってしまっても村は変わらなかった。

 クローバーの花だけが、先端から茶色く焦げていった。幸運の四葉のクローバーはとても探す気になれなかった。

 クローバー畑の脇を、決してそちらを見ないように目の前だけを真っ直ぐに見据えて通り過ぎた。


 父は、次第に少しずつ減っていく若い男性の代わりに、度々農作業の手伝いをするようになった。

 牛や馬の手入れをし、干し草をすきを使って持ち上げ、みるみるうちに見違えるように肌は日に焼けて乾燥してきた。

 寡黙な父は更に寡黙になった。父の考えは、テーブルを挟んでスープを飲んでもまるでわからなかった。


 ロイからの便りはわたしの大きな楽しみだった。

 何気ない顔をして手紙を手に取り、椅子に腰掛けると、刺しかけだった刺繍枠を脇にやって小鳥をかたどった銀色のペーパーナイフをそっと通した。

 封筒に満ちていた向こう側の空気が溢れ出すのをそっと味わう。


 穏やかで陽気なロイは、手紙の上ではあまり能弁ではなかった。

 彼の知らせてくる今いる場所を、誰もいない時間にテーブルに地図を広げて確認した。

 わたしは自分の住んでいる国がこんなに大きいとは知らなかった。

 思わぬ遠くにいるロイは、知らない人のように思えた。


 キュウリのサンドイッチはひとりで食べた。

 父もいない、昼間もほの暗いテーブルの上で。



 戦争は終わりそうになかった。

 力が拮抗しているのか、それともなにかが拗れているのか、とにかく我々には終わりは見えなかった。ただ、疲弊していった。


 ある日一通の手紙が来て、父はそれを示しながらわたしに「行ってくるよ」とただ一言、伝えた。

 いい予感などするはずもなく、いつからか触れることのなくなった褐色の腕を強く握って「行かないで」と告げた。

 わたしの目にはロイの時と同じように涙が溢れてきたけれど、顔は青ざめなかった。怒りで赤くなった。


 父は弱々しくようやくそれだとわかる形に、微笑みの表情を作った。そうしてわたしの頭を抱き寄せた。

 いつからかそこに在るだけだった家族の形が、明確に表れた。

 林檎を描き続けたその手のひらは大きく、節くれだって、温かかった。




 次第に手紙も数が減り始めた。

 その分、新聞の一面は賑わいを見せた。扇情的な見出しが、かえって恐怖心を煽った。


 わたしは「待たない」ひとになった。

 戦争は終わりを告げ、敗戦国という荷を背負った男たちが、ひとりふたりと村に帰ってきた。

 喜びの声があちこちで聞こえるようになり、鎮魂の祈りが捧げられた。


 そのうち自分でも気づかないうちに「どうでもいい」という考えが頭を占めるようになった。

 と同時に、林檎を手にしていた。


 片手に握りしめた木の端材を、ノミと彫刻刀を使って林檎の形に切り出していく。

 最初の頃は思うようにいかなかったけれど、幾つか作るうちに朧気ながらそれらしい物ができるようになった。


 食べるために昼間はパン屋で働き、夜はランプの灯りで林檎を彫った。

 木を彫る音は、男たちを思い出させた。虚しさを吹き飛ばすように木片を散らかしていく。

 あの日、恭しく林檎が置かれていた窓辺に、偽物の林檎が次々と並んだ。


 ある日、町から行商人が来て、パン屋で売り物を並べていたわたしに声をかけた。

 彼は窓辺にいまではズラっと並べられた林檎を見て、それを作ったひとに興味を持ったと言った。

 わたしにとって真実それは「どうでもいいこと」だった。

 パン屋が閉まる時間を告げると、青年は帰っていった。


 売れ残りのバケットを抱え、家に戻る。

 いまでは『林檎の家』と呼ばれるようになった我が家の前に、男が立っていた。

 わたしは微かに頭を下げると、彼は丁寧に帽子を脱いでお辞儀をした。

 部屋のランプをつけ、男を招いた。


 豆のスープを作る間、彼は林檎をひとつひとつ手に取っては重さを計るように手のひらで転がした。

 パンにチーズを添えてスープと共にテーブルに並べると、彼も席に着いた。

 そうして「こちらから押しかけておいて申し訳ありません」と恐縮して見せた。


 着色もされていないわたしの林檎から受けた印象を、彼は言葉数多く語った。決して美術館に飾られるようなものではなくても、そこから強い感銘を受けたと彼は告げた。

 わたしの林檎が誰かになにかを与えるなんて、それまで考えたこともなかった。

 わたしはわたしの抱える空白を埋めるために、それだけのために彫っていたから。


 そうして彼は「絵も描かれるんですね」と話を続けた。「いいえ」と答えた。「すべて父の描いたものです」と。

 彼は目を見開き驚いた様子だった。絵と彫刻は、それぞれがペアであるかのように見えたと言うのだ。まるで根っこの部分が繋がっているように――。


 わたしはスプーンを置いた。

 悲しみはいつだって結局、涙となって溢れてくるのだ。

 彼はテーブルの向こうで戸惑いながら、そしておずおずと手を伸ばすとわたしの涙を拭った。


 わたしには誰もいなかった。

 母も、父も、ロイも、わたしの人生を横切ったに過ぎなかった。誰も帰ってこなかった。その虚しさが嗚咽となって、行商人は気がつくとわたしを抱きしめていた。




 たくさんの林檎を箱に詰めて、行商人の住む町に向かう。ごとごとと馬車は揺れ、わたしを孤独から連れ去ろうとしていた。

 わたしは窓辺にサテンの布をくたっと敷き、その上に木で作った林檎をひとつ、置いてきた。それがわたしの失われ続けた少女時代の終わりの象徴だった。


 商売人の妻として、わたしはきりきり働いた。

 お腹に子供が宿ると、空いた時間にはまた林檎を飽くことなく彫った。

 失われたものと与えられたもの。それらは均等のように一見みえたが、日を増す事に喜びに重きが置かれていくようになった。


 夫は人当たりの良い行商人らしく家庭を明るく照らし、子供をかわいがった。

 食卓にはいつも潤沢な食材から作られた食事が並び、笑い声のスパイスがそこに添えられた。

『幸福』の意味を、学び始めた。




 ある日、夫は行商から帰ると、記憶の箱から消え始めていたことを語り始めた。

 片足を義足にした父が、またあの小さな家で林檎を描き続けていると――。

 わたしは言葉を失った。父の、なにも語らない横顔が胸をよぎった。額縁の中の一枚の絵のように、その光景が目に浮かんだ。


「君との結婚の報告をしたよ」「······なんだか今更恥ずかしいわ。気難しいひとだったでしょう?」

 夫はわたしの林檎をひとつ手に取ると、じっとそれを見つめた。まるで長い時間が経ったかのような気がした。


「次はこの子も連れて会いに行こう。あの部屋には林檎しかない。お義父さんには子供の明るさのようなものが必要だよ。君がいなくて寂しいと思うよ」

 そうだろうか、と思った。林檎に囲まれることであのひとは安らぎを得ているんじゃないのだろうか······。


「大丈夫。お義父さんは笑って僕と握手をしてくれたよ」

 殊更朗らかに彼は笑った。子供がそれを見て楽しそうな声を上げた。木で作られた林檎をカンカンとテーブルに打ちつけて喜んだ。


 ――どんな顔をして父に会ったらいいんだろう?

 わたしにとって父は既に埋められてしまった存在だった。

 戸惑うわたしに彼は「大丈夫だよ」ともう一度囁いた。


(了)

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林檎 月波結 @musubi-me

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