第6話 記憶と気持ち
平成に入り二年目に、織耶のところに元気な男の子が生まれました。香織が保育所に通っていたので、東京で出産しました。香織の時は里帰り出産でしたので絹さんのところに人月程いましたので、私は時折主人とお邪魔させて頂きました。今回は東京なので美香さんの床上げまでどうするか絹さんと相談したのですが、お姉さんの美幸さんの出産も控えているので、私の方でお願いしたいということでしたので、生まれてひと月程は織耶の家でお世話になり、掃除、洗濯、買い物に食事の支度、香織の保育所のお迎えと忙しくしていました。美香さんはその間赤ちゃんとお布団でゆっくりしてもらいました。ミルクは三時間おきくらいで夜中にも起きますからね、慣れるまでは大変。寝れるときはゆっくり寝ていてもらいました。
神戸へ帰る日、香織は中々抱きついて離れませんでした。可愛いけどね、おじいちゃんがお家で待ってるから帰るわねと言い聞かせて織耶と遊んでいる隙を見て、家をでました。
神戸の自宅に帰ると、主人は笑顔で迎えてくれました。今日は土曜日ですので仕事はお休みです。平成に入り銀行は週休二日制になり土日が休みになりましたので、ゆっくりできるようになりました。主人は東京での労を労ってくれました。あと数年で定年退職ですので、老人ホームとか考えなければならないねとは話していたのですが、先延ばしにしていました。
絹さんから電話がかかりました。美香さんが良く言ってくれていたようで、お礼の電話でした。美幸さんのところにも赤ちゃんが誕生したようで、次の主人の休みにお祝いを買いに行きました。孫達の服も何着も買ってしまいました。今は可愛いらしい服が沢山あるので、選ぶのに時間がかかりました。孫達の服やお祝いの品は郵送しました。孫達は関東ですし、出産したばかりのお母さんに私たちが訪ねてストレスをかけてもいけませんからね。美幸さんからもお礼のお電話を頂きましたよ。
それから一年後にはアメリカに住む紘之の所にも子供が誕生しまして、クリスチーナさんのご両親に、アメリカに来ないかと言って頂きました。あれからね、主人は英語を習得していたんですよ。でもね、仕事をするのもあともう少しですから定年退職後に伺うことに致しました。
兄の工場はクリスチーナさんのお母様と提携を結んだようです。大変喜んでいました。お互い戦争を経験し辛い思いをした者同士、今は手を携えて協力関係にあります。母のあの涙がなかったら、もし父がいたら、こうはなっていなかったかも知れません。
またしばらくはいつも通りの生活をしていました。世の中はバブルが弾けて不景気になりつつありました。丁度そのタイミングで主人が定年を迎えましたので、まだ退職も満額支払われました。バブル期も私たち夫婦は普段と変わらず生活するようにしていました。子供達にもお金を残してやらないとと思っていましたしね。少しだけ美味しいものを食べたりはしましたがそれくらいです。主人が時代に流されるような人ではなかったので、私達は定年後も余裕のある生活ができていました。
織耶のところも織耶が主人ににて堅実なところがありましたので、今のうちに貯金すると言ってましたので、大丈夫なようでした。ただ山口さんが株に手を出していたので、少し損をしたようですが、さっさと見切りをつけたようで借金を抱えず済んだようでした。
定年退職後、約束通りアメリカの紘之のところにひと月ほど滞在させて頂きました。クリスチーナさんに負担にならないかと心配しましたが、自分たちのことはなるべくしていましたし、クリスチーナさんのお母様と三人で、日本のお料理を覚えたいとのことで、ちょっとしたお料理教室をしたりしていましたので、皆んな楽しく過ごせました。主人もクリスチーナさんのお父様と、お酒を飲んでましたよ。ただ女性陣からお酒の飲み過ぎを指摘されて二人して大人しくなりましたけれどね。ただこの時お会いするのが最期になるとは主人やクリスチーナさんのご両親も思っていなかったと思います。
日本に帰ってきて老人ホームを探していましたが、中々考えがまとまらずに時間が経っていました。私も還暦を過ぎていまして、二人共が年金を頂いておりました。私たちはこの時小さいマンションを買って住んでおりましたので、このマンションをどうするかも考えなければいけませんでした。
平成七年を迎えて、いつものように代わりのない生活をしていましたが、ある日それが崩れることが起きてしまいました。
一月十七日午前五時四十六分、私たちは寝室のベッドで寝ていましたが、下から突き上げるように叩き起こされその後横揺れが起きました。主人と私はベッドから落とされ、二人より何とか沿っていましたが、物が飛んできたりするので慌てて主人が布団を二人分とり、私に放り投げました。その時です、私は昔のことがフラッシュバックというのでしょうか、映像が出てきたのです。
揺れが収まったとき、私は呆然としていましたが、主人に早く着替えて逃げるぞとの言葉で我に帰りました。
貴重品だけもち、近くの小学校へ避難しました。私達がマンションの外に出た時、想像を超える状況に戦後を見ているようでした。
私は主人に地震が起きた時のことを話し、涙を流しました。昔私が何故記憶を無くしたのか、何故亀の足が悪くなったのか思いだしたのです。
今まで私は亀が自分自身の不注意で足を悪くしたと聞かされていましたし、そう思っていました。それが私のせいで足を悪くしたとわかり、今まで亀に対しての行いを恥じましたし、謝りたいと思いました。けれど、未曾有の災害を前に、どうすることもできませんでした。
息子達や、兄妹達は心配していることだろうと思いましたが、連絡する術もありませんでした。支援物資も届き始めましたが、必要なものもそうでないものも混じっていましたので、仕分けるのも大変でした。
震災が起こり、十日程経った時だったでしょうか、西脇に住む兄の梅之介とその息子の裕二くんが避難所を訪れました。何日も私たちを探してくれていたようでした。亀のご主人や息子の義弘くんも別の避難所を探してくれていたようでした。兄が支援物資を用意してくれておりましたので、それを避難所の皆さんにお渡しし、私たち夫婦は兄の家に身をよせることになりました。ただ道路も封鎖されておりますので、車が通るところまでは歩かなくてはならず、兄の家に着いた時には寝込んでしまいました。住んでいたマンションはもう住めない状態になっていましたので、あの時主人が逃げるぞと言ってくれなかったら、今ここにいなかったかもしれません。
翌日兄の家から息子達に、無事であることを伝えました。やっと連絡がついたので、ホッとしてくれました。それで息子達から落ち着いたら、今後のことを話そうと言ってくれました。
昼頃、亀が訪ねて来てくれ、無事でよかったと私を抱きしめていました。私は亀の顔を見た瞬間、亀今までごめんね。ごめんねと泣きながら謝っていました。亀はどうしたの、何で謝るのと言って困惑していましたが、全部思い出したことを伝えると、黙って私が泣き止むのを待っていました。
私は亀が私を助けた為に足が悪くなったことを謝りました。そして辛くあたったことも。亀も胸に抱えていた思いを話してくれました。
亀はいつも私が一緒にいてくれるので、私のことが大好きで後を追ったりしていました。けれどあの時上から物が落ちそうだったので、大好きな姉が怪我をしてしまうと思い、突き飛ばしたそうです。その後私に本当のことを言わなかったのは、小さいながら、姉の負担になりたくなかったからでした。ただ、大きくなるにつれ、姉に冷たくされたりするのはとても悲しかったようです。一番傷ついたのは、亀の結婚の時に放った私の心無い言葉でした。ですのであまり姉の私と付き合いたくなかったようですが、子供達のことがあって我慢していたようです。ですが今回この震災が起こったとき、姉を失うのではないかと凄く怖くなり、今まで色々思ってきたけど、そんなことがどうでも良くなり、ただ生きていてほしいそう思い、ご主人と息子に姉たちを探してほしいとお願いしてくれたようでした。
私は亀に謝りました。そしてあの時助けてくれたことの感謝も伝えました。それからは兄の家で今までの分を取り返すように、話をしました。兄夫婦もその姿を見て喜んでいました。兄たちもこのことは知っていましたが、亀の気持ちを大事にしてくれていましたので、ずっと見守ってくれていたようです。
しばらく兄に家にお世話になっていましたが、東京の息子夫婦が一緒に住もうと言ってくれましたので、息子夫婦の元に身をよせることになりました。
息子夫婦の家に身をよせてからは、孫たちと楽しく過ごしていたのですが、そんな時、主人が倒れてしまいました。震災などで知らずに知らずに体に負担が生じていたようで、心筋梗塞を起こしてしまいました。自宅で苦しみ出してすぐ救急車で運びましたので、大事には至らなかったのですが、無理ができなくなりました。
病院はその後無事退院できたのですが、その後また発作が起きてしまい、私をおいて一人旅立ってしまいました。まだまだこれからでしたのに、一人残されてとても辛かったです。
亡くなってから主人のものを整理していた時、主人から私への手紙がでてきました。私はその手紙を読み、私が一人残された時にどうすればいいか書かれていました。
主人の荷物を片付けた後、徐々に私の荷物も減らしていきました。そしてようやく準備ができたところで織耶と美香さんに老人ホームへ入居する旨を伝えました。最初は反対されましたが、亡くなった主人の手紙を見せ、主人の準備してくれたことや思いに触れて、渋々ではあったものの、老人ホームへ入居することを許可してくれました。そして今私は老人ホームにいるのです。
おばあちゃん、やっと亀さんと心が通じあったんだね。凄く酷いなぁと思ったけど、震災があるまで思い出せなかったなんて、それも辛いことだなぁ。でもさぁ、考えるとおばあちゃんの周りって温かい人ばかりだね。そういうと、そうだねって笑っていました。
そうしたら、昔話もいいけれど、そろそろ作業を始めましょうかと言われたので、私はおばあちゃんたちに見守られながら、機織り機の前に座りました。
機織り機に座り数日が経ち、やっと生地が完成しました。私が考えたものを形にする為、亀さんのお知り合いの職人さんのところに亀さんと二人伺いました。亀さんの工場から近かったので、ゆっくり歩いて向かいました。その時に、もうおばあちゃんに対して蟠りはないのか聞いてみましたが、全くないわよ、今は大好きな姉に戻ったわって、笑いながら言っていました。
私が考えたのは異素材を合わせてみたいということでした。そして皮製品を加工している方にお手伝い頂くので、その方の工房へ行き、素材や播州織にあった色を合わせ、形にあった型をとり、加工の仕方を教わりながら、少しずつ立体的にしていきました。
完成した時、とてもいいものだったので、亀さんの店にも同じものを置かせてもらっていいかと言われました。私はまさか自分のデザインしたものと同じものがお店に並ぶとは思わなかったので凄く驚きましたが、亀さんには、笑顔でよろしくお願いしますと伝えました。
私がデザインしたのは四角い大きめのポーチバックです。播州織の生地の風合いと皮の引き締まった感じが、カジュアルにもフォーマルにも合いそうな感じでした。
梅之介さんの家に帰っておばあちゃん達に見せると、驚いていました。そして、梅之介さんの息子さんの裕二さんにも見せに行きました。プロの目から見てどうなんだろうと思っていました。すると、若干荒い部分はあるけれど、いいものだと評価してくれました。
私は播州織を調べることで、おばあちゃんの生きてきた背景を知ることになり、それを知ることによって播州織の歴史背景も知ることになり、卒論の材料として十分集めることができました。
そして、お盆が来ました。梅之介さんが迎え日をし、仏壇もお盆のお供えものが並んでいました。お父さんもお母さんと一緒に迎えにきてくれていたので、皆んなでお墓参りに行きました。
その晩は両親も一晩泊まりましたので、私がこちらにきて調べたことや、自分が作った作品などを見て、この短期間にこれだけのことをしてきたのかと驚くととともに、協力をしてくださった梅之介さんしずさん亀さんやおばあちゃんに感謝を伝えていました。
翌日私達は東京に向けて出発しました。途中渋滞になったりしたので、家に到着したのは夜中でした。おばあちゃんも今日は我が家に泊まりました。
弟は昨日一晩は一人で過ごしたようで、少し怖かったって言ってたので、まだまだ子供だなぁと思っていました。
翌日両親がおばあちゃんを送って行き、今日は私は留守番をしていました。そして、就職試験に向けて、準備をしました。
後期の授業が始まりました。教授から卒業制作と、卒論についての話がありました。私は卒論についてはほとんどまとまっていたので、卒業制作に十分時間を費やすことができた為、いいものができあがりました。もちろん生地は播州織を使いました。周りにそういった生地を使っているこはいなかったので、特別感がありました。
友人達も、生地の質感とかとても気に入り、どこで手に入れたのかとか話にあがりました。もちろん友人達もいい作品を作っていましたので、それについての話もしていました。
卒論の提出期間が掲示されましたので、私は早くに卒論を提出したところ、問題もなく評価をしてもらいました。
夏に受けていた就職試験ですが、希望していたところの内定がとれました。無事卒業もできそうですので、一安心です。
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