第5話 病と

 子供が成長すると、従兄弟達とは学校の夏休みや冬休みに会う機会がありました。我が子はまだ幼稚園に通っていましたので、大きい子達がよく面倒を見てくれました。その頃主人は加古川の支店におりました。夏になると海水浴に行くのに我が家へ泊まりがけて来たり、お盆には両家の実家に帰ったりしました。

 

 そして昭和三十九年には、アジア地域で始めて東京オリンピックが開催されました。皆んな父の家に集まりテレビに釘付けとなっていました。この時はもうカラーテレビでしたね。食卓にはご馳走様が並んでいましたが、日本が入場してくるのを今か今かと待ちわびていました。そうそう新幹線もこの年にできました。この時はまだ東京と新大阪の間でしたので、いつか乗ってみたいと憧れがありました。


 その頃からでしょうか、父がよく体の調子を崩し寝込むようになりました。お医者様に罹ったらと何度も言いましたが、寝たら治るの一点張りでした。


 その年の年末、家族で両家の実家に行ったのですが、たった二か月程の期間に、父がほっそりとやつれた感じになってました。母や兄にお医者様には見せたのかと言いましたら、そのことで話があると言って、離れに連れていかれました。そして、この前亀にも話をしたんやけどな、もうな時間がないらしい。余命三か月もてばいいくらいやって言われたんや。胃癌でもうあちこち転移してるらしくてな、寝てることが多くなってきた。そう言われました。私はそんなことになってるとは思わず、声を詰まらせました。本人も体動かんようになってきたから、もう永くないんやろうと思ってるみたいや。だからな、なるべく孫の顔見せに来たってくれと。

 

 看病はどうしてるのか聞くと、普段は母としずさんが、週末は亀が来てくれているとのことでした。そして私は主人に相談し、思い残すことがないようにしなさいと言われましたので、二週に一度三日程泊まり看病をすることにしました。


 看病をしている時、よく昔話をされました。私が幼少期に気を失った時のことや、兄達が亡くなった時のこと、娘達を嫁がせた時のこと、孫ができた時のこと。父親の思いを聞くことができて、僅かな時間でも父と過ごし心の準備ができたことはよかったように思います。


 亡くなる一週間前には実家にずっと泊まり込んでいました。いつ亡くなってもおかしくない状態でしたので、亀でさえも私達と同様に泊まっていました。亀に義弘くんは大丈夫なの、夜に母がいなくてって聞きましたが、主人の母が見てくれてるし、義弘にも言い聞かせてるからと言っていました。私は子供の幼稚園を休ませて連れてきておりましたので、従兄弟達が学校から帰るまでの間は、庭で砂遊びをさせたり家の中で絵を描かせたりしていました。


 父が亡くなって葬儀も終わり、加古川の家に戻りました。私が帰っている間、主人は家のこともやらなければならないので休む暇もなかったようですが、文句一つ言わず、そればかりか主人からご苦労様と労いの言葉を掛けられました。私は言われた時に涙が溢れ出てきまい、そんな私の背中を主人がさすってくれました。しばらくすると私も落ち着きを取り戻し、主人にこれまでの感謝を伝えました。



 おばあちゃんのお父さんって家で亡くなったんだ。介護サービスはって聞いたら、そんなのこの時代にはまだなかったわよって言われてしまった。それにしてもおじいちゃん優しいねぇ。そんな人と私も出会いたいよって言ったら、香織もいつか出会えるよって言ってくれたんだ。それとさぁ、体育の日って東京オリンピックの開催日だったんだね。今は十月の第二月曜日だけどね。時代とともに変わるものなんだねって言ったら、そうだねぇっておばあちゃん達に笑われちゃった。



 父が亡くなった翌年、亀のところにも私のところにも、第二子が誕生しました。亀のところは女の子で芳子ちゃん。私のところは男の子で紘之と名付けました。上の子と年が離れているので、上の子がよく面倒を見てくれて助かりました。


 昭和四十五年、大阪で万博が開催されました。私たちも家族で行きました。人がいっぱいだったので、子とはぐれないようにするのが大変でした。皆ね、宇宙船のアポロだったと思いますが、月から持ち帰った月の石を見るのに何時間も並んだのですよ。子供を連れているので泊まりがけで行くようにしました。山口さんと絹さんご夫婦が大阪に住んでおりましたので、泊まらせて頂いたんです。お二人にもお子さんがいまして、織耶と同じ年の女の子の美幸ちゃんと、二つ下の女の子で美香ちゃん、またその年子で男の子弘樹くんです。私たちは久々に会えて嬉しかったのですが、子どもの世話に追われていました。ゆっくり話せたのは子供が寝てからの時間でした。山口さんは家事を手伝うことがないらしく、子供を見ながらなので大変と愚痴をこぼしていました。そうしたら私の主人が山口さんに、家事覚えておかないと、奥さんに何かあったら大変だぞ。今からでも教えてもらえよ。やると意外と楽しいもんだぞ。って言ってくれていました。山口さんもそんなこと考えたくないけど、少しずつ覚えて行こうかなと言ってましたので、すかさず主人がじゃあ晩酌終わったら俺達で洗い物だと山口さんに言っていました。翌日も帰る迄の間に主人が山口さんに掃除や洗濯を教えていたので、絹さんは助かるわと笑っていました。


 昭和四十八年に、中東の方で戦争が勃発した影響が日本にもあり、オイルショックが起こりました。何故だかわからないのですが、トイレットペーパーや洗剤がなくなってしまうと聞いて、朝早くからいくつも買うのに並びました。皆んな買い占めていましたので、売り場にいつもない状態が続きました。


 実家の工場は女工さんが結婚するので辞めて行く方が続き、人が減っていましたが、新しい人を入れないようにしたようで、景気が少し下がっても工場は回っていたようでした。


 子供が成長してくると、高校受験や、就職や大学などへの道に進むようになります。我が家でも受験に向けて塾に通わせたりしていました。小さい頃から字は綺麗に書けた方がいいだろうということで、書道は習わせていましたので習い事の費用が沢山かかりました。ですので私もスーパーでレジのパートをしていました。この頃は主人が大阪に転勤になっていましたので、子供達は大阪市内の学校に通っていました。そして数年後上の子が大学受験の年になりました。東京の大学をいくつか受験し第一希望の大学に合格しましたので、東京に下宿することになりました。毎月の仕送りは大変でしたが、息子もアルバイトをしてくれるようになってからは、少し仕送り額を減らすことができていました。それでも生活に必要な物や簡単に食べれるようなものを送ったりしていましたので、この頃はあまり貯金額が増えませんでした。下の子は自宅からいける範囲の大学に行きましたので、その点は助かりましたが、海外で仕事がしたいので、英語が話せるようになりたいと海外留学をしましたので、結局上の子以上に費用がかかりました。そして下の子が大学を卒業する頃に主人は神戸の支店に移りました。


 上の織耶は私たちが神戸に移る前年に結婚をしました。相手を聞いて驚きました。山口さんと絹さんの次女の美香さんだったからです。彼女も東京の大学に行っていたようで、アルバイト先が同じだったそうです。小さい頃から何度か会っていたので、まさか親戚関係になるとは思っても見ませんでした。親達は関西に住んでいるのに仕事が関東だったので、結婚式は関東で挙げました。


 子供達は巣立った後は、夫婦二人暮らしになりました。休みの日は夫婦でよく出かけたりしていました。車で遠出をすることもあり、充実していました。


 その頃からでしょうか、今度は母の具合が悪くなってきていました。年齢とともに足腰が弱くなってきて、あまり外にでなくなっており、近所の仲のよかった人も亡くなられたので元気もなくなっていました。


 私は主人と共に、主人の運転する車で実家に度々帰っていました。主人の両親も健在でしたが、お二人共老人ホームに入られておりましたので、こちらにも顔を見に行っていました。


 そうした時、主人が仕事の時間帯に主人から電話が入りました。五日程の夫婦の着替えと、喪服の準備をしておくように言われました。主人の父が老人ホームのレクレーションの部屋で話をしている途中に静かになったので、様子をみると意識がなくなっていたようで病院に運ばれたようでした。子供達にもすぐに連絡を入れ、帰る準備をさせました。一人は海外でしたので、間に合うかはわかりませんでしたが、連絡が早いに越したことはないので、時間も考えずに電話をしました。


 西脇にある老人ホームから聞いた病院に到着すると、側には主人の母と職員の方がいらっしゃいました。病室にはいましたが、いつ亡くなってもおかしくない状態だったようで、私たちが到着すると眠るように亡くなって逝かれました。


 それからは葬儀の準備や親戚への連絡に追われていました。翌日の夜にお通夜、その翌日に告別式をすることになりました。織耶と美香さんには主人の母の側にいてくれるように頼みました。とても悲しそうですが、ぼうっとされていましたので心配をしていました。紘之は通夜の晩遅くに到着しました。喪服は海外でもいるかもしれないので、念の為持たせていましたのでそれが幸いしました。式の費用は主人の父がある程度準備しておられたので、あまりかかりませんでしたが、この頃はまだ葬儀をするのもお金のかかる時代でした。


 葬儀が終わり、主人の母を一人老人ホームで暮らさせるのかという話になりました。ですが住み慣れた土地を離れるのは、負担がかかるのではないかという話になり、そのまま老人ホームでお世話になることになりました。


 しばらくすると、主人の母を見に行くと、私たちの顔がわからなくなっていました。どうやら主人の父が亡くなったことのショックが大きく、そうしてる間に痴呆が進んだようでした。その様子を見て、主人は大変落ち込んでいましたが、なるべく会いにくるようにしていました。


 織耶から久しぶりに電話が入りました。両家の祖母の様子を伺うことの他に、嬉しい知らせが届きました。美香さんのお腹に新しい命が宿りました。主人と久々の明るい話題に喜びを感じていました。おじいちゃんとおばあちゃんになるのねとお互い笑いあっていました。このことは私の母にも電話で伝えました。そうしたら少し元気になったようで、ひ孫の為にとベビー靴や帽子や手袋を手編みで編んでいました。



 おばあちゃん、もしかして私が赤ちゃんの時の写真に写った私が着ている物って、ひいおばあちゃんが作ってくれた物なのと聞くと、皆んなが頷きました。ひ孫が生まれるたびに編んでいたようでした。



 香織が翌年に生まれて半年が経った時、また老人ホームから連絡が入りました。この頃から主人の母は寝たきりになってらおりましたが、様子がおかしく血圧も下がってきていますので、覚悟をしておいてくださいと言われました。そして主人の父の時と同様に息子達へ連絡を入れました。ただ美香さんは香織も小さいですし、家にいなさいと伝えると、一人では不安だということで、こちらまで一緒に来て、山口さん夫婦の元で待機することになりました。


 私たちが老人ホームに到着すると、主人の母は眠るように息を引き取りました。親戚にも父の時と同様に連絡を入れ、息子達も葬儀に出席しましたが、この時紘之の側には外国人の彼女がおりました。その姿を見た時は驚きましたが、日本式のやり方に合わせて、手を合わせてくれていました。


 葬儀が終わり神戸の自宅に戻りました。そして紘之と外国人の彼女も一緒に我が家に来て、挨拶をしてくれました。名前はクリスチーナさんとおっしゃるそうで、アメリカの方だそうです。片言の日本語で一所懸命挨拶をしてくれました。また私たちは英語が話せないので、紘之が通訳してくれました。どうやら来年あたりに結婚式を挙げようかと話をしているとのことでした。クリスチーナさんは日本の白無垢に憧れがあるようで、日本で挙式したいようでした。ただ、彼女のご両親は反対していないのか聞きましたら、最初は反対されたそうですが、あちらでも式を挙げることを条件に許可されたそうです。


 それから半年後、ご両親と共に来日され日本の挙式を挙げる予定にしている神社を見学されました。その他にも京都に行ったりもしました。お話の中で戦争の時の話になりました。お互いに兄弟を亡くしていましたので、悲しい気持ちになりましたが、西脇にも行ってみたいとおっしゃり、翌日にレンタカーを借りて向かうことになりました。梅之介の兄には事情を話しておきました。


 翌日の朝、主人がレンタカーを借りてから、六人で西脇に向かいました。梅之介の兄の家に着くと、迎え入れてくれましたが、母が始めて見る外国人に驚いてしまいました。息子を戦争で亡くしているので、どうなるかは不安でしたが、母にこちらも戦争でご兄弟を亡くされていることを伝えると、泣き出しました。戦争はいかん。息子の命奪ってった。誰も徳はせん。虚しさだけ後に残る。悲しんでも帰ってこやん。絶対に争ったらいかん。そう言いました。その言葉を通訳された時、ご両親も泣いておられました。そしてその後、父や兄達が眠るお墓に行き、手を合わせてくださいました。


 その後、播州織の兄の工場を見学して、兄が播州織で作ったストールやバックなどをお土産に渡していました。お母様は播州織の肌触りに感動されていました。そして生地を買って帰りたいと言っておりました。服のデザイナーをされているようで、帰って作ってみたいとのことでしたので、いくつか種類の違う物を買って行かれてました。兄がこれもお土産にと言いましたが、これはビジネスですので買って帰りますとのことでしたので、うまくいけば、取引先が増えるかも知れません。



 西脇から戻った二日後に、四人はアメリカに旅立ちました。私達はやっといつも通りの生活に戻りました。ただ三か月後にはアメリカで先に式を挙げると言うことでしたので、行く準備をしなければいけなくなりました。織耶夫婦にも連絡しましたが、子供が小さいので、出席は日本のみになりました。


 そして三か月後、私たちはアメリカの地に始めて降り立ちました。入国の際に予定を聞かれるそうなので、あらかじめ言葉を決めておりました。主人とマイ サン ウエディングと片言の英語で答えました。そうしましたら、笑顔でコングラチュレーションと言われてハンコをつかれたので、わからないながらもサンキューと言って入国しました。お土産も沢山持っていきましたよ。

 

 空港へは息子とクリスチーナさんが迎えに来てくれていました。そしてクリスチーナさんのご両親にお会いしました。お土産を渡すと大変喜ばれました。そして、私達は結婚式の前ですが、亡くなられたご兄弟にお参りさせて頂けないかとお伝えしたところ、ご了承頂き翌日にご兄弟の眠るお墓にお花をお供えさせて頂きました。


 アメリカでは息子の家に滞在させてもらいました。結婚式やパーティーはこちらのやり方で行われますので、戸惑う部分もありましたが、楽しい式になりました。

 

 式が終わると、私たちは割と直ぐに日本に戻りました。主人の仕事がありますので、あまり長くは休めませんでした。次はまた三か月後に日本での式が待っています。ですのでその準備を進めるのに、代わりに動かなくてはいけないこともありますので、休んでいる暇はありませんでした。


 日本での式は彼らが決めた神社で挙式と披露宴をするので、親戚も呼ばなくてはいけません。紘之ができればおばあちゃんも出席してもらってとのことでしたので、兄夫婦に伝えました。状態がいい時も悪いときもあるから出席できるかわからんなと言われましたが、母には伝えてくれたようです。そうしましたら、出席する為に頑張ると言ったそうで、しっかり食事もとるようになったそうです。


 そして式当日、母も出席できました。クリスチーナさんの白無垢姿は、ドレスの時とは違う美しさがありました。ご両親も白無垢姿にいたく感動されていました。日本の披露宴も楽しまれたようでした。母とも言葉を交わしたようで、母も終始笑顔でした。


 無事結婚式が終わり、母は西脇に帰って行きましたが、その三日後に家で眠るように亡くなっていたようでした。朝起きてこないので見に行ったところ、冷たくなっていたようです。その知らせを聞いた時は驚きましたが、息子の結婚式が終わるまで待っていたのかも知れないと思いました。


 まだ息子達は日本におりましたので、葬儀に出席をいたしました。母も喜んでくれていると思います。



 そっか、叔父さんの結婚式の後って複雑だな。

「叔父さん達は大丈夫だったの?」と言うと、

「そうねぇ、死を早めたんじゃないかと言っていたわねぇ。でもね、しずさんがね、死を早めたんじゃなくて、あなた達のお陰で生きることを頑張れてたんよって言ってくれたので、あの子達は救われたって言っていたのよ。」と言っていたので、ひいおばあちゃんも幸せな気持ちで旅立ったのなら、よかったのかも知れないなぁと思っていました。

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