第3話 戦争と
ある日の夕方、父や兄達も仕事が終わり家に帰ってきた時でした。町役場の人が我が家に訪ねてこられました。大西松太郎さんはご在宅でしょうかと。松太郎の兄が玄関先で対応し、その後兄の手には赤紙が握られていました。
この頃男の子は十七歳になると軍隊教育が始まり、二十歳になると徴兵検査を受けることになっていました。兄も前に受けていたようです。招集されてもすぐに戦地へ行くのではなく、一定の期間訓練をしてからになります。
呆然とした兄は父に促され、家に入ると父に抱きしめられていました。母は兄の手に握られたものを見て、泣き崩れました。この間竹二郎の兄を失ったばかりなのです。戦争は死と隣り合わせですので、また遠くへ行ってしまうのかと。梅之介の兄や、私と亀もその状況がわかると、とても辛くなりました。そしてこの日は、皆無言で晩御飯を食べていました。ですが、ほとんど喉が通りませんでした。
招集される日までの間に、急遽松太郎の兄に縁談がまとまりました。父が周りの人に世話してくれるよう頼んだようです。松太郎兄さんより四つ下で、父と同業の人の娘さんで、名前はしずさんと言いました。元々しずさんのお姉さんとの縁談だったのですが、招集されるまで日がなかったので、お姉さんが嫌がったそうで、代わりにしずさんが嫁いでくることになりました。
自宅で祝言をあげ、招集される日までは一日しかありませんでした。翌日には列車に乗り軍に指定された場所へ向かいました。母としずさんは、兄の為に握り飯を作り持たせていました。そしてその日からしずさんは我が家で暮らすことになりました。
しずさんはとても優しい人で、母と家のことをしながら、私や亀と一緒に遊んでくれたり、学校の勉強をしていると、よく褒めてくれました。ただ梅之介兄さんは、どう接していいのかわからないようで、そっけなかったです。
年があけて二月頃、シンガポール陥落の一報が私たちの町にも届きました。そしてその時には花林糖や金平糖など入った一袋の干菓子が配給されました。久しぶりの甘い物に喜びましたが、またいつ甘い物が手に入るかわからないので、皆大事に食べました。
四月頃に初めて戦火が日本に落とされました。ですがまだどこかとおくの出来事のように感じておりました。
そんな中、兄の松太郎から手紙が届きました。しずさん宛です。届いた時、しずさんは嬉しそうでした。けれど手紙を開き読み進めて行くと、顔色が変わりました。父や母が何が書いてるのか聞くと、戦地へ行くことになったようですと、手紙を父に渡していました。招集された以上、いつかは戦地へは向かうのですが、現実を突きつけられると、やはり心配でした。皆しずさんに気遣い、家では無事に帰るように祈っていました。家の外ではそういった発言をすると、非国民と言われ憲兵に連れて行かれたり、村八分になったりしますので、発言に気をつけなければいけませんでした。
戦争中ですので外国の戦闘機が来ると警報が度々鳴らされ、そのたびに急いで頭巾を被り、防空壕へすぐ逃げ込みました。しばらく過ぎ去るのを待ち、警防団の人が解除を言いに来てくれるまでは、防空壕で物音たてずにじっとしていました。
昭和十八年頃、戦いは日本、ドイツ、イタリアなどの連合軍の戦勝報告が届いていました。ですので兵隊さんが頑張ってくれてるから、私たちも頑張ろうとしていました。
兄は戦地に行ってからしばらくは、手紙が来ていましたが、いつ頃だったか思い出せませんが、全く届かなくなっていました。しずさんは便りのないのは良い便りと言い聞かせているようでした。私や亀もしずさんがそういうので、家で口癖のように言っていました。するとその光景を見て母は笑っていました。
ある日また役場の人が訪ねて来られました。大西松太郎さんのご家族はこちらでしょうかと。そして父が対応し、役場に届いたという電報を渡されました。内容は兄が戦死した知らせでした。その知らせを聞いたしずさんは倒れて気を失ってしまいました。急いで布団に寝かせ、母がそばにおりました。私たちは涙が止まらなくなりましたが、必死で声を殺して居ました。敵国の人に聞こえてしまうとと思うと、大きな声を出せませんでした。
しばらくすると気がついたしずさんが、母の胸の中で泣いていたようでした。その後泣き腫らした目をして母と私たちのところにきて、松太郎さんが亡くなったのは何かの間違いです。きっとそうです。きっと帰ってきます。松太郎さんと約束したんです。だから帰ってきます。そう言いきりました。それを聞いて、そうよ、しずさんの言う通り。兄さんは帰ってくるそう思うようになっていきました。便りのないのは良い便り。その言葉を私と亀は何度も何度も繰り返していました。ただ父と母は、そう信じることで気丈に振る舞っていることはわかっていたようでした。ですので、私たちへしずさんのそばから離れないように言われていました。兄の葬儀もこの時はしませんでした。兄のお骨や遺品が戻ってきたわけではありませんでしたし、しずさんの気持ちを考えるとできなかったのです。
日が経つ毎に、物資不足なのか工場にある金属製品や、家にある金属製の物が、お国の為にと回収されていきました。この頃は父と梅之介の兄が工場で働いていましたが、段々と仕事ができなくなっていきました。織るための資材が入ってこなくなったからです。ですので昭和十九年の年明けより、梅之介の兄は軍事工場へ行くことになりました。ここからは離れている為あちらに泊まり込むことになり、皆んなに見送られ一人出発していきました。一度行くとなかなか帰ってこれないようでした。けれど、帰ってきた時には、今何してるのかを話してくれたりしました。
しずさんは相変わらず、兄の帰りを待っていました。家のことをしながら、父や母を気遣って自らすすんで婦人会のこともしていました。家で針仕事をしたり、私や亀と畑で泥だらけになることもありました。
段々と警報の頻度があがり、昭和二十年になると、日本各地で焼夷弾が次々に落とされ、日本中が火の海になっていきました。配給の量も少なくなっていき、食べるものも無くなっていきました。ですので水で空腹をしのいだりしていました。
各地の軍事工場へも爆弾が落とされていたようでしたので、軍事工場で働く梅之介の兄を皆心配しておりました。そんな時兄の働く軍事工場で爆弾が落とされたと連絡が入りました。兄の安否が気になりますが、私たちはどうすればいいかかわからないでいました。父は兄を探しに行くと言いました。でも父まで居なくなるとという思いが湧き上がり、家族総出で父を止めていました。その時、玄関からただいまと声がしたのです。私たちはそちらの方を見ると、梅之介の兄がおりました。私たちは父の腕や足を持って兄の姿を見て固まっておりましたので、兄がどういう状況ですかと驚いていました。
取り敢えず、兄が戻ってきたことに安堵し、工場のことを聞きました。すると、丁度この日は兄が家に戻る日にあたっていて、何故か逸る気持ちが抑えられなくて、いつもより一時間早く工場を後にしたらしいです。何故だか竹二郎の兄が持っていた本が読みたいと思ったと言っていました。けれど帰るまでの間に、その気持ちはおさまっていたのだそうです。竹二郎の兄が、知らせてくれたのかもしれないと言っていました。
その日から梅之介の兄はずっと家にいました。働きたくても働く場所がないのです。一度父と一緒に軍事工場があった場所に行ったようでしたが、焼け落ちていて、一緒に働いていた人がどうなったのかもわからないようでした。
昭和二十年も八月に入り、とても暑い日が続いていました。そんな時、今度は父に赤紙が届きました。数日前に広島に大きな爆弾が落とされ、昨日長崎にも大きな爆弾が落とされたと一報が入り、皆が混乱していた時でした。そして出発する当日がきましたが、行く予定の軍事基地への道が閉ざされた為、出発予定の日に出発ができなくなりました。父もどうすればいいかわからず、取り敢えず家で待機しておりました。
昭和二十年八月十五日、正午よりラジオを聞くように前日に通達がありましたが、私たちは家にラジオがなかったので、小学校に集まって皆んなで聞くことになりました。
正午になりラジオから流れてきたのは、天皇陛下のお言葉でした。この時初めて天皇陛下のお声を聞いたのです。皆がその場で正座をし聞いていました。ただ小さい私たちは言葉が難しいため理解できませんでしたので、帰ってから父に聞きました。父は、戦争は終わった。日本は負けたようだと言っていました。
しばらくして戦地に行った人が戻ってくるという知らせが届いていました。しずさんも、そして私や亀も松太郎の兄が帰ってくると信じていたので、いつ帰ってきてもいいようにと、兄の布団を干したり、帰ってきた時にどんなこと話そうかと相談し合ったりしていました。けれどいつまで経っても兄が帰ってくることはありませんでした。
ある時、兄と一緒の部隊にいたという人が訪ねてこられました。そして、兄の遺品を渡されたのです。兄はやはり亡くなっていたのです。しずさんは泣き崩れてしまいました。兄が部隊でどのようにしていたのか、そして何故亡くなってしまったのか、その人が話をしてくれました。そしてお互いどちらかが亡くなった時は、相手の家族に会いに行き、遺品を届ける約束をしていたのだそうです。その人は、三木の人で自分の家に帰る前に寄ってくれたようでした。
兄は旅立つ前、しずさんに戦地に行ったら何があるかわからない。だから、帰ってきてから夫婦として始めよう。もし今子供ができたら、君の負担になるといけないので、それもやめておこう。けれど、皆んなには黙っているんだよと言っていたそうです。だから兄の言葉を信じてずっと待っていたと言っていました。そして私たち家族は、兄の葬儀をすることになりました。
葬儀のあと、しずさんは出て行こうとしました。ですが、皆んなで止めました。この時代一度嫁いだものが、実家に戻ることは難しく、また女性一人で生活することもできませんでした。ましてや戦後の混乱している時です。するとその時、梅之介の兄が、しずさんも家族やからここにおったらええ、遠慮することはない。堂々としとったらええ。そう言いました。今までしずさんにそっけなくしていた兄が言ったのには驚きましたが、皆んながその言葉に頷き、皆んなでしずさんを抱きしめました。
それから父と兄は機織りの工場を再開させるために、周りの人と協力しあっていたようでした。時には闇市に行ったりもしていました。売れるものは売ってお金を稼いだり、皆んな生きて行くのに必死でした。焼け跡に掘立て小屋を建てて商売をしたり、雨風を凌ぎ生活している人も沢山おりました。戦後は何もなかったのです。
少しずつ父の工場が稼働し始めて一年が経とうとしていました。稼働し始めた頃から、しずさんも父の工場を手伝っていました。最初の頃は緊張しながら一所懸命でしたが、今は仕事も覚え楽しそうにしていました。父も母ももう一人の娘として次の嫁ぎ先がみつかるまではと、大切にしていました。私と亀もずっと姉として接していました。家のことは、母と私と亀でしていましたので、しずさんは家ではゆっくりしていました。工場も働き手が増えたことで生産量が増え、生活もよくなっていきました。
焼け野原だった遠くの町も、時間が経つと変わっていきました。
それから三年経ったある時、家族でご飯を食べている時、梅之介の兄がしずさんと一緒になりたいと言い出しました。皆んな驚きました。言われたしずさんも、私は梅之介さんよりも、三つも上ですよと言っていました。ですので気がないのかと思っていたのですが、父は工場で二人の様子を見ていたようで、事前に母には様子を伝えてそっと見守ろうと話をしていたようでした。
父がしずさんに、自分の気持ちに素直になるように言いました。そして母も父の言葉に頷き、しずさんを笑顔で見ていました。するとしずさんは、お父さんとお母さんが許してくださるならと言いました。そして、しずさんは梅之介の兄と縁を結ぶことになりました。
私と亀は全く二人の気持ちには気付きませんでしたので大変驚きましたが、これからもずっとしずさんと一緒に暮らせると思うと、大変嬉しかったのを覚えています。
父と兄は、しずさんの実家へ断りを入れに行きました。しずさんのご両親も大変心配しておられましたが、再度嫁に行けるとわかり安心しておられました。松太郎の兄との時は急だったので、十分なことがしてやれなかったし、兄が亡くなった時も親として悔しかったと仰っていました。祝言をどうするかと言う話をされた時に、しずさんの希望で、自宅で前と同じように家族だけということをつげると、残念がっていました。
兄たちは祝言のあと、離れで暮らすようになりました。けれど、しずさんも工場に行っていたので、食事は一緒にしていました。
しばらくすると、前のように女工さんに働いてもらうことになり、前に働いていた人に手紙を書きましたが、皆さん嫁がれていて、戻ってくることはありませんでした。ですので、新たに募集をし、何人か通いの人が来てくれることになりました。仕事は戦前のように忙しくなってらいきましたが、この時はまだ、あのようなことが起こるとは思っていませんでした。
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