第2話 幼少期

 中国山地の山々、そしていくつもの河川が流れ込む、温暖で綿花の栽培が盛んな地域、そんな土地で私は昭和九年に五人兄妹の四番目として生まれ、名前は鶴と名付けられました。そして二年後には妹の亀が生を受けました。


 父の大西松吉は播州織の機械工場を営んでおり、一番上の兄松太郎もそこで父の跡を継ぐべく一緒に働いていました。工場には女工さんが何人もおり、工場の横には女工さんが寝泊まりするところがありました。私達の家も小さい頃は同じ敷地内にあり、工場の機械音が常に鳴り響いておりました。


 私が六歳、亀が四歳の頃、今の時代だと幼稚園や保育所に行っている学齢ですが、戦争が始まってからか閉鎖されており、ずっと家におりました。私には他にも二番目の兄竹二郎と、三番目の兄で今お世話になっている梅之介がおります。上の兄の竹二郎は身体が弱く、尋常小学校を卒業した後は学校には行っておりませんでした。行っていたとしたら中学三年生です。けれど沢山の本を読んでいるので、凄く頭が良く、計算は松太郎兄さんお下がりの中学校の教科書をみるとすぐに理解していたようでした。一番歳の近い兄の梅之介は、尋常小学校に通っておりました。


 母は一日中家事をこなしていました。家族が七人のため食事の支度は一日三度ですし、洗濯物も多く今の時代のように洗濯機はなかったので、洗濯板を使い井戸水で洗濯をしていました。ですので母はよく腰が痛いと言っていたんです。家の掃除をする時は、まず塵払を使い高い所の埃を落とし、箒で外に向かって掃いていました。もちろん掃除機もない時代ですからね。その後に水拭きをするんです。大きくなってからは嫁に行っても恥ずかしくないようにと、家事をこなせるように私も亀も仕込まれました。


 私達は母に、何度も何度も工場へは行かないように言われていました。仕事の邪魔になりますし、機械を扱っていること、倉庫には糸や出来上がった生地がありますので危険なのです。ですので亀と追いかけっこをして、工場の敷地の方に入ってしまうと、母にすぐ見つかり、家で正座をさせられて叱られました。そんな私達の相手をしてくれたのは二番目の兄の竹二郎でした。竹二郎は心臓が良くなく、すぐに体調を崩す為、一人部屋を与えられていました。普段は自室で過ごす事が多かったのですが、調子がいいと、敷地内をお散歩していました。そして兄はよく私達に色んな話を聞かせてくれていました。神話のお話だったり、兵隊さんのお話しだったり、敷地内で育ててる野菜の育て方や、お母さんのお手伝いのこと、日によって違うから楽しかったんです。学校から帰ってきた兄の梅之介も、宿題をすると外で遊んでくれました。

 

 夕方になり一番上の兄は仕事を終えると、父より一足先に家に戻ってきました。家業は継いだものの、工場の機械だけでなく経営についても知っておかなければならないので、自宅でも机に向かわなければならないのです。その為父が帰るまでにわからないことをまとめて、帰ってきた父に教えてもらっていました。


 父はそんな兄に期待を寄せていました。食事中も、殆ど父と兄が話をしていて、たまに私や亀が話をすると、静かに食べるように言われました。竹二郎や梅之介の兄は慣れたもので、静かに黙々と食事をしていました。母は食事が終わると洗い物をするので、私もお茶碗を運んだりお手伝いをしていました。お風呂は父や兄が入った後、母と亀と私で最後に入りました。その後亀と私、竹二郎、梅之介の兄はお布団に入りますが、父と松太郎の兄は、キリのいいところまでずっと仕事の話をしていました。母もそれに付き合い、お茶を出したりするので控えているようでした。


 翌朝は母が早くから起きて朝食の支度をし、父と松太郎が最初に朝食をとり工場へ、そのあと五人で朝食をとりました。


 母は手があくと、縫い物をしていました。家族分の着物を縫ったり、出かける時に着るシャツやモンペ等も、母の手縫いでした。亀と私はその横で、余った端切れで巾着袋を作っていました。まだ縫い目が大きかったり、真っ直ぐ縫うのは難しいですが、物を作るのは楽しかったんです。母はお手玉もたくさん作ってくれました。お手玉の中には小豆や大豆や蕎麦の実を入れていました。


 小さい頃は昼ご飯の後、亀と昼寝をしました。その後は母が夜ご飯に使う野菜の準備をするので、手伝いました。庭の野菜を摘んだり、野菜を洗ったり、包丁の使い方もこの頃から教えてもらいました。出汁の取り方、味付けの仕方もです。火があり危ないので、直接鍋に触れることはできませんが、味見をさせてもらい味付けのいい塩梅を覚えました。この頃はお米は配給制でしたのでとても、貴重でした。ですのでほぼ毎日お粥でした。


 また綿糸や綿製品の自由販売も禁止されていましたが、私達は年に一度母と工場の倉庫に入らせてもらうことができました。新しい生地を見せてもらえるんです。その日は朝から楽しみにしていましたし、貴重な日だったんです。亀と二人、母の後ろをついていきました。倉庫の中は、私の頭より高い位置に生地が沢山積まれていました。父や兄、そしてここで働く人達が、日々機織り機で作り出したものだと思うと、感慨深いものがありました。


 倉庫の中を働く人に挨拶をしながら歩いていた時でした。積んでいた生地が荷崩れし、私達目掛けて積まれたものが崩れてきました。その時妹の亀は上を見上げていたので直ぐに気づき、前を歩いていた私の背中を突き飛ばし庇ってくれましたが、私は運悪く柱に頭をぶつけて気を失いました。亀はその時に足のあたりが下敷きになりました。母はその光景を見て叫び、何事かと飛んできた父達に助けられ、直ぐに二人友お医者様に診てもらいました。


 私は脳震盪を起こして気を失っただけのようでしたが、母はピクリとも動かない私を見て、我が子を失ってしまうのではないかと、心労で倒れてしまったようでした。私は数時間後に目を覚ましましたが、しばらく安静にする様に言われていたので、布団に寝かされていました。私が目覚めたことを知ると、母はほっとしたようですが、妹の足を見て驚いていました。私が目を覚ました時、亀は左足を骨折して足に添え木をして固められていて、私の横に寝かされていました。


 これらのことが起こっていた時、我が家の男性陣は家のことはまるでわからない為、頭を抱えていたようです。けれど、工場の倉庫で起きたことだったので、女工さん達が心配し、家の家事をその日は手伝ってくれたようでした。普段は厳しい父ですが、女工さん達に感謝の言葉を言ってる姿を見て、違う一面を見たようでした。


 私は亀が足を怪我していたので、私はどうしたんだろうと思い、母に聞きましたが、母は何も憶えていない私に驚き言葉を濁しました。この時私は部分的に記憶が欠如してしまっていたのです。ですのでこの後も詳細を聞かされることはありませんでした。


 亀は足が治るまで、歩くことを禁止されていました。トイレに行く時やお風呂に入る時は、母や梅之介の兄がおぶって移動していました。私が起きれるようになってからは、亀の世話を手伝いました。亀に何故怪我をしたのと聞くと、遊んでいて転んでしまったっと私に言いました。その時は気をつけないとって笑ったりしてましたね。一ヶ月程で亀の足の骨はくっついたようですが、足首が固まってしまい、うまく歩けなくなっていました。母はとても悲しんでいました。嫁の貰い手がないんじゃないかって心配をしたようです。そしてこのことがあってから、家を移ることになりました。今現在梅之介の兄が住んでいるのが移ってきた場所です。


 竹二郎の兄は、家族の為に何も役に立たない自分に悲観していました。そして塞ぎ込むようになっていたのです。そうなると体調も悪化していきました。ただ、私と亀はそんな兄に無邪気に接していたので、気が紛れてきたのか、少しずつですが笑顔が戻りました。


 工場は私達が引っ越しをしてから、国民服の生地を作るようになっていました。ですので少ない人数で賄えるようになってしまいました。今まで働いてくれていた女工さんには、倉庫にある生地を何枚か持たせて、家に帰したのです。また前のように作れる時が来れば、呼び戻すからとも伝えて。


 何故このようになってしまったのか、それは昭和十二年だったとおもいますが、日本は戦争をしていました。この時は中国に日本軍が侵略していて、北京で中国側が日本に攻撃をしたのがきっかけとなったようです。戦争が長引いていたので、物資不足になっていたんです。物が段々となくなっていきました。新しい家でも、野菜を育てていましたしたが、この頃から食事の回数が二回に減ったりしました。


 ある日、父や兄が仕事に出かけた後、中々竹二郎の兄が起きてきませんでした。梅之介の兄が母に言われて竹二郎の兄を起こしに行くと、兄は冷たくなっていたのです。兄は驚きその事を母に伝えると、母は直ぐ梅之介を工場に向かわせ、父がお医者様に連絡を入れました。栄養が不足し、心臓の悪い兄に体には負担がかかっていたようでした。そして、誰にも気づかれないまま一人で亡くなっていたのです。私と亀は、兄の枕元に行き、竹二郎の兄にいつも通り話かけました。けれどもちろん返事は返ってきません。どうしてなのか訳がわからずいましたが、人の死というものを知ったのはこの時が最初でした。こういう時なので、葬儀も身内だけで出しました。


 葬儀の後、母と一緒に兄の部屋に入るととても整理されていました。そして机には兄の手帳がありました。見てみると、病気の兄が抱えていた、心の葛藤が綴られているようでした。ただ、亡くなる前日に書き残されたものを見ると、兄自身死期がわかっているようでした。日々起きている自分だけにわかる体の変化が、そうしたことを思わせるには十分だったようです。最後には家族への感謝で文字が締めくくられていました。


 私達家族は四十九日が終わるまでは喪に服し、家では殆ど皆が無の状態でした。親よりも子が先に逝ってしまうなんて、親とすればどれだけの悲しみなのか。私と亀もどうしていいのかもわからず、二人で話すときも小声でした。日々の日常は戻ってはいるけれど、表情が無かったのです。


 私と亀は今までにも増して、家の手伝いをするようになりました。そうしないと、遊んでいると笑ってしまいそうになるからです。ですがそんな時、梅之介の兄がこのままではいけないと思ったのでしょう。食事の際に竹二郎の兄のことを話してくれました。兄さんはいつも僕や妹達に色んなことを教えてくれました。だから兄さんが亡くなったことはとても悲しいですが、亡くなった兄は一番悔しかったと思います。だから生きている僕たちが一生懸命生きて、兄の元に行った時に、今度は色んな話をしてあげたいです。それを聞いた家族は、顔を上げました。父はそうだなと、しばらく目を瞑り考えていましたが、意を決したように話を聞かせてやるかと、その日から、食事の際に皆で話をするようになり、表情も戻っていきました。


 父の仕事も統制下にあっては、苦しい状況でした。自由に物作りができず、作っているものも変わり映えせず、ただ一色の織物でした。でも皆がそうでしたので、耐えていました。兄の松太郎も父と同じでしたが、いつかの為にと、今まで折り上げたものの詳細を残そうとしていました。


 各地の婦人会では資源再生の目的で、不要なものを回収や交換を行う等、国策に協力していました。昭和十五年頃だったと思いますが、毛織物が配給制になったのです。この時代、嫁入り支度には着物や帯が何枚も必要という意識がありましたので、年頃の娘をもつ親達は、生地を手に入れるのに躍起になっていました。私や亀はまだ小さいので、その点では心配なかったようですが、よく母のもとにも、不要のものがないか聞いてきた方が何人もいたようでした。


 そういえば、家庭に入った女性は皆んな、白い割烹着を着ていたんです。私は物心ついた時には母が常にそうでしたので、お嫁に行けば着れるものという風に思っておりました。小さい頃は憧れのものでした。けれど、婦人会の人達が割烹着を着て町を見回りをしたりしていたのを見てからは、これを着ると婦人会に入って、見回りをしないといけないのかなと思ってしまい、着るのが嫌だと思うようになりました。


 私は尋常小学校に入学する年になりました。今のようにランドセルなんてものはありません。母が縫ってくれた鞄に学校で必要な物を入れて、兄と一緒に学校へ行きました。


 この年から教科書が変わったようでしたが、どう変わったのかはこの頃の私には全くわかりませんでした。けれど家庭を写した挿絵には、父親の姿はなかったように思います。そして、運動も日々体を鍛えるものになっていき、運動会も戦争ごっこでした。それはどうしてなのか、それは太平洋戦争が勃発したのです。


 町の至る所には、防空壕が作られました。遠くの町では爆弾が投下されたのです。この爆弾により、日本各地が焼き尽くされました。


年が変わり学校へ行くと、父親がいない子がちらほらでてきました。それは戦争のためでした。この頃から赤紙が届き、徴兵されていったのです。


 梅之介の兄は、学校へ行きながら、父や兄が働く工場で働くようになりました。来年からは父や兄と一緒に工場で働くことになっていましたので、その前に少しでも仕事を覚えさせる為でした。もしかしてこの後起こることを予期してのことなのかもしれません。


 

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