第37話 開放

 普通なら、悲しみ続けたのだろうか。

 まともなら、毎日、泣きながら過ごしたのだろうか。


 それとも既に狂っているから、何も感じずにいられたのだろうか。

 

 あのとき、感情に支配され、泣きじゃくり何もかも呪った。


『あなたのそれは復讐よ。それに取り込まれないで』


 抱きかかえて諭してくれた人はそう言った。

 不思議と、激情の記憶はその言葉と共に終わっていた。

 体感した記憶も、ありとあらゆる光景も、それは簡単に紐解かれるのに、そこに紐付られた感情に靄がかかっていた。

 暴走する心を、大きな柔らかな膜で包まれているような感覚。

 それは心地よさも感じていたが、庇護されている気分は否めない。


 ずっと寝てなさい。

 そのまま夢を見てなさい。

 そんな子守唄と共に、心の奥底は暖かいものに覆われていた。


 でも、危険な外界から身を守る柵は、自由で広い外界に旅立てない檻でもあった。


 庇護は拘束。

 優しい保護者が構築した、柔らかい枷。


 だけど気づいてる。

 臨界を越えた時、この力は仮初かりそめの殻を簡単に破り孵化してしまう。

 赤い炎は宿主も含め周囲を全て焼き尽く。


『あなたのそれは復讐よ。それに取り込まれないで』

『……どうすれば、いいの?』

『守れなかった人の分、他の人を守りなさい。守りたいと願いなさい。あなたがそれを想い続けていれば、きっと大丈夫よ』

『守る……』

『でも忘れちゃだめ。自分を大切にすること。あなたが死んじゃったら、あなたは誰も助けられないでしょ?』


 だから私は、死ぬわけにはいかなかった。

 誰かを守らなければいけなかった。


 そして、檻を出た。



百合香ゆりか! いい加減に目を覚ませ!」


 誰かが何かを叫んでいる。

 視界は全て赤に染まっている。

 世界も、動くモノも、対峙する者も。


 対峙?


 私は何と戦っているのだろう。

 私の大切な友達を奪った魔獣と?

 それとも私の力を奪おうとする者?

 

 違う。

 山核を奪おうとする者から、山核を守るんだ。

 私の中にある力が、それを求めている。

 この力は強大で、何かを守るために、何かを滅することができる。

 何かを守るため、この力は不可欠だ。

 そうすれば、一緒にいられる。

 強い力を持つ、みんなと、彼と、ずっと一緒にいられる。

 だからこの力は必要で、その力は、私に守れと言っている。

 中途半端な状態な山の幸は、解放と共に失われるかもしれないと、私を煽る。


百合香ゆりか! 技能に飲み込まれるな! お前の意思がなければそれは氾濫と変わらないんだ!」


 でも戦う相手は私の力を否定する。


 私の意思? ちゃんとここにある。

 大切な人の隣に立つために私はこの力を使うんだ!



 百合香ゆりかを纏う熱の壁がさらに厚みを増す。

 おびただしいほどの赤熱した柱がかいを襲う。

 それを変形した丁丁発棘ちょうちょうはっしで弾きながら近づこうとするが、絶妙なコンビネーションで赤狼が邪魔をする。


 考えは間違っていないはずだ。

 まず百合香ゆりかをなんとかする。

 その上で赤い狼を倒す。

 そうしなければ、百合香ゆりかはこっちに戻ってこれない気がしていた。

 守護する魔獣を先に倒してしまえば、百合香ゆりかが新たな守護者としてナベワリに取り込まれてしまう可能性がある。

 それはただの勘だったが、わずかでもそんな可能性があるならば、それは防がなくてはならない。


 何より、かい百合香ゆりかと共闘したかった。

 二人で並んで、この難敵を退けることが、これから二人が並んで歩くために必要な儀式に思えた。


「だから邪魔すんな! 犬っころ!!」


 かいは右腕の丁丁発棘ちょうちょうはっしを伸長しながら、赤狼の着地を狙い横薙ぎに振るう。

 身をすくめて躱そうとする赤狼。

 ぐにゃりと曲がる丁丁発棘の先端が、奴の鼻っ面を追尾し、激しく殴打する。


 意識を逸らしたと見られていたのか、百合香ゆりかが距離を詰め左腕を伸ばし、抜き手に合わせた灼熱の槍が指先から放たれる。


 かいは左の丁丁発棘ちょうちょうはっしを平面上に変形させ、槍を受け流す。

 槍を躱しながら、業熱を纏う百合香ゆりかの体を抱き留める。

 隊服の防御力が飽和状態になるのが分かる。

 この神具がなければ、かいはとっくに炭の粉になっているはずだ。


「もう少しだけ耐えろ! 力を貸せ!! 切磋卓磨せっさたくま!!」


 かいの両腕の腕輪が金色に輝き、両腕の丁丁発棘ちょうちょうはっしが、かい百合香ゆりかを包み込む。

 形だけ見れば金色の繭。

 その金色の檻は、二人を内包した。



 捕らえられてしまった。

 体の中から熱い力が抜けていく。

 いやだ、だめだ、私から力を奪わないで!

 この力がないと、私は守れない!

 一緒に、いられないの……。


「力なんかなくても、俺はお前とずっと一緒だ」


 ……え?


「俺はお前を守りたかっただけだ。だから危険から遠ざけたかった。余計なことは伝えなくていいと思った」


 ……


「でも、そうじゃないよな。これまでもずっと背中合わせでやってきたお前は、仕舞って飾っておく人形じゃない。俺と同じ、ただの弱い人間だ」


 ……弱い


「そうだ。俺は一人じゃなにもできない。お前がいないとダメなんだ。だから、弱い者同士だから、お前と一緒にいたい」


 一緒に、いてくれる?


「だからここまで迎えに来ただろ? 一緒に帰ろう」


 かい


◆ 


 百合香ゆりかの心が、体が、彼の想いで、開かれていく。

 同時に、お互いの記憶の一部が共有されていることを知る。

 それぞれの思い出が混じり合う感覚に、不思議な多幸感を覚えていた。


「……かいの体、熱いね」

「ああ、誰かさんにたっぷり燃やされたからな」


 混ざる感情が恥ずかしくて発した声をきっかけに、かいは武具の変形を解き、それはいつものトンファーのような形状に戻る。


 夜風が、抱き合ったままの二人を冷ます。


 そこに輻射熱が迫る。

 蚊帳の外にいた赤狼は切迫感を露わに、その爪を振るう。


「いけるか?」

「うん!」


 二人はお互いの拘束を解き、今一度戦いの炎を燃やす。


 赤狼は仲間を奪われたと思うのか、それとも子離れが許せないのか、馬ほどの体躯をさらに膨張させる。

 迫る剛腕は、いつかの熊の魔獣よりも太く速く、熱かった。


 かいの武具が迎え撃つ。

 その鋭い爪は、弾くだけではだめだ。

 先端を円形の盾のように変形させ、その腕を弾く。

 膂力の差は歴然だが、かいの意思に武具が応える。

 それでも足りない!


「応えろ! 神具!」


 左の腕輪がフラッシュのように輝き、赤狼の力以上の反発力を生む。

 接触点を起点として衝撃波が生まれ、赤狼の体が歪に吹き飛ぶ。

 同時に、左腕輪に輝いていた金の光と、左手に持っていた武具が消える。


「任せて!」


 かいの横に立つ百合香ゆりかが左腕を伸ばす。

 添えられた右腕で固定された指先から、赤熱した炎柱が高速で伸びる。

 

 百合香ゆりかの体は炎に覆われていない。

 これがおそらくは、彼女が手にした技能の本来の力なのだろう。

 赤熱と朱炎を操る力。


 それは姿勢を崩した赤狼を吹き飛ばす。

 正確には、狼が纏う炎を全て吹き飛ばした。


 熱によって生まれた気圧差が、豪風を呼び、周辺は急激に冷まされた。

 熱と炎が消え失せた大地には、炎を失った巨大で歪な狼の魔獣が立っている。


「左の武具は使用限界で使えない」


 かい百合香ゆりかにぼろぼろになった左腕を掲げて見せる。


「でも、使えるようになったんだね」

百合香ゆりかに内緒で卓磨たくまさんのとこへ行った理由だよ」

「隠す必要、ないよね」

「蒸し返すなよ、俺にとって百合香ゆりかを守る手段は一つでも多く欲しかったんだ」


 少し膨れた百合香ゆりかに、かいは照れ臭そうに顔を背ける。

 もう、ここには炎はないから、月の灯りだけでは、そんな彼の表情は見ることはできない。


「しょうがない。かいの左側は私が担当してあげる」

「その力、制御できてるのか?」

「今はね。大丈夫」


 先ほどまでの状態がなんだったのかかいには分からなかったが、それはもうどうでもいいと思った。ここにいるのは、本当の裾野百合香すそのゆりかだ。


「それじゃあ、一緒に行くぞ」

「うん!」


 呼応するように狼も動く。

 属性を失ったといえ、魔獣には変わらない。

 

 ナベワリの山頂に配された魔獣。

 山核の守護魔獣。

 それはかつて百合香ゆりかのクラスメイトを蹂躙した赤い狼とどのような縁があったのかは分からない。

 だが、百合香ゆりかの中に存在している力は、魔獣にとって因縁の深い力だったのだろう。

 魔獣の本能は、山核の守護よりも、その力が人の手にあることを嫌がった。


 故に魔獣は百合香ゆりかに迫る。


「俺が止める!」


 かいはそれだけを伝え、直情的な魔獣に正対する。

 伸ばした右腕の丁丁発棘ちょうちょうはっしの先端が八つに裂け、それぞれが高速に、放射状に広がる。

 すぐにカーブを描き、魔獣の相対位置と同期する。

 四肢に対し二本ずつ、鋭利な先端は魔獣の四肢を大地に縫い付ける。

 かいはそのまま頭を下げ、開いた空間が射撃点となった。


「返すよ」


 ありがとうでも、さよならでもない。

 そんな義理はなかったが、百合香ゆりかは穏やかな顔で告げながら左腕を伸ばす。

 全ての力を失ってもいい。

 仮初の感情の全てと共に、無自覚に取得した力を放つ。

 

 それは思いのほか淡い赤色だったが、赤い狼の魔獣を一瞬で粒子に変えた。


 その残滓が消え失せると、嘘のような静寂だけが残る。


「行こう」


 かいの言葉と共に伸ばされた手を、百合香ゆりかはしっかりと握りしめる。

 何を失ったとしても、かいの手がそこにある。


 それがすごく、嬉しかった。

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