第35話 赤熱

 赤い狼。

 百合香ゆりかの記憶が開かれていく。


 あの日、大古おおこ中学校の校庭に現れた赤い狼は、火災旋風のように走り回る。

 走れるようになった子どもが、ただ意味もなく走り回るのと同じように。

 ただ、その獣毛は燃える刃となり、そこにいた複数の脆弱な肉体を切り裂いた。


 溢れ出す血潮は赤く、まるで燃えさかるマグマのようだった。


 百合香ゆりかが無事だったのは、叔母である真理まりからもらった髪飾りのおかげだ。

 お守りとして渡されていたそれは、真理まりが創ったもの。

 今なら分かる。それは神具だったのだろう。

 赤狼は、遊び相手がいなくなった校庭の中で、まるでじゃれつくように百合香ゆりかに迫る。自動防御と自動攻撃の機能を備えていた神具は自動的に機械的に狼を屠る。


 瞬間、百合香ゆりかの中に何かが入ってくる。

 熱く、激しい痛みと、わずかな時間で起きた惨劇に百合香ゆりかは混乱する。

 何が起きたのか理解していたが、なぜそんなことになってしまったのか、何も分からなかった。

 友達の骸のそばに横たわり、開いたままのうつろな、光を宿していない瞳を見続けた。

 山核、氾濫、魔獣。

 どれも数か月前から発生した変化として知識としては持っていた。

 でもまさか、それが自分の身に降りかかるなんて夢にも思わなかった。


 怖い、痛い、熱い、それにひどく濡れている。赤い狼が走り回った軌跡は、未だ燃え続けていて、その照り返しが赤く、自分が血だまりの中に浸っていることに気づかなかった。

 

 怖い、痛い、熱い、どうして、なんで、こんな、それにこのベタベタする液体は何だ?

 怖い、痛い、熱い、憎い、憎い、憎い!

 ……すべての感情が、憎しみに昇華していく。

 体の奥から、赤い力が膨れ上がっていく。


 じぶんをこんなめにあわせたモノを

 ジブンノニチジョウヲウバウモノヲ


 燃やし尽くせ



「ヨーコ!」


 初めて聞く神山かみやまの切迫した声。

 百合香ゆりかは我に返り、うつむいていた顔を上げる。

 そこには、赤熱した狼と白熱した狐が戦う場があった。

 二体が走り回る周囲はすでに燃え尽くされ、その範囲は広がり続けていた。

 余波は熱波だけでなく、灼熱の光条として周囲に降り注いでいた。


 二体の力関係は赤い狼に分があるようだ。

 それはそうだろう。ここは赤い狼のテリトリー。あれはナベワリの山核を守護するケモノ。百合香ゆりかはなぜだかそれが分かった。

 そして、その力の一部が自分の中にあることを知覚していた。


 赤朱空拳


 それはじっと知覚されず隠されていた技能。

 山核の外で手に入れたがため、中途半端に根付いた山の幸。

 それが、赤い狼と呼応し、共振していた。

 

裾野すそのさん、君は!」


 神山かみやまがその気配に気づいたのだろう。

 百合香ゆりかを振り返り、何らかの力を行使しようとした。

 だが、百合香ゆりかはそれをかいくぐり、赤狼と対峙中の白狐の背後を強襲する。

 白狐を吹き飛ばし、燃え盛る赤い狼の横に立つ。

 熱さなど微塵も感じない。

 百合香ゆりか自身が赤熱した壁を纏っていたからだ。 


 ヨーコにも神山かみやまにも恨みはない。

 だが、ナベワリを渡すわけにはいかない。

 それは……


 不思議とその理由が抜け落ちていた。



真鍋まなべさん!」


 かいは、左手で岩場をしっかりと掴み、右手の窒素ガンで迎撃しながら、魔獣の攻撃を受けた副長に向かって叫ぶ。


「大丈夫! かすり傷よ」


 かいの数メートル下から応える真鍋まなべの声に余裕は感じられなかった。

 急傾斜を登りながらの戦いは困難を極めていた。

 暗闇の中ではあったが、星も明るく、ヘッドライトの照明も問題なく、何より、襲ってくる魔獣のほとんどは赤く燃えていて、視認性は高かった。

 だが、それも両足で移動できる場所でならという話だ。


『ナベワリ山 登山口』


 という看板から先は、急こう配の斜面だった。

 岩や鎖場など、両手も使わないと登れない登山道でも魔獣は容赦なく襲ってきた。

 振り回す必要のあるポールではなく、銃器である窒素ガンは取り回しに長けていて、片手でもその威力を十全に発揮することができた。 

 それでも、登りながら30分も戦い続ければ疲労も溜まる。

 そして、耐火コートと頑丈なはずの隊服にも傷が増える。


「魔素を利用してバリアみたいなものを周囲に展開しているから、ずっと攻撃を受け続けているとバリアの展開が間に合わないの」


 真鍋まなべからそんな説明を受けていたかいの隊服も傷が目立つ。

 ただ、露出した肌であっても、隊服の防護バリアは機能を続けていた。

 連続した攻撃や、飽和攻撃を食らわなければ大丈夫と聞いていても、素肌に攻撃を受ければ傷になるし、出血もする。それは行動を阻害する要因になる。


 真鍋まなべはケガをした部位に技能を使う。

 それは優実ゆみも持っている“応救処置”だった。


 真鍋まなべの呼気が落ち着くのを待ちながら、かいは気配に気づく。

 山頂方向を見上げると、時折り空が赤くまたたく。


 百合香ゆりかの気配を追っているであろう真鍋まなべを見ると、静かに頷く。

 それはつまり、あの場に百合香ゆりかがいることを表していた。


かいくん、よく聞いて。私は足手まといになるから、かいくんだけでも先に行って。本当は二人一組で行かなくちゃダメなんだけど、たぶん、状況は一刻を争う」


 真鍋まなべの言葉の途中、周囲から鳥形の魔獣が数体飛来する。


「でも! 副長を一人には」

「私はこれでもベテランよ。かいくんより戦い慣れてる。もうこの先は開けてる斜面になる。私が援護射撃するから、かいくんは走って」

「でも……」

「あら、それとももう走れない? 大好きな女の子のところへ、走る力は残ってない?」


 窒素ガンで迎撃しながら、真鍋まなべはいたずらっ子のような顔で笑う。

 こんな状況の中で、かいが走る口実を与えてくれる。

 そんな真鍋まなべ副長に深いお辞儀をしたかいは、斜面に向き直り窒素ガンを腰ベルトに仕舞う。


「援護、頼みます!」


 副長への信頼感を伝え、丸腰になった両手も使い斜面を登る。

 急な岩場はすぐに越えられ、その先には広大な斜面が広がっていた。

 そこは、黒い平原だった。

 闇の中でも焼け尽くされた大地が露わになっているのがよく分かった。


 まだ熱を持ち、白い煙の立ち上る斜面を走る。

 山頂まで1キロもないはずだ。

 遠くに見えるオレンジの灯りは、誰かがキャンプファイヤーでも行っているかのような光景に見えた。

 赤い炎が走り、風切り音が鳴り、焦げる匂いが強くなる。

 そこを目指し、かいは走る。


 左右と上方から赤いケモノが迫るが、それらはかいに辿り着く前に四散する。

 振り返ると、銃を構えた真鍋まなべが見通しの良い岩場の上に座るのが見えた。

 背中を預け、ただ走ることに集中する。


 やがて、戦場が全貌を表す。


 二体の魔獣と、二人。

 いや、魔獣と人のセットが、二つ。

 それが、闘っていた。


 百合香ゆりかと、かいの知らない男だ。

 なぜこんな状況にあるのか、赤く燃える百合香ゆりかはどんな状態なのか、多すぎる情報量にかいは混乱しつつ、ただ心の命ずるままに行動する。


百合香ゆりか!!」


 だが、その声に反応したのはむしろ男のほうだった。

 驚いた顔をした男に百合香ゆりかの隣にいた燃えるケモノがとびかかる。

 その攻撃は、男の傍らにいた白熱するケモノが身を挺して防ぐ。

 勢い余り、白のケモノと男がかいの方向へ吹き飛ぶ。


「何をしている! 死にたいのか!」


 男は絶妙なバランスを取り着地してかいに怒鳴る。

 白の狐のようなケモノが百合香ゆりかへ走る。


「あなたは誰なんです? 百合香ゆりかは、なんで?」

裾野すそのさんの知り合いか? お前さんも救助隊か。逆に聞くがな、彼女は何者だ?」

百合香ゆりかと同じ隊の者です。百合香ゆりかはどうしたんですか?」

「俺が聞きたい。詳しい話はあとだ、彼女を止めないと氾濫は収まらんぞ?」

「氾濫って、ナベワリの大反乱? それがなんで百合香ゆりかと関係あるんです?」


 会話の途中、赤いケモノと絡み合っていた白いケモノが吹き飛ばされる。

 それは、百合香ゆりかの左手から放たれた攻撃に見えた。

 男が右手に持った大剣を振るうと、青い波動のような力が百合香ゆりかと魔獣の牽制になり、お互いの動きが止まる。


「あの赤いのはナベワリの守護魔獣だろう。あの子はそれと共鳴してるように見える。残念ながら地の利は向こうにあるから、このままじゃ埒が明かない」

百合香ゆりかは、操られているんですか?」

「分からん。自分の意思かもしれんが、今の彼女は自我を失っているように見える」

「そんな」


 百合香ゆりかかいの声に反応しなかった。

 今でも、彼女の赤く燃える冷たい視線は、男を凝視したままだ。


「……お前さん、それはなんだ?」


 男はかいの手首に嵌る金色の腕輪を指差して聞く。


「これは……」


 言いよどむかいに男は告げる。


「彼女を助けたければ、俺と共闘しろ。お前さん名前は?」

山際やまぎわかいです」

「……なるほど。俺は神山唯人かみやまゆいと。援護頼むぞ、ミョウギの解放者」



=========


 ナベワリの守護魔獣は、百合香の中に眠る技能と共鳴し、百合香は自我を失う。

 山頂に辿り着いた開は、神山に共闘を求められる。そして神山は開の秘密を知っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る