第39話 エピローグ

 変化は突然だった。

 アカギの山核隊や、広大こうだい優実ゆみが見守り続けていた、アカギ、ナベワリの登山口から見えていた山核の境界面が消失した。

 同時に、登山口に存在していた石板も消滅し、そこに記載されていた人々の名前も消えた。


 緊急下山を使って脱出した以上、再入場ができず、登山口で石板を見続けていた広大こうだい優実ゆみは、消失した石板の理由に対応できなかった。

 それはアカギの面々も同じで、大氾濫から引き起こされた何らかの事象が始まったのかと大騒ぎになっていた。

 広大こうだい優実ゆみが混乱していると、本部で休んでいた祥子しょうこが現れ、これが山核の解放だと二人に説明する。

 それは、誰かがナベワリを解放したということ。

 その直前まで、隊長、かい、そして百合香ゆりかの名前は白いまま残っていた。

 優実ゆみは、彼らの無事を祈ると同時に、百合香ゆりかが何らかの褒賞を手に入れていればいいなと思っていた。


「登っちゃダメですか?」


 しばらく何かを考えていた広大こうだい祥子しょうこに聞く。

 解放した以上、ナベワリはただの山に戻り、入山許可証の緊急下山機能は使えない。もし怪我で動けなくなっていたら、それこそ救助隊の出番だと思ったのだ。

 夜半に緊急下山で戻った真鍋まなべ副長と宗太そうたは、未だ眠ったままで、命には別状ないとはいえ検査入院する手はずになっている。ここで判断を下せるのは祥子しょうこだけだ。


「待機一択だね。ここはアカギのテリトリーなんだし、勝手なことはできないよ」

「構わんぞ。これからどこまで解放されたか車を出す。道路がどこまで使えるか分からんから、行けるところまで連れて行ってやる。ただし明るくなってからな」


 祥子しょうことしても三人の安否は気になっていたが、新人二人を危険に晒す判断はできなかった。

 だが、そこに現れたアカギの救助隊隊長、遠山とおやまの提案が重なる。


「お願いします! ヒメユリ駐車場まで行ければナベワリの山頂まで最短で行けますから、そこまでで」広大こうだいが頭を下げる。

「詳しいんだな」

「山登りが俺の趣味でした。ナベワリも年に一度は登ってました」

「ガイドいらずなら丁度いいか。そっちの二人はどうする?」

「行きます!」「……本部で待機します」


 優実ゆみは即答し、祥子しょうこは逡巡し、残ることを決める。

 副長と、宗太そうたの側に居るのが自分の役割だと思ったからだ。



 東の空が明るくなるころ、アカギの車が二台、出発した。

 車道は荒れ果てていて、山核化してから初めての通行は困難を極めた。

 県道4号線は、アカギのカルデラ湖であるオオヌマまで続いているはずだが、舗装路はところどころでひび割れ、剥がれ、何より多くの車両が各所で朽ち果てていた。

 事故なのか、魔獣に襲われたのか分からない。

 車両の周辺や内部には、変色した衣類が残っていた。山核内の死者は消えてなくなるため、残された衣類だけが犠牲者の存在を示していた。


 幸い、ナベワリへの登山口であるヒメユリ駐車場までなんとか辿り着くことができた。

 アカギ山核隊の登頂隊、狩猟隊から各二名、救助隊から遠山とおやま谷後たにご。そして広大こうだい優実ゆみの合計八名は完全装備で歩き出す。


「案の定だな。ここから向こうはアラヤマの山核だ」


 遠山とおやまが地図から目を上げて言う。事前に類推していた通り、ナベワリと隣接するアラヤマの境界線に新たな山核の境界面ができていた。


「アラヤマの登山口も探さないとな……」


 結局は、ナベワリの範囲だけ取り戻すことができただけで、誰もが氾濫の脅威はこれからも続くことを実感していた。


遠山とおやま隊長、俺たち先に行ってもいいですか?」


 意気消沈するアカギ山核隊の面々に、広大こうだいが空気を読まずに聞く。


「山核がある以上、単独行は認められん。と言いたいところだが、俺たちも新しい登山口を探さにゃならんからな。二人で大丈夫か?」

「山核の中には入りません。それに山核の外なら、山登りでは誰にも負けません」

「分かった。その代わり、で帰ってこいよ」


 真剣な遠山とおやまの顔に力強く頷き、広大こうだい優実ゆみを伴い登山道へ進む。


丸山まるやまさん、今更だけど下で待っていてもいいんだぜ」

「ほんと今更だよね。でも大丈夫。少し休んだだけで完全回復してるから」


 緊急下山で登山口まで転移したときは、まだまともに動かせない体だったが、しばらく休んでいたら、むしろ入山する前より元気になっていた。

 

「でも無理すんな。一度は死ん……」


 先を歩く広大こうだいはそれきり黙る。


「ね、片山かたやまくんたちが来たとき、あたしと宗太そうたさんてどうなってたの?」


 助けられたとき、その際の描写を広大こうだいは省いていた。


「どう……って」

宗太そうたさんにさ、絶対近づくなって言われてたの。でも、死んじゃったかもと思って近づいたら……あたしが言いつけを守らなかったんだけどさ、それでもまさか攻撃されるとは思わなくて」


 広大こうだいの後ろを歩きながら、優実ゆみが苦笑する。

 その声は、悲しそうな色を含んでいた。


宗太そうたさんの技能は“自暴識棄じぼうしき”って言って、発動すると動くモノを破壊し続けるって聞いた。使うとヒトじゃなくなるから入山許可証で追えなくなるんだ。だから丸山まるやまさんの反応を探して俺たちが辿り着いたとき、宗太そうたさんは動いてた……丸山まるやまさんを、ずっと壊してた……」

「……あたし、よく死ななかったね」

「たぶん、何度も死ぬ寸前で回復し続けてたんだって隊長は言ってた。自分の判断ミスだともね」

「判断ミス? 生贄の間違いじゃないの?」


 優実ゆみは言いながら、自分の口から自然にこぼれた言葉に驚く。


「……そうかもしれない。でも丸山まるやまさんが技能を使っていればって隊長は考えていたみたいだよ。暴れる宗太そうたさんを壊したのも隊長だったんだ。そして、瀕死の二人を湯狩ゆがりさんの技能で治した」

湯狩ゆがりさんの技能?」

「“聖心誠意せいしんせいい”って治癒の技能だって。でも、その効果は好感度に比例するって」

「当ててみようか? 宗太そうたさんは一瞬で治って、あたしは全然治らなかった」

「……そんな嬉しそうに言うなよ。その通りだけどさ。だから隊長が治療薬を俺に渡してくれたんだ」


 そんな会話を続ける二人の前に、風穴のある岩場が現れる。

 ナベワリに向かう登山道の、唯一と呼べる難所だった。

 二人とも、楽しくない会話を続けるよりは、登山に集中できていいと思った。

 難所を越えると、広い場所に出た。

 古びた看板に『アラヤマ高原』の文字が浮かんでいた。


「ここって、昔はツツジの名所だったんだ。それと百合の花がきれいだった」

裾野すそのさん、どうなったかな」

「この登山道も一本道だけど、まだ見かけてないな」

「他にルートはないの?」

「南側から降りるルートもあるんだけど、急勾配だからね、普通に降りるならこっちのルートを選ぶと思う。ここからナベワリの山頂までは一時間もかからないから、行ってみよう」


 広大こうだいは重くもないリュックを背負い直し、歩き出す。


「ね、あっちはまだ山核化してるんだよね」


 背中から優実ゆみに問いかけられた広大こうだいは振り返る。

 そこにはアラヤマの威容が浮かんでいる。

 ナベワリとアラヤマの境界線が、二人のいる場所からうっすらと見えた。


「ああ、アラヤマもその向こうの五峰も、まだ取り返せていない」

「でも、ナベワリは解放できたよね。誰が解放したか分からないけど」

かいか、裾野すそのさんだったらいいんだけどな」

「あたしもそう思ってる。でも片山かたやまくんだって、武具以外に、何か力が欲しいんじゃない?」

「俺は……」


 言いよどむ広大こうだいが何らかの異変を捉える。


「向こうから、何か来る!」


 優実ゆみも気づき、アラヤマ方向に正対する。

 本来であれば新緑が茂る季節だが、魔樹化していた影響なのかほとんどの木々は枯れ果てている。

 その間隙を縫って土埃が立つ。

 すぐ、黄色いケモノが現れる。

 それは猪のような体躯で、長く伸びた二本の牙が目立っていた。


丸山まるやまさん、離れて!」


 手だけリュックに突っ込み、白流刀を取り出した広大こうだいが鞘から刀身を抜き出しながら言う。

 そのまま魔獣に走り出す。

 

片山かたやま君!」

「俺も少しくらい仕事しなくちゃ、な!」


 猪突猛進を絵にかいたような双方の突撃は、なんの策もなく、相手を滅するための行為。

 そのお互いの牙は、互いの体を貫いていた。


 絶命した魔獣はそのまま黄色い粒子になって消え、広大こうだいの体を貫いていた牙が消失した結果、胸と背中にある四つの穴から鮮血が迸り、彼は仰向けに倒れた。


 血まみれになることもいとわず、優実ゆみ広大こうだいを抱き起す。

 優実ゆみは無意識に技能を発動させようとするが、ここは山核の外だ。

 しかも、うつろな目、止まった心拍、動かない呼吸。

 彼は即死だった。

 

 それでも、心臓というポンプが動いていないのに、彼の穴からは濁流のように血液が流れ続けた。

 その血液に染まりながら、優実ゆみは呆然と彼を抱き起し続けていた。


 どのくらいそうしていただろう。

 優実ゆみの背中に、誰かの声が聞こえた。


丸山まるやまか? なんだ、どうした、そいつは……ああ、片山かたやまか」

丸山まるやまさん?」

丸山まるやまさん! え、その血って、片山かたやま君どうしたの?」


 探しにきた三人に会えた。

 でも、五人で帰ることはできなくなってしまった。


 優実ゆみは、首だけで後ろを向き、三人を視界に入れる。


「かたやまくん、死んじゃった……」

「死んだって……広大こうだい!」


 かい広大こうだいの元に駆け寄り優実ゆみからその体を預かり声をかける。

 優実ゆみは両腕から消失した重さに、広大こうだいの喪失を実感する。

 いつのまにか流れ続ける涙を、百合香ゆりかの抱擁が隠す。


「って、なんだよ。寝てるだけかよ」


 かいが呆れたように、ホッとしたように笑う。


「え、嘘、だって、さっき、確かに」


 百合香ゆりかの胸から顔を上げた優実ゆみかいの腕の中にいる広大こうだいを見る。

 穴の開いた隊服の下にはきれいな素肌が見え、その顔は血色もよく、小さくいびきをかいていた。



===裾野百合香の章 完===

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