第21話 思い出の地

「久しぶりね、元気だった?」


 渋沢駅から電車で約30分。前端まえはし駅で百合香ゆりかを迎えに来てくれたのは、入院予定であるはずの母、裾野茉莉すそのまつりその人だった。


「なんでお母さんが? お父さんが来ると思ってたのに」

「入院は明日からよ。別に悪いところなんて何もないのに、真理まりが勝手に手続きを進めるんだもの」


 茉莉まつりは、駅のロータリーに停めていた車の運転席に乗り込みながら苦笑で答える。

 百合香ゆりかも助手席に腰を下ろし、シートベルトを付ける。

 すぐに少し前の記憶が思い起こされ、羞恥に顔が熱くなる。

 過ぎてしまえば、なんであの程度のことにあんなに感情を剥き出しにしてしまったのか自分でも分からない。そもそも、大声を上げたり涙を流したという過去の記憶を思い出せないほど、自分にとって稀有な経験だったと自覚していた。


「どうしたのよそんな赤い顔して」


 茉莉まつりは助手席で顔を背ける娘を不思議そうな顔で眺める。


「別に、なんでもない」

「……なんだかさ、そんな表情も久しぶりだね」

「三か月ぶりくらいで、大げさだよ」

「そうじゃないよ。あなたってずっと気持ちを抑えているような……まあしょうがないんだけどさ。そんな顔だったのに、今のあなた、なんだかとっても年相応の女の子みたい」

「なにそれ……」


 茉莉まつりは車を発進させながら嬉しそうに話す。

 百合香ゆりかは母のそんな言葉に、それまでの自分がいったいどんな少女だったのか思い出そうとしたが、うまくいかず、小さな呟きで答えるしかなかった。


「ひょっとして、恋?」

「へっ? こ、恋?」

「なんだっけ、同期の、やまなんとか君」

かいは! 別にそんなんじゃなくて!」

「へー、かい、ねー、へー」


 それきり黙りこむ娘の顔は、先ほど以上に赤くなり、茉莉まつりはそれ以上の追及を抑えた。恋愛感情といった感情の発露は親として嬉しいものだが、それ以上に違和感を覚えたからだ。

 それは三か月前には想像すらしなかった表情で、それがいいことなのか悪いことなのか、彼女には判断できない。

 それをできるのは、茉莉まつりの妹。百合香ゆりかの状況を誰よりも理解している真理まりに他ならない。

 あの大氾濫の際、茉莉まつり百合香ゆりかに何もできなかった。

 もっとも被害者の親として大きな騒動の渦中にいて、娘の心のケアを真理まりに任せ過ぎていたのは、茉莉まつりとしても抱えた心の傷が深かったのだ。


 大氾濫で犠牲になった大古おおこ中学校三年二組の三十五名中、たった一人生き残った生徒とその親がどんな立場に追い込まれたか。それまでずっと親しく過ごしていた保護者間の交流がどうなったか、思い出すのも辛い毎日だったが、茉莉まつりはこの頃になってようやく当時の出来事に向き合えるようになっていた。

 

 20××年九月二十日

 山核発生の年、それまで不気味なほど穏やかだったアカギは、唐突に牙を剥いた。


 前端市の端、アカギの裾野に位置する大古おおこ町にある大古おおこ中学校は山核範囲から1kmも離れていなかったが、山から逃げてくる人が一段落した後は特に目に見える変化はなかった。

 異常事態であっても人は慣れてしまうもので、様々な情報網が断ち切られ思うような情報が入手できない事もそんな危機感を麻痺させてしまっていた。

 多くの山で氾濫は起きていたのに、アカギは起きていない。

 ハルナやミョウギでも氾濫していないのだから、ここで暮らしていても大丈夫。

 そんな正常性バイアスを感じる人々を責めることはできない。

 物流や交通網は滞っていたが、住居があり生活圏が存在するのに、なぜ積極的に都市部へ避難する必要があるのか? と多くの人は以前と変わらぬ土地での生活を望んだ。


 あの時逃げていれば。

 少なくとも子供たちを別の学校に転校させていれば。


 そんな仮定は過ぎてみれば後悔や生存者に対する怨嗟の声にすり替わった。


 当時、校庭で体育の授業を受けていた三年二組三十五人の内、三十四名が大氾濫による魔獣の侵攻で犠牲になった。奇跡的に助かったのは裾野百合香すそのゆりかただ一人。

 校内で授業を受けていた生徒たちは全員無事だったが、彼らのほとんどがPTSDを発症するほど、校庭は凄惨な地獄絵図と化した。


 当時、山核発生に伴い、茉莉まつり真理まりの実家である物部もののべ家へ避難していた卓磨たくま真理まりが現場に駆け付けた時、すでに魔獣は消え去っていて、同級生の亡骸の中に唯一の生存者の百合香ゆりかが倒れていた。


 救出されてしばらくの間、まるで心の傷が癒えるのを待つように、彼女はほとんど感情を無くし、ただ反射や習慣によって療養生活を続けていた。

 茉莉まつりが事後の対応に追われ、被害者の多くの保護者から心無い感情をぶつけられる中、百合香ゆりかを献身的に世話したのは真理まりだった。


 百合香ゆりかが会話できるようになったのは数か月後、年が明けてからのことで、そこに快活だった少女の面影は存在していなかった。

 事情聴取の中で、氾濫の一部始終を詳細に語ることもできたが、そこに本来あるはずの感情がまるで失われていて、そんな百合香ゆりかの反応は遺族の神経を逆撫でした。

 自分以外みんな死んだのになんで平気でいられるのだ。

 お前が魔獣を操ったのではないか。


 犠牲者の一人である彼女は、たった一人生き残ってしまったが故に、喜ばれるよりも、恨まれ、憤りの対象にすり替わってしまった。


 それからずっと、彼女は静かな生き方を貫いた。


 茉莉まつりは、彼女がそうせざるを得なかったのか、心因性のショックでそうなってしまったのか分からないままだった。

 受け答えもしっかりと、大きくはないにせよ喜怒哀楽も表現できていた娘を、ただ腫物を触るように静かに見守るしかできなかった。


 そんな百合香ゆりかが高校三年生のとき、進路に選んだのは山核隊。

 正確にはハルナ山核隊の救助隊。


 茉莉まつりと、父親の真一しんいちは最初、彼女の判断に難色を示した。

 娘の行動に納得できる理由を見いだせなかったからだ。

 それまで多くの時間を真理まりや、切磋卓磨せっさたくまと過ごさせていたのは、単純に心のケアのつもりだったが、ハルナの山核隊と関係の深い彼らに影響を受けていたのは明白で、なぜ、自身の運命を変えた山核に関わろうとしているのか理解できなかった。いや本当は分かっていたのだ。彼女の感情の多くはそこに残されたままで、山核に関わることでしかそれを乗り越えることができないと。


 それからは、娘の決意に積極的な応援をした。調べられる情報の多さが彼女の助けになるとばかりに力を尽くした。

 そんな助力に効果があったのかは分からないが、彼女は無事に救助隊に合格した。

 ただ、その配属先、第五隊の評判は芳しくなく、そんな不安を感じつつも百合香ゆりかをハルナに送り出した。

 そして三か月ぶりに再開した娘は、それまでの静物のような印象が陰を潜め、少し大人しい、普通の少女の佇まいに思えるほど変化していた。

 茉莉まつりは、この三か月でいったいどれほどの出来事があり、どんな影響を受けたのか気になったが、自分たちではその人間らしさを戻すことができなかった引け目から、詳しく聞くことを躊躇していた。


(でも、それでもいい)


 少なくとも悪い変化じゃないのだ。

 これからも真理まりの言う通りに事を進めようと思うことができた。


「お母さん、ここで降ろして」


 茉莉まつりが考えに耽っていた間に、車は廃校になった大古おおこ中学校の前に差し掛かっていた。


「大丈夫?」

「うん。ちょっと見てから歩いて帰るよ」

「お昼、用意しておくからね」


 茉莉まつり百合香ゆりかも多くを語らず、ただ望み、それに応じた。

 物部もののべ家と隣接する裾野すその家までは車で五分も離れていない。

 百合香ゆりかは今なら向き合えると思い、帰宅前の経由地と考えた。


 重さを感じないリュックを背負い車を降りた百合香ゆりかは、走り去る茉莉まつりの車に手を振り踵を返す。

 氾濫の直後に廃校になり、管理する人もいなければこうなるだろう、という見本のような荒廃した空間に足を踏み入れる。

 氾濫の後、一度も立ち入れなかった場所だったが、足はあっさりと境界線を越えることができた。

 百合香ゆりかは、自分に中で何かが変化しつつあることを実感しながら敷地内を歩き、校庭に出る。

 そこから北を見ると、四階建ての古びた校舎がそびえ、その向こうにはアカギの特徴的な山景が映える。


 初夏の淀んだ空気にぼんやりと霞むアカギは、幼少の頃から見慣れている輪郭を維持し、山核に支配されているにも関わらず、何故だか郷愁を感じていた。



=========


 百合香が地元である前端駅に着くと、そこには入院予定の母、茉莉が待っていた。車内での会話で、茉莉は百合香の変化と、かつての事件を思い出していた。その事件の現場、大古中学で百合香は車を降り、一人で過去に向き合う。

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