山際 開の章
第0話 丁丁発棘
なぜ目が覚めたのか、目覚めることができたのか。
それは、後になっても説明できる根拠のようなものはなかったが、あそこで得た力の、なんらかの余波みたいなものだろう、と少年は納得していた。
理由はどうでもいい。
気付けたということは、対処できるということだ。
優先すべきは、祖母を守る。そして、できるだけ家も守る。
倒せなくても、追い払えれば……。
月の明るい九月。
入隊受験勉強のため少年が寝付いたのは先刻、二時前のことだった。
寝間着替わりにしている、中学時代に愛用した丈の短いジャージのまま布団から抜け出し、裏庭につながる引き窓をカーテンごと開ける。
芝生と、ちょっとした庭園風の小さな池の向こう、山につながる斜面と木々が黒々と映えている。
物音が、聞こえない。
風の音すら、山からの脅威に対し遠慮しているかのように思える。
待つ必要はないと、少年は南向きに面した縁側から、常備してあるスニーカーを履き、裏庭に降りる。
知識として聞いていた事象が訪れようとしている。
経験として伝えられた悪夢が訪れようとしている。
それはいつでも起こり得ることで、そんな想像も覚悟もしていたつもりなのに、実際、想定通りに体は動いていたが、心だけがそれに対応できていない。
祖母や家を守るために、ただそれだけのために体を動かす。
家からつながる山への境界線は曖昧だ。
祖母は、裏山の大部分がウチの所有物だと言っていたし、山の中で遊ぶことは物心が付いた頃から当たり前のことだった。
にも関わらず、そんな人間が定めた
その山から、ケモノが現れる。
その現象が始まったのは、三年前の事件からだ。
厳密に言うと、三年前の事件を起点とし、いつの間にか起きるようになっていた。
人はそれを“氾濫”と呼んだ。
一部の若者からは“スタンピード”などとも呼ばれていたが、大体の場合、現れるケモノは単体だった。
幸いなことに、山では使えない拳銃などの武器が使えたので、被害はあったとしても、それを駆除することは不可能ではなかった。
だが、被害はあるし、駆除できない可能性もあるだけだ。
いつどこから現れるか分からないのに、準備などできようはずもない。
国土の七割が山岳地帯である以上、人がかろうじて生活できる平地との境界全てに警戒の目を向けることは不可能だ。
国の為政者は「できるだけ山から離れた場所で暮らすように」と警鐘を鳴らすことしかできない。安全な土地を求め、生存者たちは我先に山から離れたが、老人を含む多くの地方民は、住み慣れた土地から離れられない。
少年の家も、そんな諦念の中で暮らしていたが、それでも心のどこかで、ウチだけは大丈夫なんじゃないかと楽観視していた。
(三年前といい、今日といい、俺に恨みでもあるのかよ)
彼が心の中で吐いた悪態は、萎えそうになる心を奮い立たせるためのものだったが、言ってみれば、自身に訪れた不幸を再認識できて怒りが湧いた。結果、気力が増していた。
物置に立てかけてあった四本歯の鋤を手に取り、気配の方向へゆっくりと進む。
視覚にも臭覚にも聴覚にも異常はない。
にも関わらず、少年はその存在がゆっくり近づいてくることを知覚していた。
山の斜面まで残り十メートルほど。
裏庭から、雑草で覆われた荒れた地面まで進み少年は歩みを止める。
山の斜面は杉林に覆われている。
その木々の間隙を縫って、その形状にそぐわない体色のケモノが現れる。
動物的な呼称で言えば、ツキノワグマ。
だが、その体躯を覆う剛毛は、金色だった。
その姿を視認した少年からは、もはや怒りや恐怖といった感情すら抜け落ちていた。
畏怖という言葉は知らなかったが、相対した人間ごときが感情を浮かべる事すら許されない。そんな存在に思えた。
金熊もまた少年を獲物とすら認識していない。
自分がなぜこんなところにいるのかすら理解していない。
ただ、思うがままに山を降りて、思うがままに歩き続けるだけだ。
そこにどんな理由も目的もないが、ただ一つ、障害は排除する。そんな行動理念だけは本能の様に組み込まれていた。
排除の手段は、己に備わったありとあらゆる機能を用いる。
金熊が少年を障害と認識したかは定かではないが、進む先に少年がいて、その奥に少年が暮らす家があるだけで、そこを迂回するといった案を持ち合わせていないだけだった。
よって金の熊はまっすぐに歩みを進める。
少年との距離が五メートルまで近づき、金熊は少年の動きに気づく。
手に持った巨大なフォークの如き農具は、なんら脅威を感じるものではなかったが、人間的に言えば、癇に障ったのだ。
振るった右の前腕の先には、異様に伸びた光る爪があった。
爪を受けた鉄製の農具は、弾き飛ばされる前に、分断された。
それは打ち合うことすら敵わず、防御が役に立たない事を示した。
少年が爪の一振りを鋤で受けたのはただの反射に過ぎず、あまりにも鋭利に切断されたため、振るわれた力を衝撃と感じることすらできなかった。
ただ、一陣の風が薙いだ。
その瞬間、彼の手にあった重さが損なわれていただけだ。
木製の持ち手は、もはや紙に等しく、それは二撃目を防げないことを悟り、彼は握力を緩めて空手になる。
乏しい現実感の中、少年の瞳は、金の熊が左手を振り上げる姿を追った。
あれが振り下ろされたとき、自分の意識が永遠に失われることを理解した。
そんな理不尽さが当たり前の世の中になった。
価値が軽くなった、死の順番が来ただけだ。
『お前を守ってくれた親父さんを守れるのは、お前だけだ』
少年の脳裏に恩師と呼べる担任の声が浮かぶ。
守れる力があるのに、なんでそれを使わない?
それは何度も繰り返した自問自答。
多くの犠牲者が出て、今もまだ人々は苦しみ続けている。
それは山によって引き起こされた。
同時に、山から得られる恩恵がある。
それは、特定の対象にしか恵みをもたらさない。
(俺だけしか使えないなら、そんな力、いらない!)
そんな想いとは裏腹に、彼は右腕を掲げる。
手首から肘にかけて浮かんだ痣が黒く光り、金色の熊が振るった左腕の爪を受け止めていた。
「顕現せよ!
◆
(どんな非難を受けようとも、今はまだ死ねない。誰になんと言われようとも、少なくとも、親父を助けるまでは)
金色の熊だった死骸を見下ろしたまま、少年は荒い呼吸を続けながらそんな想いを再認識する。
そして、それが叶った後なら、どうなってもいいと、天空の月に向かってひとりごちる。
やがて死骸は溶けるように消え、そこには金色の小さな丸い珠が残された。
だが少年の意識は、両手に持ったままの“得物”に注がれる。
そこには、CP:34/1500という、彼にしか見えない文字が浮かんでいた。
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