「誰でもよかった」「感情言葉を使わない」

※この小説は決して法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。

 この小説のキャラクターのやっていることは、犯罪です。



 8月。

 Mが殺人を計画したのは、蝉の声が煩かったからだった。

 ジージーシャーシャー鳴り響いて耳に痛く、この所運向きがよくなかったこともあり、思いついた。


「誰でもいーや」


 『決めたからには全力で』。

 漫画か何かの台詞を思い出し、Mは両頬を打った。腹から出した掛け声はコバルトブルーに入道雲の浮かぶ空へ吸い込まれる。さて、とMはじめじめする畳から上体を起こし、パチンコ店のチラシとハサミを取り出した。


「あー…地理詳しくなかったわ」


 髪を掻くと爪が頭皮に引っかかり、山椒のような痛みを伴う。

 本日何度目かの不運に呻いて、太ももを強めに拳で打った。相も変わらず、蝉はシャーシャー鳴いている。


「うるせーぞ! 蝉!」


 叫んだら、隣室の住民が壁を足で蹴ったらしい。骨まで響く音がした。

 肩を跳ねさせてからMは足を摺り寄せる。それから、酔っ払いと亀を足して二で割った足取りで部屋の中央付近に戻る。図書館で本を借りるにも本屋へ行くにも、この暑い中出かけなくてはならない。暑すぎて米神は痛いし、水分補給を怠ったせいで舌の根まで乾いている。


「決めたからには全力で。全力で……仕方ねぇか」


 重く乾いたため息でMは日陰から立った。

 立ち眩みがして倒れそうになるのを、食卓に手をついて耐える。眉間を押さえて30秒も待てば、立ち眩みも多少マシになった。冷蔵庫を開けると、スポーツ飲料が3本入っている。1本飲み干して、ゴミともう1本を小脇に抱える。

 玄関まで歩き、褪せた色の草履を見下ろす。くたびれたTシャツと紺の海パンが目に入った。大丈夫、モラルは穿いている。

 Mは再び、酔っ払いと亀を足して二で割った足取りで歩き始める。

 鍵はかけなくとも問題ない。盗んで得するものは家にない。


 ボールを蹴って笑う小学生が、足にぶつかる。歩きスマホの女子高校生が不潔な虫を見つけた目で、鼻の前を手で仰ぐ。大学生か就活生か分からないスーツ姿はやや俯いて速足に、Mの隣を通って行った。

 別に今更思うこともないが、冷たいものだとMは鼻息を強く吹き出す。


「いらっしゃいませー」


 ピンクの切り紙とレースで飾られた本屋は、クリーム色の壁紙や淡い木目の棚も相まって余所余所しい。俯いて指をいじる。

 レジ前の店員に余所行きの笑顔のまま警戒されたとMには理解できた。

 長居は無用だ。地図帳一つ、2870円。

 握った巾着から千円札1枚、五百円玉2枚、百円玉7枚と五十円玉を3枚、十円玉を2枚。もたつく指に視線は絡みつくが、店員は何も言ってこない。丁度の会計に「ありがとうございました」と決まり文句を言うだけだ。


 えっちらおっちら、家に戻る。今度は誰ともすれ違わなかった。炎天下にコンクリートがゆらゆらと湯気を立て、ジージーシャーシャー蝉が喚く。仏頂面で部屋に戻り、やる事と言えばチラシをちまちま切る事だ。

 名前も忘れた鼻歌が、青に取り残された薄暗い部屋で響く。

 地図に乗った国は200あった。パチンコ店のチラシが無くなり、新聞配りのアルバイト募集を使い、伝票の裏まで使ってようやっと200の紙片を作り上げる。腕を組んで斜め後ろに伸びあがると、左肩がゴキリと鳴った。

 次は黙って、地図帳の索引順に紙片に国名を書き込んでいく。

 そろそろ蝉の声も下火になる夕暮れ時、Mは200を書き終えた。「はー」と息を一つ。天井の染みを見上げ、左を見、右を見、「箱がねぇ」と呟く。


「続きは明日。決めたからには全力で」


 Mは紙片をひとまとめにし、ビニール袋にまとめて入れた。


「ずっとくじ引きだと偏るよな。うん、うん。他にも考えとこう」



 南ドコニュモ共和国、デーモナイ地区の廃ビルで、Kは宵の空を仰いでいた。目を閉じ、目頭を揉む。

 一切の殺気なくボスに近寄り、ハンカチを出した瞬間ナイフを向けた少年が何も吐かないのだ。『殺すな』と命令があったから■■やら金やらで吐かせようとしたものの「誰でもよかったから」の一点張り。「話にならねぇ」と自白剤を盛ったところ、脚色が豪華になっただけの「誰でもよかったから」が語られ始めた。

 「えらく手間取ってるじゃねぇか」とたばこを咥えたボスが来てしまったものだから、尋問担当は首まで真っ青だ。


「何か進展は?」

「ありません。『誰でもよかった』の一点張りです」


 申し訳ございません、と続く謝罪に、ボスはただ眉を上げた。


「なんだ。ちゃんと聞き出してるじゃねぇか」


 呵々と笑い、ボスがしゃがむ。クロヒョウの羽織がコンクリートに広がる。ボスは一言「おうぼーず」と少年の頬を羽のように叩く。焦点の合わない黒い目で少年は笑った。青あざで顔は腫れ上がり、前歯も3本折れている。後ろ手に椅子に固定され、数十人の黒服に囲まれながらも少年の目だけは澄み切っている。


「手前、名は?」

えむ、□□えむ□れふM、□□M□です

「ホォ、○○人か」

「へぇ、ほれふ」


 ボスが右手を出せば、すぐに葉巻が用意される。先端にライターが寄り、香り高い煙が広がる。喉奥でクツクツ音を立て、ボスはぐるりと目だけで天井を見た。安っぽい針金で保護された白熱電球が虫を一匹、燃やした。


「パスポートも出入国も偽装なし。家族構成も裏付けも一発。どっからどう見ても一般人、なら―――」


 葉巻はボスの米神で2、3度回り、ぞんざいに放り捨てられる。

 ボスと取り巻きの間を転がって、灰をコンクリートに散らしても、葉巻は燻ぶっている。ゆるやかに煙が揺蕩った。


「クレイジーっつーことだ。クレイジーな一般人。アンタさん、なんでオレを狙う」

アレれもよあっふぁんれ誰でもよかったんで

「ああ、イヤイヤ。目的は聞いた。今聞いてんのは手段だよ。アンタはなんで、わざわざオレにしたんだい? ……治療してやれ。聞き辛くて仕方ない」

「はい」

「だぁから言っられしぉ、おりぁ、られれも」


 切れた口内と唇を治療し、痛み止めを飲ませる。再び飛んだ質問にMは少し首を傾げてボソボソと話し始めた。

 故郷で蝉が煩かったこと。『人を殺そう、誰でも構わない』と考えたこと。地図を買い、裂いた紙でくじ引きをしたこと。同じやり方を続けては結果に偏りが出るかもしれないと危惧したこと。空港で「最初に前を通った10人の仕草」を書き記したこと。空港で買った地図の上にパンくずを撒き、一番最後に鳥が持って行ったパンくずの置いてあった町に向かったこと。サイコロで出た目で「どの仕草」かを決めたこと。決まった仕草が「ハンカチを取り出す」だったこと。

 そして、町で一番最初に「ハンカチを取り出した」のがボスだったこと。


 Mの旅すべては語り尽くされた。

 「クレイジー」と誰かが呟いた。ボスの目が一瞬そちらに行く。一人、肩を跳ねさせた。ボスが白けた表情でそれを見て、縛られた男と見比べる。ボスの唇がめくれ上がった。


「おうボーイ。まだオレを殺す気かい?」

ふぇへはぁ、ひれふぁんへええまあ、決めたんで

「うんいい心意気だ。気に入ったんで選ばせてやろうな」


 犬猫を撫でるような声でボスは笑う。


「鉄砲玉んなってチャンスを得るか。ここでアソコの腰抜けとやり合うか、選びな」


 ボスの顎が後ろを示す。

 臆病な男は逃げられないように両側から腕を掴まれている。Mは興味なさげに黒服を見た。首を傾げる。


ひゃんふっへチャンスって?」


 破裂音と、血が飛び散る。

 胸元に拳銃を収めながらボスは、ペルシャ猫のように色っぽく笑った。


「オレを殺しに来る、チャンス」


 鼻歌混じりにボスは出口へ行く。

 Kはもう一度目を閉じて、目頭を揉んだ。部下に指示を飛ばしながらMの前にしゃがむ。黒い目は今も澄んでいる。


「手前、武器は」

ふあっふぁほほはい使ったことない

「戦いは」

ひゃっはふぉふぉふぁいやったことない

「なら服着替えてこい。適当な所で行けっつわれたら、とりあえず走って、適当な奴殺してこい」

ふぉれふぁれへほひーひゃへーひゃんそれ誰でもいいじゃねーじゃん


 スーと息を吸い、額を押さえて天を仰ぐ。


「なら目玉でも■せ」

ふぉっふぇ、はふぁっふぁオッケ、分かった


 どうかこいつが新入りになりませんように、とKは痛む胃をさすりながらまだ暗い空を仰いだ。

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