第8話 6月3日

「今日、6月3日はアメリカの社会学教授、レシェク・シビルスキーさんの提唱によって国連総会が制定した、世界自転車デーなんだよ!」


 僕の自転車に跨った日捲さんが、足をぶるぶるさせながら宣言した。

 テンションが高いのは緊張しているからだろう。


 やってきたのは学校の近くにある大きな児童公園だ。カラフルな遊具が点々と並んで、足元はびっしりと芝生が覆っている。ここなら転んでもそんなに痛くないと思う。

 僕達は二人とも運動着に着替えていて、日捲さんは頭に僕のヘルメットを被っている。


「だからいきなり自転車の乗り方を教えて欲しいって言ってきたの?」


 後ろで荷台を支えながら、僕は尋ねる。すぐ目の前に日捲さんのお尻があって、なんだかちょっと恥ずかしい。日捲さん曰く、人より大きなお尻らしいけど、女の子のお尻なんかジロジロ見ないから、僕にはよくわからなかった。


「……今日の休み時間にね、七瀬さんに話しかけてみたの」

「見てたよ。結構盛り上がってたよね」


 日捲さんは人見知りなので、僕以外のクラスの子とはあんまり仲がよくない。嫌われてるとか避けられてるとかそういう事ではなくて、なんとなく話す機会がないまま6月になってしまい、お互いに話しかけづらくなってしまったんだと思う。


 それが先日の大掃除でちょっと解消され、最近はちらほらと挨拶を交わしている姿を目にするようになった。


 中でもギャルっぽい七瀬さんは日捲さんに興味津々で、昨日も偶然商店街で出会い、強烈な悪戯を仕掛けてきた。


 それで日捲さんもちょっと緊張が解けて、今日は頑張って自分から話しかけに行っていた。昨日話していたバックルームって奴の話とか、SCPっていう謎の組織の話とか、都市伝説や怪談とか、商店街の路地裏の先にあった謎の社の話とか、結構盛り上がっていたように僕には見えた。


 七瀬さんは、社の話は嘘だと思って信じてないみたいだったけど。ともかく、日捲さんが七瀬さんと仲良くやっているようで、僕は内心ホッとした。日捲さんに友達が少ないのは、僕のせいでもあるんじゃないかと思っていたから。


「うん……それで、今度一緒に遊ぼうって誘われたの。クラスの他の女の子も一緒にって」

「それはよかったね」


 ちょっと寂しいような気もするけど、今だって僕は十分すぎるくらい日捲さんと一緒にいる。こんなにいい子を独り占めしたら、バチが当たるというものだ。


「ぅん……」

「嬉しくないの?」

「……嬉しくないわけじゃないよ。私、こんなだから、昔からお友達を作るのが苦手で。ちょっぴり不安だけど、お友達が増えるのはすごく嬉しいの」

「その割には元気ないみたいだけど」


 日捲さんってクールな人だと思ってたけど、実は正直と言うか、素になっている時は結構無邪気でわかりやすい。


「……お買い物に行ったり、映画見たり、カラオケに行ったりするみたいなんだけど……」

「だけど?」

「……みんな、自転車で移動するんだって。私が自転車に乗れないって言ったら、考えてみるって。七瀬さんに気を使わせちゃったの……」

「なるほど。それで自転車に乗れるようになりたいと」


 真面目で頑張り屋さんの日捲さんらしいや。


「……すぐには無理だと思うけど、折角誘ってくれたのに、迷惑かけたくなくて……。それで結局、明日太君に迷惑かけちゃってるんだけどね……」


 しょんぼりと日捲さんが肩を落とす。


「迷惑なんてとんでもない! 日捲さん、言ってたよね? 小説を書くのに無駄な事なんて一つもないって。身の回りのどんな些細な事でも勉強になるんだって。じゃあこれも、文芸部の立派な活動でしょ?」


 文芸部に入ったばかりの頃、右も左もわからなくて途方に暮れていた僕に日捲さんがかけてくれた言葉だ。焦らなくていいんだよ、自分のペースでやっていけばいいんだよって、日捲さんは言ってくれた。だからど素人の僕も、毎日楽しく文芸をしていられる。文芸部に入ってからの僕は、それまでののほほんとした生活と違って充実していた。ただ過ぎ去ってゆくだけの無意味な毎日に意味が出来たのだ。それって、すごい事だと思う。だから僕は、日捲さんにものすごく感謝をしている。


「明日太君……」


 すんすんと、日捲さんが鼻を鳴らす。


「さぁ、練習しよう! 早く乗れるようになって、七瀬さんを驚かせちゃおう! それで、日捲さんは僕が育てた! って自慢しちゃうんだから」

「そうだね……私、頑張る!」


 不安そうに丸まっていた日捲さんの背中がピンと伸びる。


「その意気だよ! それじゃあ、後ろで支えてるから、頑張って漕いでみて」

「離さないでね? フリじゃないからね? 本当に離さないでね!?」

「大丈夫、絶対に離さないよ」

「約束だからね!」

「ほら、行くよ!」

「ひぃいいい!?」


 僕がグッと荷台を押す。

 日捲さんはペダルに足を乗せ、ものすごいがに股で漕ぎ始めた。


「日捲さん、リラックスだよ。下を見ないで、前を見て」

「そんなの、無理、怖いよ!」

「芝生だから、倒れてもそんなに痛くないよ。僕の自転車は気にしなくていいからさ。転びそうになったら飛び降りちゃえばいいんだよ」

「無理! そんな事、出来ないよ!」


 日捲さんはすっかり怖がっていて、ペダルを漕ぐ足に力がない。全然スピードが出なくて、余計に不安定になる。ハンドルを握る手も震えていて、自転車は右に左に蛇行した。


「わわわ、日捲さん、飛び降りて!」


 支えきれなくなり、僕は叫んだ。


「無理だよ!? きゃあ!?」


 がしゃん。

 日捲さんは自転車と融合したマネキンみたいに綺麗に横倒しになった。


「――あふぅっ!? くぅ……」


 衝撃で、日捲さんの口から野太い悲鳴が飛び出した。

 日捲さんはハンドルを握ったまま、涙目になってぴくぴくしている。

 まるで壁画みたいだ。


「ぶふっ、く、ぷ、くくく……」


 あまりの無抵抗っぷりに、僕は思わず吹き出してしまった。

 そんな僕を、日捲さんは裏切り者を見るような目で見上げて、そっと芝に向かって顔を伏せた。


「そんなに笑う事、ないじゃない……」

「だって面白かったんだもん。動画で撮ってたら、日捲さんだって絶対笑うと思うな」

「うぅ、どうせ私は運動音痴だもん。高校生にもなって自転車にも乗れない恥ずかしい子だもん。こんなんじゃ、いくら練習したってきっと無駄だよ……」

「そんな事ないって。まだ一回目だよ? 諦めないで頑張ってみようよ」


 先程の決意はどこへやら、日捲さんはすっかり拗ねてしまったらしい。

 僕の言葉も無視して、ぐったりと芝生の上に横たわっている。


「……いつまでもそうしてると、蟻にたかられちゃうよ?」

「それはいや!? っていうか、既になんかもぞもぞするし!? やだやだ、私、虫嫌いなの!? 明日太君、助けて!?」


 がばっと跳ね起きると、日捲さんは運動着のシャツをばさばさと勢いよくめくった。


「日捲さん!? お腹見えてるから!?」

「いやあああ! あっちこっちもぞもぞするうう!?」


 小学生くらいの子供達も遊んでいる健全な公園だ。

 そんな所で、グラマーな日捲さんがお腹を丸出しにして暴れていたら、不健全な公園になってしまう。


 実際、日捲さんは周りの視線を独り占めにしていた。鬼ごっこ中の小学生、リフティングの練習をしている中学生、ランニング中のおじさん等々。


 仕方なく、僕は暴れる日捲さんを人目のない茂みの奥に引っ張って、服の中に入り込んだ蟻を取ってあげた。かなり刺激的な体験だったけど、緊急事態だったから仕方ない。お互いに恥ずかしいので、それについては触れない事にした。


 日捲さんはしばらくぐずっていたけど、それくらいの事で諦める子じゃない。程なくして立ち直り、再び自転車に跨った。蟻にたかられて懲りたみたいで、絶対に転びたくないという強い意志を感じられた。


 まぁ、意思だけではどうにもならない問題もあるという事で、その後も普通に転んだし、自転車に乗れるようにはならなかったけど。


 そんなのは、乗れるようになるまで練習すればいいだけの話だ。

 これからは暇を見て日捲さんの自転車の練習をする事にして、僕達は二人で草塗れになって家路につくのだった。

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