第7話 6月2日
「はいチーズ」
カシャ。
商店街の路地裏に携帯を向けてシャッターを切る。
汚れたビールケースや年季の入った室外機、換気口やガスメーターなんかが並ぶ狭い道は、商店街の内臓を覗いているみたいでドキドキする。いけない事をしているような、見てはいけない物を見ているような、そんな気分。薄暗いその先は、この世ならざる世界と繋がっているような気がしてちょっと怖い。
画像を確認すると、携帯の四角い画面の中に異界へと続く門が接続されたみたいで、イマジネーションを掻き立てられる。う~ん、文芸してるって感じ!
そういうわけで放課後。
昨日の撮影会で写真に興味を持った僕達は、部室を飛び出して学校の近くの商店街に写真を撮りに来ていた。そうやって撮った画像は資料に使えるし、そこからなにかお話が膨らむかもしれない。
以前の短歌ごっこもそうだけど、部室でじっとしているだけが文芸部の活動じゃない。
書を捨てよ、町に出ようというわけだ。
まぁ、その言葉は日捲さんの受け売りで、実際の意味はよく知らないんだけど。
日捲さんは表の通りで色褪せたマスコットやお店のショーウィンドウ、定食屋さんの食品サンプルなんかを撮っていて、僕はこの通り、路地裏に魅了されている。
「ねぇ明日太君、今日、6月2日は路地の日なんだよ」
いつの間にか、日捲さんが後ろで路地裏を覗いていた。
「語呂合わせだね」
と僕は言う。
「うん。長野県の下諏訪町にある、路地を歩く会っていうのが、路地の良さを見直してもらう為に制定したんだって」
「その人達の気持ち、ちょっとわかるな。路地って不思議な魅力があるもん。今まで気づかなかったけど、こうして写真を撮ってみるとよくわかる」
撮った画像を眺めながら、惚れ惚れとして僕は言う。携帯のカメラの性能と被写体の良さのおかげなんだろうけど、素人の僕が撮った写真でも、なんとなく様になって見える。けっして綺麗ではないけれど、じっと見ていると背中がぞわぞわするような、そんな力がある。
「いい写真だね。なんだか怖くて不安になる。路地裏の奥の異世界に引きずり込まれそう」
「日捲さんもそう思う?」
「うん」
頷くと、僕達はしばしの間、無言で路地裏を覗ていた。
「知ってる明日太君? 最近はこういう場所を、リミナルスペースって呼ぶらしいよ」
怪談でも切り出すみたいに、ぽつりと唐突に日捲さんは言った。
「リミナルスペース? 聞いた事ないけど、どういう意味の言葉なの?」
「元々は建築用語で、廊下とか階段とか、人を別の場所に移動させる為の空間を指すの。でもこの場合は、なんとなく不安になったり、怖くなる場所、そういう場所を収めた画像なんかを指すのかな。空間でもあり、シチュエーションでもあるみたいな。夜の学校の廊下とか、閉店後のデパートとか、誰もいない立体駐車場とか」
「この路地裏とか?」
「この路地裏とか」
にこりともせず日捲さんは言う。
「日常の中の非日常。光と闇の交差点。相反する二つの要素を備えた空間。本来なら見る事のない場所。それはまるで世界の裏側に続くような」
詩を読むように淡々と告げる日捲さんの言葉に、いつしか僕は聞き入っていた。
「ねぇ明日太君。そういう場所は、実際世界の裏側に繋がっている事があるんだって」
「え?」
冷たい風が吹き抜けて、僕の背中はゾクリとした。
「まるでゲームの壁抜けバグみたいにね。なにかの拍子でストンと落ちちゃう事があるんだって。文字通りの異界、この世界と似て非なる世界。どうしようもなく狂っていて、一度堕ちたら這い上がれない、地獄のような場所。無限に続く部屋、歩き回る怪物、不条理が襲い掛かる、ダンジョンみたいな空間だよ。世界の裏側、バックルーム。聞いた事ない?」
僕はゴクリと喉を鳴らそうとして、どうしようもなく口の中が乾いている事に気づく。
「ううん。聞いた事ないけど、それ、本当の話じゃないよね?」
そんな事、あるわけない。
そんな怪談みたいな話、それこそただの怪談に決まっている。
「ただの都市伝説だよ。でも、そんな話はどこにでもある。世界中のどこにでも。心霊スポットや怪談の類、神隠しとか。それってつまり、バックルームに落ちてしまった人達の事なんじゃないかな?」
路地裏の奥の薄闇を覗き込んで日捲さんは言う。様子がおかしい。酷くおかしい。なんだか日捲さんじゃない、別の人と話しているみたいだ。
「ねぇ、明日太君。この路地裏の先に行ってみない?」
「……」
僕は答えられなかった。早くここから移動したい。人のいる表通りに戻りたい。
「二人で一緒に、ここではないどこかに行ってみない? 私と明日太君の二人だけの世界に」
振り返った日捲さんが僕の顔を覗き込む。
大きな黒い瞳はどこか虚ろで、その中に僕は吸い込まれそうな気分になる。
「……日捲さん? どうしちゃったの? なんだか、変だよ……」
不安になって僕は聞いた。
そんな僕を、日捲さんはただじっと、面白がるように見つめている。
ずっと、ずっと、見つめている。
僕がうんと答えるまで、永遠にそうしているような気さえする。
「――ぷっ、あはははは!」
不意に日捲さんが笑いだした。身体をくの字にして、けらけらと笑う。
「ごめんね明日太君。ちょっとからかってみただけ。最近ネットでそういう話が流行ってるの。全部創作、ただの作り話だよ」
日捲さんが滲んだ涙を拭う。
可愛らしい笑みが僕の中の不安を浄化する。
ホッとして、僕は胸を撫でおろした。
「もう! 脅かさないでよ! ちょっぴり本気にしちゃったじゃん!」
「明日太君、意外に怖がりなんだね?」
「そんな事ないけど……日捲さんの演技が上手かったからだよ」
「そんなにだった? じゃあ私、演劇部でもいけちゃうかな?」
僕を脅かせたのが余程嬉しかったのだろう、日捲さんが上機嫌でくるりと回る。
そんな動作の一つ一つが、世界の裏側にいる何者かの悪意から僕を守ってくれるような気がする。路地裏は魔力を失って、もうちっとも怖くない。
「あんた達なにやってんの?」
「わぁっ!」
「きゃっ!」
突然背後から声をかけられて、僕と日捲さんは文字通り飛び上った。
振り返ると、鞄を肩にかけた七瀬さんが立っている。
「もう七瀬さん! 脅かさないでよ!」
「はぁ? 別に脅かしてないけど」
日捲さんは一瞬で人見知りモードになって、もじもじしながら七瀬さんに小さく会釈する。さっきまでの元気はどこに? 借りてきた日捲さんだ。
「なに? こんな人目につかない所で、デートでもしてたわけ?」
七瀬さんは表情が薄い。冷静というか、淡白というか、いつもふ~んって顔をしている。その口元の端っこだけが、からかうように少し上がった。
「でっ!? ち、違います! 文芸部の活動で、商店街の写真を撮ってたんです!?」
ボン! っと真っ赤になって、日捲さんは大声で否定した。
「はははー。日捲っち、慌てすぎ。ちょっとからかっただけじゃん」
「七瀬さんはどうしたの?」
「あたしは部活帰り。料理部なんだよね~」
「へ~、知らなかった! ちょっと意外かも」
「よく言われし。こう見えて、結構家庭的みたいな? 気が向いたら試食に来なよ。作った分全部自分達で食べてたら太っちゃうし」
ぽんぽんと七瀬さんがお腹を叩く。
健康的な感じはするけど、太っているようには見えない。
「本当? 行く行く! 日捲さんも今度一緒に行ってみようよ!」
「えっと、その……」
「なに、日捲っち。あたしの料理が食えないってわけ?」
七瀬さんがジロリと日捲さんを睨む。
「い、いえ! そういうわけじゃなくて、その、あの、誘って貰って嬉しいです……」
「冗談じゃん。そんな怖がんないでよ。てーか、好物なに? 練習しとくから、来る時連絡してよ」
「オムライス!」
「たらこパスタとか……」
「簡単すぎ。もっと作り甲斐のある奴リクエストしてくんない? グラタンでもパイでも寿司でも、なんでも作れるし」
ちょっと得意気に七瀬さんが胸を反らす。
「え~! じゃあ僕パイがいいな。アップルパイ!」
「花村には聞いてないって」
「グラタンにパイにお寿司……七瀬さん、凄いんですね……」
「まーねー。将来は料理上手の素敵なお嫁さんになりたいじゃん? てか日捲っちはどうなのよ」
「私は全然……卵も上手く割れなくて……」
「まじぃ? それは流石にヤバくない?」
「それくらいは僕でも出来るよ」
「うぅ……」
日捲さんが恥ずかしそうに顔を隠す。
「なら、たまに料理部に遊びに来れば? 遊びの集まりみたいなもんだし、試食ついでに料理教えてやんよ」
「いいんですか?」
「いいっしょ。てかあたしも、花村くらい日捲っちと仲良くなりたいし?」
そう言って、七瀬さんはその場でくるりと回った。
「演劇部でもいけちゃうかな? だっけ?」
「み、見てたんですか!?」
日捲さんが真っ赤になる。
「見てたんじゃなく見えたんだし?」
口元で笑うと、不意に七瀬さんは路地裏に視線を向けた。
「でもさー。ここで遊ぶのはやめといた方がいいよ。この路地、マジで危ないみたいだから」
「「ぇ」」
忘れていた不安が足元に絡みつく。
「知らない? 商店街の人食い路地の話。なんか時々、ここに入って行った子供が行方不明になる事件が起きてて、絶対遊ぶなって言われてるけど」
僕と日捲さんはマジで!? って顔で見つめ合うと、顔を強張らせてぶるぶると首を横に振った。
「そ。じゃ、覚えときなよ。あたしは帰るから」
ひらひらと手を振って、七瀬さんが歩き去る。
後にはどうしようもなくどんよりとした嫌な空気が残された。
「ひ、日捲さん、今の話、本当かな……」
「そ、そんなわけないよ。人食い路地なんてそんな、ひ、非科学的な……」
口では否定しているけど、日捲さんも僕と同じようにすっかり怯えている。
不意に冷たい風が吹き抜けて、僕達は路地裏に視線を向けた。
ゴクリと、僕達は同時に喉を鳴らす。
異界の門は再び繋がり、世界の裏側から僕達に手招きをしているみたいだ。
「うわぁ!」
「うわあああああ!?」
「きゃあああああ!?」
突然後ろから脅かされ、僕と日捲さんは腰を抜かしかける。
「あはははー。さっきの嘘。日捲っちがバックルームの話してたから、ちょっとからかっちゃった」
いつの間にか戻って来ていた七瀬さんが、眠そうな顔で笑っている。
「もう、七瀬さん! 本気でびっくりしたじゃん!」
「心臓、止まるかと思った……」
「ごめんって。あたし、料理部の他にオカルト研究会も入っててさ。そういう話好きなんだよね。だから、日捲っちがバックルームの話してるの聞いて、テンション上がっちゃった」
七瀬さんがペロッと舌を出す。
「そんじゃ、今度こそ帰るわ。さっきの話、マジで全部嘘だから」
からかうだけからかって、七瀬さんは帰って行った。
見えなくなるまで背中を監視したから、今度こそ大丈夫なはず。
「もう! 人騒がせなんだから!」
「本当だよ! でも、七瀬さんとちょっとだけ仲良くなれた気がしたかも……」
満更でもなさそうな顔で日捲さんは言う。
「じゃあ明日、日捲さんの方から話しかけてみたら? そのバックルームっていうのの話で盛り上がるかもしれないよ?」
「……ぅん。頑張ってみるっ」
「おぉー!」
日捲さんの決意に、僕は小さく拍手を送る。
そして僕は、再び路地裏に視線を向ける。
「ねぇ日捲さん、この先がどうなってるか確かめてみない?」
「えぇ!? でも……」
日捲さんはまだ怖がってるらしい。正直僕もまだちょっと怖い。
「七瀬さんはなにもないって言ってたしさ。どうせただの行き止まりだよ。入ってみてなんにもなかったら、僕達も安心できるでしょ?」
それを確認出来たら、きっと僕の中の怖い気持ちもなくなると思う。
日捲さんは僕を不安そうに見つめて少し迷った。
そして頷く。
「そうだね。行ってみよっか」
そういうわけで僕達は、制服が汚れないように気をつけながら薄暗い路地裏を進んでいった。
先頭は僕、後ろに日捲さん。暫く歩くと曲道になっていて、その先は行き止まりだ。
「…………」
「……ひぃぅっ」
日捲さんの喉が引き攣った声を出した。
商店街の建物の背中が寄せ集まった空間。
その最奥には、色褪せた小さな社が立っていた。
粗末な百葉箱みたいな社は扉が外れかかっていて、中には首のないお地蔵さんが祀られていた。周囲の壁にはびっしりと、謎の呪文の書かれたお札が貼り付けてある。
ぐんにゃりと、世界が急速に歪んでいくような感覚に陥る。
「ぎにゃあああああ!」
「うわあああああああ!」
「いやあああああああ!」
社の裏から黒猫が飛び出して、僕達は一目散に逃げだした。
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