第4話 5月30日

 ごしごし、ごしごし、ごしごし、ごしごし。


 右手に持ったマジ落ち君で床を擦り、しつこい汚れを綺麗にする。

 普段は意識しないけど、こうして見ると教室の床って結構汚れてるんだな。


 月曜日の六時間目、本当なら普通に授業があるんだけど、今週はロングホームルームと交換になって、全校生徒で大掃除をする事になっていた。


 僕の班は教室担当で、僕はこの通りせっせと床を磨いている。

 隣の席の日捲さんも同じ班で、近くの床を磨いている。

 制服が汚れるからみんな体操着だ。


「日捲さん、そっちはどう?」


 日捲さんは先ほどから一言も喋らずに、一心不乱に床を擦っている。掃除好きなのかなって思ったけど、ちょっと様子がおかしい。なんだか不機嫌っていうか、怒ってるような感じで、僕の声も届いてない。


「日捲さ~ん」

「きゃっ!」


 正面に回り込むと、日捲さんは驚いた。


「ごめんね。びっくりさせちゃった?」

「……ううん。その、ちょっと、夢中になっちゃって」


 俯いて答える日捲さんはやっぱりどこか様子がおかしい。


「元気ないけど、なにかあったの?」


 日捲さんは俯いたまま暫く黙っていた。考え込んでるようだから、僕は床を磨きながらのんびり答えを待つ。

 やがて日捲さんはこくりと小さく頷いた。


「……だって先生が、今日が何の日か先に言っちゃうんだもん。私の役目、取られちゃった」

「あははは、日捲さん、そんな事で怒ってたの?」


 意外に子供っぽい日捲さんに、僕は思わず吹き出してしまった。


 今日、5月30日はゴミの日だ。ロングホームルームの時間を入れ替えてまで全校生徒で大掃除をする事になったのもそれが理由。掃除を始める前に、担任の冷泉先生から説明があった。日捲さんはそれが嫌だったみたい。


「……そんな事じゃないもん。私は、明日太君に教えてあげるの、楽しみにしてたのに」


 すんっと日捲さんの鼻が鳴った。泣いてないけど泣いてるような、そんな感じ。


「じゃあ、改めて教えてよ。先生の説明じゃゴミの日だって事しか分からなかったし。日捲さんなら、もっと詳しく知ってるでしょう?」

「……うん!」


 僕が言うと、ゆっくりと朝日が空に上るように、日捲さんの顔に笑顔が戻った。

 これこれ! やっぱり日捲さんは笑っている顔が一番だ。


「でもその前に、そこはもういいんじゃないかな」


 僕の言葉に日捲さんはキョトンとして、目の前の床とその周りを見比べた。

 教室の床はウッド調の四角いタイルが敷き詰められているけど、日捲さんが磨いた所だけ、新品みたいに輝いている。ゲームだったら踏んだらなにか起こりそうだ。


「……ぁ! ど、どうしよう! むしゃくしゃして、やりすぎちゃった!?」


 日捲さんが涙目になる。


「綺麗になったんだからいいんじゃない?」

「でも……一つだけこんなに綺麗だったら変だよ……。ここの席の子に、嫌がらせだって思われちゃうかも……」

「そんな事ないと思うけど」

「でも……」


 日捲さんは不安みたいで、この世の終わりみたいにおろおろしている。


「じゃあ、全部綺麗にすればいんだよ」

「でも、私一人じゃ間に合わないよ……」

「大丈夫だよ。掃除はみんなでやるんだから」


 そう言って、僕は立ち上がった。


「ねぇみんな、ちょっと見て!」

「明日太君!?」


 日捲さんがギョッとして声をあげる。

 そうしている間にも、僕の呼びかけに班のみんなが集まってきた。


「なんだよ明日太……って、うぉ!? すげぇ綺麗じゃん!? これ、明日太がやったのかよ!」

「ううん、日捲さん。すごくない?」

「すごいすごい! ちゃんと磨けば、教室の床ってこんなに綺麗になるんだ!」

「驚きだよね。だからさぁ、全部これくらい綺麗にして、戻ってきたみんなをびっくりさせない?」

「おもしれぇじゃん!」

「いいねそれ!」

「なんかやる気出て来ちゃった!」


 それまでのんびり掃除をしていたみんなが、五倍速ぐらいで床を磨きだす。


「これなら間に合うでしょ?」


 日捲さんにグッと親指を立てる。


「……明日太君って、すごいね」


 口を開いてポカンとしていた日捲さんが、感動したみたいにぽつりと言った。


「すごいのは日捲さんだよ。僕も頑張ってるつもりだったけど、こんなに綺麗になるなんて思わなかったもん。真剣にやるとこんなに違うんだね」

「真剣だなんて、私はただ……」


 なんだか申し訳なさそうな感じの日捲さん。

 その後ろから、日焼けした金髪ギャルな女の子が日捲さんに声をかける。


「ねぇ日捲っち、どーやったらこんな綺麗になんの? コツとかあるなら教えて欲しいんだけど」

「えっと、あの、その……一生懸命やっただけで……」

「だよねー。やっぱ地道に頑張るっきゃないかー。てか、日捲っちと話すの、これが初めてじゃね?」

「そ、そうですね……」

「あたし、七瀬ルコね」

「は、はい、知ってます」

「マジ、知ってんだ? 嬉しいじゃん。じゃ、あたしらもう友達って事で」


 ニカッと快活に笑って七瀬さんは持ち場に戻る。

 僕と日捲さんも教室の端っこに陣取って床を磨き始めた。


「よかったね日捲さん。新しい友達が出来て」

「う、ぅぅ、えぐっ」

「日捲さん!? なんで泣いてるの!?」


 びっくりして僕は尋ねる。

 ぽろぽろと、日捲さんの目から零れた涙が床を濡らしていた。


「その、実は私、人見知りで、今まで明日太君以外にお友達がいなかったから……」

「そうなの? 僕とは普通に話してるし、日捲さんって可愛くて面白いから、友達沢山いるんだと思ってたよ」

「それは……明日太君が話しかけてくれたからだよ……」


 すんすんと日捲さんが鼻を鳴らす。

 そうだっけ? あんまり意識してないから覚えてないや。


「うーん。それじゃあ、いつも僕が一緒にいると、独占してるみたいになってよくないかな?」


 もしかすると、僕と日捲さんが仲良しすぎて他の人が声をかけにくいのかもしれないし。


「そ、そんな事ないよ! 私は……明日太君が友達なだけでも、十分嬉しいから……」

「でも、友達は多い方が楽しいでしょ?」

「それは、そうだけど……」


 そんな話をしていると、班のみんなの騒ぐ声が聞こえてきた。


「はぁ!? 七瀬お前、日捲さんと友達になったのかよ!」

「へへー、いーっしょ。花村に次いで、友達二号だし?」

「えーいーなー。あたしも日捲さんと友達になりた~い」

「話しかけてみたいけど、うるさいの嫌いそうだし、可愛すぎてちょっと声かけにくいんだよね」

「わかる~」


 日捲さんを見ると、真っ赤になってあぅあぅしていた。


「だってさ。友達増やすチャンスじゃない?」

「でも、私、人見知りだし、なにを話していいかわからないよ……」

「いつも通りで大丈夫だよ」


 そう言って、僕はみんなの方を向いた。


「ねぇみんな。なんで今日がゴミの日なのかしってる?」

「はぁ? そんなの、5月30日の語呂合わせに決まってるだろ」


 ちょっと不良っぽ見た目の不破君が答える。


「じゃあ、誰が言い出したのか知ってる?」

「それは……知らねぇけど」

「花村は知ってんの?」


 七瀬さんが聞いてくる。


「うんん」

「知らねぇのかよ!」と、これは不破君。

「でも、日捲さんは知ってるよ。なにを隠そう日捲さんは、記念日マスターなんだから」

「あ、明日太君!? 私も毎回調べてるだけで、そんなに詳しいわけじゃ……」

「いーからいーから。いつもみたいに、今日は何の日やってよ」

「で、でも……」


 日捲さんが困った感じでおどおどする。

 

「いーじゃん日捲っち。ちょー気になるし、知ってんなら教えてよ」

「あたしも聞きたい!」

「俺も!」

「正義は日捲さんと話したいだけだろ」

「うるせー! お前らだってそうだろ!」


 床を擦りながら、班のみんながわーわー言い合う。


「ほら、みんな期待してるよ?」

「うぅぅ……」


 日捲さんは恥ずかしそうに呻ると、ゴミの日の話を始めた。


「えっと、その、先生はゴミの日って言ってたけど、本当はちょっと違って、5月30日はゴミゼロの日なの」

「確かに。ゴミの日なら5月3日でいいもんな」

「てか、それなら普通に5月3日でゴミの日でよくない?」


 だよな、とみんなが頷く。


「きっと理由があるんだよ。だよね、日捲さん?」


 僕のパスを、日捲さんが受け取った。


「……ぅん。愛知県の豊橋市は天然記念物になってる自然の名所が色々あって、観光スポットになってたの。でも、観光客が増えるにつれてゴミのポイ捨てが多くなったから。1975年に豊橋山岳会会長で、山岳愛好家の夏目久男さんっていう人が中心になって、自分のごみは自分で持ち帰りましょうっていう合言葉を作って530ゴミゼロ運動っていうのを豊橋市に提案したの。それが全国に広まって、今では環境省の制定したごみ減量・リサイクル推進週間の初日にもなってるんだよ。綺麗な自然にゴミなんか一つも残して欲しくない、だからゴミゼロって事なんだと思うけど……」


 僕に教える為に、頑張って沢山調べてくれたに違いない。

 難しい話を、日捲さんは少しもつっかえずに話しきった。

 すごい事なのに、日捲さんは不安そうな顔で僕やみんなの顔色を伺う。


「……こんな話、興味ないよね……」


 ぼそりと言った声を、班のみんなの歓声が掻き消した。


「「「「おぉおおおお!」」」」


 一時みんなは掃除の手を止めて、パチパチと拍手をする。


「なるほどな! だからゴミゼロの日か!」

「なんだ。掃除の日じゃないじゃん」

「先生も知らなかったんじゃない?」

「あとで教えてやろうぜ!」

「てか日捲っち、ちょー物知りじゃん。もっと色々聞きたいんだけど」

「ぁ、あぅ、それは、その……」


 困り顔で助けを求める日捲さんに、僕は頷く。


「だめだよ。日捲さんの今日は何の日はその日のだけ。じゃないと、勿体ないでしょ?」

「それもそっか。面白かったから、また聞かせてよ」

「俺の誕生日って何の日だろうな。今から楽しみだぜ」

「あたしも!」

「はいはい、気分転換も出来たから、お掃除頑張るよ!」

「「「「おー!」」」」


 満足して、みんなが掃除を再開する。

 と、不意に思い出したように、みんなが日捲さんを振り返った。


「あんがとね、日捲っち」

「面白かったぜ日捲さん!」

「これを機に仲良くしようね!」

「あたしも! 今度一緒にお昼食べよ!」

「は、はひ、よ、喜んで……」


 そんな感じでめでたしめでたし。


 日捲さんは班のみんなと仲良くなって、床もピカピカ、戻ってきた他のみんなも驚いて、僕達は先生にお褒めの言葉を頂いた。


「それもこれも、全部日捲さんのおかげだね」


 放課後、文芸部の部室に来た僕は、改めて日捲さんに言う。


「……そんな事ないよ。私からしたら、全部明日太君のおかげだよ」


 だから、ありがとう。


 僕の目を眩しそうに見つめて、日捲さんは言う。

 そんな日捲さんが、僕も眩しい。


「じゃあ僕も、ありがとう」

「なんのお礼?」

「日捲さんのおかげで毎日楽しいからだよ」


 ボン! と真っ赤になる日捲さん。

 本当に照れ屋さんなんだから。


「よーし。今日も文芸頑張るぞー!」


 腕まくりをして、今日も僕はネーミング辞典と睨めっこをするのだった。

 

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