灰原凪はいばらなぎは自分のアパートの一室にいた。

 学生のころに見つけた築七十年という古いアパートで、パイロットの養成所を卒業して実際に働き始めたこの五年間、結局引っ越すタイミングもその気力も失い、未だにそこで暮らしていた。

 そもそも、パイロットとしての忙しい毎日の中で寝て起きるだけの部屋だし、そこまで不便なわけでもない。今日みたいに運よく休みだったとしても、誰かを家に呼ぶわけでもないからボロかろうとなんだろうと関係ない。この部屋は彼にとって今の世界で気が休まる唯一の場所。

 だからこそ、そんなのんびりしている日に仕事用の携帯が鳴るというのは灰原にとって不愉快極まりないことだった。

「やぁ」

 電話に出ると彼の上司である牧田の陽気な声が聞こえる。

「休み中に悪いねー」

 気づかないふりをすればよかったと早々に後悔をしながら、灰原は牧田に聞こえるよう、わざと大きくため息をつく。

「全くもって悪いと思っているようには聞こえないんですが?」

 冷たく言い放つ灰原の言葉に牧田は笑いながら「よくわかったねー。さすがは僕の優秀な部下だ!」なんてはしゃいでいる。

 灰原の直属の上司、牧田宋まきたそう。能天気で気まぐれで、無茶苦茶な要求をしてくる牧田のことが、灰原は出会った時から苦手だった。


 灰原が初めて牧田の隊に入った時、彼はまだ牧田にそれなりの敬意を払っていた……と自分で思っている。自己紹介も早々に急に肩に手を回し、馴れ馴れしく近づいてきながら「君が灰原ちゃんだね!」と変なあだ名までつけられたあげく、「若くてお肌ぴちぴちだねー」なんて言いながら顔を撫で回してきた時は、頬に伸びてきた手をギュッと掴んで背負い投げをかましてしまったが。まさかこれが関係者の中で今でも語り継がれている、「灰原背負い投げ事件」となるとはあの時は微塵も思っていなかった。

 それでも、三十八歳という若さにしてエリート空軍集団であるW-001隊、通称「WINGS」のメンバーだったのだから、牧田はやはり敬意を払うべき相手には違いない。

 灰原自身もそれは十分に理解しているし、彼のことをあの天真爛漫な性格以外は尊敬している。

 しかし、だからこそ灰原にはそんなエリートの牧田が何故わざわざ好んで弱小隊の隊長をしているのか、不思議で仕方なかった。


「自由な空」を守るための組織、上空防衛軍。


 人類の飛行技術が格段に、それも急激に上がってしまった今の時代に必要不可欠だと言われるこの組織に、灰原は五年前からパイロットとして所属している。発足のきっかけはおよそ五十年ほど前にとある無人島の洞窟で発見された未確認のレアメタル。「ソアレドライト」と名付けられたその石は、洞窟の至るところに浮いている状態で発見されたらしい。半世紀経った今でもなぜそんなことが起こるのかは解明されていないが、浮遊力をもつ石の採掘がそこら中で躍起になって行われた。

 その結果、宇宙開発競争をしていたはずの国々がより安価で生活への応用も効く、人間の自由飛行装置の開発に力をいれるようになったのだ。

 実際に人間用の飛行装置が発明されたのは、石の発見からなんとわずか数年後。

 宇宙開発に携わっていた平野東二ひらのとうじという日本人が発表したソアリドライトの画期的な活用方法が世界的に流行し、発明されてからあまり変わっていなかった飛行機の形を劇的に変えた。

 一家に一台空飛ぶ車。

 スケートボードのような板に乗って低空飛行。

 WINGSが使っている背負うだけで体が浮くリュックの様な装置「テトラ」。

 その場で上昇も下降もできるから、離陸のための助走も必要ない。

 もはや「飛行機」の象徴であった翼は剥がれ落ちてしまった。

 そして当然、こんな画期的な技術が露骨に軍事利用されるのにかかった時間はそれからほんの数か月。

 各国の軍隊が空の上の戦闘に特化した特殊部隊を編成し、日本も上空防衛軍を作り、WINGSのようなテトラを使った空中戦闘ができる人材を育成していった。

 自分たちの領空を、可能性が広がった空を、少しでも多く得るために第一次世界空戦が始まったのだ。

 人間が今まで作ってきた法も規律も秩序も通用しない。


 自由な空の上は、完全に無法地帯だった。


 戦争が始まってからかなりの時間が経っているため、最近はようやくおだやかな日々が続いているが、ほんの十数年ほど前までは相当な激戦だったらしい。

 日本上空は常に煙が雲のように漂っていて、昼間なのに夕暮れのように空が真っ赤に染まっていた。

 灰原自身も、幼いながら当時のことはよく覚えている。

 遠くの方で時折微かに鳴る爆発音と風に乗って香る爆薬の匂いが幼少期の思い出に当たり前のように存在していた。当たり前すぎて、恐怖も何も感じていなかった。

 戦いに地上の人間が巻き込まれることはほとんどなく、はるか上空で行われている戦闘に関心を持つ人は時が経つにつれて薄れていったのだ。

 ただ、灰原は一度だけ、自身の目で空の戦いを見たことがある。 

 忘れもしない。

 学校からの帰り道、ふと真上を見上げると珍しく曇った灰色の空の隙間から本来の青が覗いていた。わずかな亀裂から久々に見えた青空をじっと眺めていると、そこに突然黒い二つの点が現れる。しばらくその狭い隙間の中を動き回っていたが、二つの点が重なり合った瞬間、点が一つ猛スピードで落下していくのが見えた。

「あっ……」と思った時にはその点はもう見えなくて、もう一つの点も煙の中へ消えていった。ただ、空の青とは対照的に、アスファルトの道路の上には赤い点が一つ、いつの間にかそこに落ちていたことだけは、灰原の記憶の中に今でも鮮明に残っている。

 あの頃から続くこのくだらない戦い。

 牧田もこの激戦の中をくぐり抜けてきたのだろう。

 彼が二十八歳のとき、今から約十年前にこの空戦の火の粉は弱まったらしいが、牧田がWINGSをやめたのも同じ年らしいと灰原は噂好きの同僚から聞いたことがある。

 もしかすると牧田もあの点の一つであり、空の上で英雄だったのかもしれない。


「灰原ちゃーん?聞いてるー?」

 電話越しに牧田のヘラヘラした声が聞こえてくる。

「もしかして怒ってる?まぁまぁ、いつものことなんだからさ。そんなに怒らないでよー」

 灰原はもう一度大きくため息を吐いた。

「別に怒ってないですよ」

「嘘だー。絶対怒ってる」

 僕への態度が冷たいもん、と嘆く牧田。

「だから怒ってないですって。さすがにもう慣れましたよ」

 怒って欲しいなら別ですけど、と言う灰原に、投げ飛ばされたくないから勘弁……と牧田が笑う。

「それで用件はなんですか?」

「ん?あーそーそー。つい楽しくなっちゃって大事なことを言うのを忘れるところだったよー」

 コホン!とわざとらしく咳払いをして、じゃあいくよーと牧田が言う。

「灰原二等空士、特別輸送任務のため至急基地に出頭するように!」

 いやー!休み返上でたいへんだねー、と悪びれることもなく笑う上司の声をこれ以上聞きたくなくて、灰原は無言で通話を切った。

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