第13話「護衛、いにしえの技を使う」

 ──翌日。紫州、北東の村で──




 俺と杏樹さまは、村人に変装することにした。

 巫女服は目立つし、動きにくいからだ。

 州候代理の命令を受けた兵士長──部隊を引き上げようとしているあいつが、尾行してくる可能性もある。安全のためには、隠れて霊域を目指した方がいい。


 着替えや、荷物を入れるためのかごは、杖也老じょうやろうが手配してくれた。

 村人たちにも、杏樹さまの支持者はいる。

 そんな人たちに頼むことで、秘密裏に準備を整えることができた。


 出発は、明け方。

 山菜採さんさいとりの村人に変装して、俺と杏樹さまは山へ。

 道は前もって、杏樹さまから教えてもらった。山歩きは慣れている。故郷の『虚炉村うつろむら』が、そもそも山の中だったからだ。地図もあるし、杏樹さまを霊域に案内するくらいなら、問題なくできると思う。


 そうして、俺たちは夜のうちに用意を整え──

 明け方。まだ陽がのぼりきらないうちに、村を出発したのだった。





「わたくしは、零さまの指示に従います」


 杏樹さまは真面目な表情で、うなずいた。


「わたくしは世間知らずです。山のことはわかりません。ですから、すべてを零さまに委ねるとお約束いたしましょう」

「ありがとうございます。それで、質問なんですけど」

「はい。零さま」

「山を歩くのですから、土や砂なんかで身体が汚れると思います。でも、霊域は身を清めてから入る場所ですよね。入る前に、俺が水場を探した方がいいですか?」

「問題ありません。霊域の手前には川があるようです」


 杏樹さまは、手元の地図を指し示した。


「そこで休憩して、身を清めてから、霊域に入るといたしましょう」

「なるほど。小さいですけど、地図には川が書かれていますね」

「わたくしが、この地に『失われた霊域』があると確信できたのは、この川のおかげです。川は現世と、霊域のような異界を分ける境界はざまの役目を果たしておりますから。途中の道に川があるなら、霊域にふさわしいと考えたのです」


 川は異界と、人の世界を分けへだてる役目を果たしているそうだ。

 いわゆる『彼岸ひがん』と『此岸しがん』だ。

 巫女姫の杏樹さまには、そういう『霊域にふさわしい』地形がわかるらしい。


「紫州の霊域も、周囲からは川でへだてられております。ここと条件は同じです。さらに、ここは人の来ない山中です。清らかな山深くから川が流れているとなれば、その先に霊域があっても不思議はありません」

「なるほど……」

「むしろこの川は、異界に入る前に身を清めるためにあるのかもしれませんね」


 さすが杏樹さまだ。

『失われた霊域』の存在を確信していたのには、そういう理由があったのか。


 現世と霊域を分ける川。霊力の集まりやすい山中。

 そういう手がかりがあったから、霊域を目指すことに決めたのか。

 杏樹さまって、やっぱりすごいんだな。


「それじゃ行きましょう。杏樹さま」

「はい。零さま」


 そうして俺たちは、山道を進み始めたのだった。





「父によると『失われた霊域』に入るには、とある樹が目印になるそうです」


 杏樹さまは言った。


 息は切れていない。

 お姫さまに山歩きができるか心配だったけど、大丈夫そうだ。


「州都近くの霊域も、山の方にありますから」


 不思議そうな顔をする俺に、杏樹さまは言った。


 紫州の霊域は、州都近くの山にあるらしい。

 だから杏樹さまはいつも、小間使いの桔梗ききょうと一緒に山を歩いていたそうだ。


「だから山歩きには慣れているのです」


 と、杏樹さまは自信たっぷりにうなずいてみせた。


「それで杏樹さま『失われた霊域』に入るには樹が目印になるそうですが、どんなものなのでしょうか?」


 俺の問いに、杏樹さまは少し考えてから、


霊脈れいみゃくに沿って生えている樹ですね」

「霊脈に沿って?」

「地面の下に、霊力の流れがあることはご存じですね?」


 よく知ってる。

 前世の世界との大きな違いだ。


 この世界は、大気中に霊力が満ちている。

 それとは別に、地面の下にも霊力の流れがある。それを霊脈と呼んでいるんだ。


 その霊脈が集まる場所が、霊域と呼ばれている。

 イメージとしては、霊力の温泉が湧き出す場所といった感じだ。


「その樹は山の霊脈から、多くの霊力を吸い上げているそうです。それで樹の幹や、葉のかたち、身に宿した霊力が他と違っているそうですよ」

「なるほど。それを目印に進めば、霊脈をたどることになって……その結果、霊域に着けるわけですね」

「はい。それで零さまに、確認したいことがございます」

「なんでしょうか。杏樹さま」

「零さまは、霊力をその目で『る』ことはできますか?」


 村人姿の杏樹さまは、俺に訊ねた。


「巫女姫であるわたくしは、霊力を観る能力をもっております。じっと目をこらすと、周囲にある霊力が見えるのです。もちろん、零さまの霊力を拝見することもできます」


 もちろん、許可なく観たりはいたしません、と、杏樹さまは付け加えた。


「ただ、霊域への道をたどるためには、霊力をられるかどうかが重要となります。おたがいが同じものを見ていると思い込んでしまうと、情報の食い違いが起こることがあります。ですから、確認しておきたかったのです」

「わかりました」


 えらいな。杏樹さまは。

 上司なんだから『質問に答えなさい』でもいいのに、意図を説明してくれてる。

 いわゆる『報告』『連絡』『相談』を、ちゃんとする人なんだな。杏樹さまは。


 ……杏樹さま、まだ15歳なのに。

 この世界の人たちは早熟だって言うけど、杏樹さまは特別だ。

 まだ若いのに、州候を継ぐ覚悟も、能力も備えている。

 部下とうまく仕事ができるように、情報伝達もしっかりとしている。


 こんな上司は、前世にもいなかった。

 この人が俺の雇い主でよかった。本当に。


「申し上げます。俺は、なんとなくですけど……霊力を見ることができます」

「わかりました。それなら話がしやすいですね」

「あと、自分の霊力をつかんだり、粘土のように形を変えたりすることもできます」

「なるほど。零さまにはそのような能力が…………え?」

「それと、杏樹さまは霊力を色やかたちで判断されているようですけれど、俺は触覚で判断しています。堅さや、やわらかさ。ざらざらしているか、ふわふわしているか。あと、熱いか冷たいかというのもありますね」

「本当ですか? いえ、零さまのお言葉なのですから本当でしょう……ふむ」


 杏樹さまは、考え込むようなしぐさをした。


 霊力を見る力は、そんなに珍しいものじゃない。

 巫女姫はみんな使えるらしいし、大抵の術者も、霊力を見ることができる。


 ただ、俺はちょっと特殊で、視覚より触覚の方が優先される。

 これは『虚炉村うつろむら』にいたころ、自分の霊力で遊んでいて気づいたことだ。


 俺の霊力というのは、どうも人と違うらしい。

 他の人の霊力が、さらさらした水ならば、俺の霊力はねっとりとした粘土ねんどだ。

 だからつかんだり、形を変えたりできる。


 それを応用して編み出した技が『影縫かげぬい』だ。あれは棒手裏剣ぼうしゅりけんに、俺の霊力を絡みつかせている。

 霊力が魔獣の邪気をつなぎ止めることで、本体の動きを止める。そういう技だ。


 どうしてそうなっているのかは、自分でもわからない。

『健康』だから、霊力の濃度が強いんだろうな、ってことで、納得はしてるけど。


「とにかく、触覚優先ですけど、霊力を感じたり見ることはできます」


 俺は続けた。


「敵の霊力を察知できなければ、その強さがわかりません。そんな状態では、杏樹さまをお守りすることはできませんからね。だから霊力を見ることも、普通にできます。ご安心ください」

「……興味深いですね」


 杏樹さまは、ふむふむ、という感じで、うなずいた。


「零さまがどうして変わった霊力をお持ちなのか……不躾ぶしつけながら、とても興味があります。ぜひ、落ち着いたら、お互いの霊力について話をさせてください」

「わかりました。いいですよ」

「はい。それは今後の楽しみにいたします」


 そう言って、杏樹さまはまわりの樹に視線を向けた。


「では、霊域への入り口を探しましょう。目印は、強い霊力を持っている樹です」

「強い霊力ですね」

「はい。その影響で葉が変化している樹です。具体的には、葉の裏側にトゲのついている樹になります。霊脈の影響でそうなっているようですが……」

「これですか?」

「あ、はい。その樹です……って、もう見つけられたのですか!?」

「はい。トゲトゲしい霊力を探していたら、見つかりました」


 霊力を触覚で把握していると、こういうこともできる。

 感覚を研ぎ澄ますのは、忍びの技のひとつだし。


 周囲にある霊力を感じ取って、『トゲトゲ』しているのを探せばよかった。

 そうして触ってみたら、葉の裏側にトゲがついていた。それだけだ。


「すごいです……れいさまがいらっしゃれば、道に迷うことはなさそうですね」


 杏樹さまは感心したような笑みを浮かべた。


「やっぱりあなたは、父が見込んだ人です」

「おそれいります」

「そんな口調はやめてください。ふたりしかいないのです。わたくしは心の底から、あなたを信頼しております。どうか、今は……今だけは、家族のように接してください」

「家族のように、ですか?」

「わたくしが家族と呼べるひとは……ほとんどいませんから」


 そういえば、そうだった。

 杏樹さまの父親──州候の紫堂暦一しどうれきいちは倒れたままだ。

 まだ意識は戻っていない。


 その上、州候代理から身を守るために、他州の病院へ移送されている。

 杏樹さまの亡き母君の親戚がやっている病院だから、安全ではある。だけど杏樹さまが会いに行くことはできない。

 州候代理の手の者に尾行されたら、暦一さまの居場所がばれてしまうからだ。


 暦一さまが亡くなれば、副堂勇作の肩書き──州候代理から『代理』が取れる。

 それを狙って、奴が暦一さまを害する可能性は、十分にあるんだ。


 でも、そのせいで、今の杏樹さまには家族がいない。

 身内と呼べるのは、幼いころから知っている杖也老じょうやろうと、小間使いの桔梗ききょうだけ。

 それじゃ不安になるのも当然だ。


「零さまは高齢になって恩給おんきゅうをもらうまで、わたくしに仕えてくださるのでしょう。だとすれば、家族よりも長い時間を、共に過ごすこととなります。でしたら今くらいは、家族のように話をしても……」

「承知しました。杏樹さま」


 杖也老に知られたら、身分違いって怒られるかもしれない。

 でも、霊域を見つけるまでの短い間ならいいだろう。

 杏樹さまが安心するなら、それで。


「村に戻るまでの間、杏樹さまと家族のように接することをお約束します」

「ありがとうございます。では……まず、口調から」

「口調ですか?」

「あまりかしこまった言葉遣いでは、いざというときの情報伝達が遅れるかもしれません。ですから、家族と話すように、敬語なしでお願いいたします」

「……本当に?」

「はい」

「……えっと。わかりました。いえ、わかった」

「まぁ」


 いや、そんなうれしそうな顔をされても。


「ありがとうございます。うれしいです」

「杏樹さまも、敬語になってますよ」

「わたくしのは性分ですので」

「えー」

「改めて、よろしくお願いいたしますね」


 そう言って杏樹さま──いや、杏樹は、俺の手を握った。


「この旅の間だけは家族のようにふるまいましょう。隠し事は、なしにして」

「わかった。それじゃ、お願いがあるんだ」

「は、はい」

「俺の背中におぶさってくれるかな?」

「はい。こうですか?」


 俺がしゃがむと、杏樹は迷いなく、その背中に身体を預けた。

 本当に俺のことを信頼してくれてるんだな。


 普通のお嬢さまだったら、こんなとき、少しはためらうんだろうけど。

 杖也老が杏樹を心配する理由が、わかったような気がする。


 俺は杏樹を背負ったまま振り返る。

 尾行の気配は感じない。


 だけど、あの兵士長のことだ。俺の不在に気づいて、居場所を探りに来るかもしれない。となると、足跡をたどれないようにした方がいい。

 杏樹のためだ。できることはなんでもしておこう。

 もっとも、これで杏樹をびっくりさせることになるかもしれないけれど──


「わたくしは零さまを信頼しております」


 耳元で、杏樹が言った。

 薄い着物の向こうから、体温が伝わって来る。胸元の弾力も。


 それは気づかないふりをして、俺は霊力運用れいりょくうんよう

 両足に霊力を集中させる。

 いつもより強力に、より、遠くへ跳べるように。


「──『我を天地あめつちふいごし、清き浄化の霊気をかん。願わくばすべての邪気をはらわんことを』」

「零さまのお身体が熱くなってきました。これは……『虚炉流うつろりゅう』の……霊力運用の祝詞のりとですか?」

「──そうです。周囲の霊力を取り込みやすくなる効果があります」


 空気と地面から霊力を吸収する。

 体内に循環じゅんかんさせる。触れている部分も身体とみなして、一緒に。

 それから両脚に霊力を集中させて──技を発動する。


「『虚炉流うつろりゅう邪道じゃどう──霊力展開『軽身功けいしんこう』」



 ──だんっ。



 俺は地面を蹴った。


 ふわり、と、身体が浮かび上がる。

 空を飛んでいるわけじゃない。ただ、軽々とジャンプをしているだけだ。

 高さは数メートル。樹の上まではさすがに跳べない。

 とても身軽で、羽根のように跳べる走り幅跳び、といった感じだ。


軽身功けいしんこう』は霊力を利用して、一時的に身体を軽くする技だ。

 効果は触れている相手──おんぶや抱っこしている相手にも適用される。

 同行者がいても、荷物を抱えていても問題ない。まるでなにも抱えていないかのように、身軽に動ける。


 だからこうして杏樹と一緒に、ふわふわと長距離ジャンプができるんだ。


「よし。これで距離を稼げた」


 木々の間を飛んで、俺たちは移動した。

 進んだのは一歩。だけど距離は十数メートル。

 追跡者がいたとしても、これなら足跡をたどれない。においを追うのも無理だ。


「杏樹さまは、地面の霊力を観ていてください」

「…………」

「霊力で変化した樹は、じっと観ていれば区別ができるはずです。それで、移動する方向を指示してください」

「…………」

「俺は移動に専念します。『軽身功けいしんこう』は一歩一歩が長距離なので、足元に注意が必要ですから」

「…………」

「あの、杏樹さま?」

「……杏樹、で、よろしいです」

「え?」

「……これほどすごいことができるお方に仕えていただいているのです。それだけでわたくしは、幸運すぎるほど幸運なのです。敬称をつけていただいたら、バチが当たるかもしれません」

「……杏樹、さま?」

「あ、申し訳ありません。樹の霊力が見えました。つぎはあちらに進んでください」


 背中にしがみついたまま、杏樹が新たな方向を指さす。

 俺は『軽身功けいしんこう』を発動したまま、また、地面を蹴る。視界が飛ぶ。

 この分なら、昼前には川までたどり着けそうだ。


「うかがってもよろしいですか。零さま」


 俺の背中にしがみつく杏樹が、ふと、耳元でつぶやいた。


「いいですよ。どうぞ」


 俺は答えると、杏樹は、


「零さまのこの力も『虚炉流』の技なのですか? でも、邪道とおっしゃいましたね?」

「邪道です。これは『虚炉流』では、封印されていた技ですから」

「封印、ですか?」

「杏樹さまは『虚炉流』が、龍から伝授された武術だという伝説をご存じですか?」

「5年前、零さまたちに護衛をお願いしたとき、父が教えてくれました。『龍から学んだ武術を使う人たちだから、強いよ』って」

「でも、その武術を伝えた龍は、人間のことをよく知らなかったみたいなんです」

「と、おっしゃいますと?」

「原初の『虚炉流』って、使うと身体に負担が掛かりすぎるんですよ」


『虚炉流』の開祖かいそは龍神の娘と結ばれて、子をなしたという伝説がある。

 原初の技は、その子どもが使うことを前提としていたらしい。

 だから、普通の人間が使うと、むちゃくちゃ身体に負担がかかるんだ。


 だからご先祖は人間にも使えるように、技を作り替えた。

 それが今に伝わる、『虚炉流』の正統な技だ。


 原初の技は、霊力を使って身体強化して、忍者っぽいことができる。それもリアル忍者じゃなくて、前世の物語に出てくるような、すごい忍者のようなことが。

 霊力を足に集中して水面を歩いたり、壁を登ったりすることも可能だ。


 龍神の子孫は、実際にそういう技を使っていたらしい。

 当時の『虚炉流』は、国々をまたにかけて大活躍していたそうだ。

 時は、群雄割拠の戦国時代。

 その頃のご先祖は各国の間者スパイとして、各国を渡り歩いていたと聞いている。


 その後、乱世は終わり、皇帝と州候の時代が来た。

 ご先祖の血も薄れ、『虚炉流』の原初の技もすたれた。

 国家間のトラブルも減り、『虚炉流』は仕事を要人警護ようじんけいごに切り替えた。


 祖父の時代に運良く、皇帝の護衛を勤めることができた。

 それを機に祖父は忍者っぽい技を捨てて、剣術による立ち会い重視に『虚炉流』を変えた。


 そうして『虚炉流』の原初の技は、完全に忘れられた。

 原初の技について書かれた本は蔵の中。祖父でさえ在処を知らなかった。


 で、その本を俺がうっかり見つけて……試しに技を使ってみたら、できた。

 そのいくつかを覚えて、当時は元気だった父さんに見せたんだ。


 でも、父さんは、村人の前で技を使わないように、俺に頼んだ。

『邪道と言われるから』というのが、その理由だ。

 父さんの考えもわかる。

 村の権力者はうちの祖父だ。

 俺が邪道の技を使ってるのを知ったら、なにをするかわからない。


 まぁ、我慢できなくて、祖父の前で技を使っちゃったこともあるけど。

 具体的には、父さんが死んで、奴が父さんをののしった直後に。

 それが村を出ることになる、きっかけだったんだ。


 でも、村を出た今は心置きなく技が使える。

 便利だからね。『虚炉流』の原初の技は。


「『虚炉流』の原初の技は12種類あります。霊力を使う『軽身功けいしんこう』も、そのひとつです」


 正確にはこの技は『しん軽身功けいしんこう』とか『龍身りゅうしん軽身功けいしんこう』とか言うらしい。

 派手な名前は好きじゃないから、俺は単純に『軽身功』って呼んでるけど。


「お待ちください。零さま」

「どうしましたか? 杏樹さま」

「『虚炉流』の原初の技が封印されたのは、身体に負担がかかるからですよね!? それを今、零さまは使っていらっしゃるのですよね? では、零さまのお身体は……」

「問題ありません」

「え?」

「俺は健康が取り柄ですから」


 前世で病弱だった俺は、死の間際に『来世では健康に』と願った。

 その願いが叶ったのか、今世での俺はすごく健康だ。


 風邪を引いたこともないし、はやり病にかかったこともない。怪我の治りも異常に早い。多少の切り傷なら、すぐに血が止まり、傷跡も数日で消えてしまう。


 そのおかげで『虚炉流』の原初の技を使っても、なんともない。

 この『軽身功』も身体に多少は負担がかかっているんだと思うけど、俺の『健康』は、それを消してくれてる。

 だから遠慮なく、原初の『虚炉流』を使えるんだ。


「もっとも、俺もすべての技が使えるわけじゃないんですけどね」


 中級にも4つの技があり、上級になると3つの技がある。

 さらに最上級──あるいは秘奥義らしいものもある。


 いつか使ってみたいけど、俺の『健康』も、いつまであるかわからないからなぁ。

 頼りすぎはよくない。

 必要ない限りは、初級以外は使わないようにしてるんだ。


「でも、こんなことができるのも若いうちですね。将来は頭脳労働をしたいです」


 ついでに、杏樹へのアピールもしておく。


「将来的には、杏樹さまのお側でお世話をする……橘杖也たちばなじょうやさまのようなお役目をしたいです。そのために杏樹さまと杖也さまの近くで、学ばせていただきたいと思っています」

「そ、そうなのですか……」

「っと、かなり距離が稼げました。ここからは、普通に歩いても大丈夫でしょう」


 ふわりと着地。

 振り返ると、村人たちに教えてもらった山道は、もう見えない。

 数百メートルの距離を数歩で移動してきたんだ。

 追っ手がいたとしても、足跡をたどるのは無理だろう。


「お疲れさまでした。杏樹さま」

「い、いいえ。わたくしはただ、しがみついていただけですから」


 そう言って背中から降りた杏樹は、木に寄りかかって、一息ついてる。

 脚が少し震えている。


「やっぱり、怖かったですか?」

「いえ……誰かにおんぶされるのが初めてだったので……どれくらいの力でしがみついていいのか、わからなくて……」


 杏樹は真っ赤な顔で、そう言った。


「脚に力が入りすぎたようなのです。それで……」

休憩きゅうけいしますか?」

「……いえ、もう少しだけ進んだ方がいいようです」


 そう言って杏樹は、山の上の方を見た。

 俺も同じようにする。ふたりとも黙って、耳を澄ます。


 水の音がした。

 この近くに、川が流れているんだ。


「この先に川があります。となれば、霊域も近いでしょう」

「そうですね。休憩するなら、水場の方がいいかもしれません」

「参りましょう……あ、あら、あらら?」


 歩きだそうとした杏樹が、よろけた。

 俺は慌ててその身体を支える。


「申し訳ありません。あの……零さま」

「もうちょっとおんぶしますか?」

「……お願いいたします」


 俺は再び、杏樹を背負って歩き出した。


 空気が変わってきたのがわかる。

 下界と違って、張り詰めたような感じだ。霊力の流れも違う。

 目の前にねっとりとした霊力の流れがあるのがわかる。押し戻してくるような感触がある。俺たちが進むのを、拒んでいるかのように。


 これは……結界か?

 となると、この先に『失われた霊域』があるのは間違いなさそうだ。

 杏樹の父さんの言葉は正しかったみたいだ。


 先を急ごう。

 霊獣を手に入れて、『柏木隊』を味方につけるんだ。


 杏樹の味方を増やして、力をつける。

 それが杏樹が生き残り、俺が安定した生活を送るための、近道なんだから。

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