第33話 俺
48歳になった俺は入院を余儀なくされた。
俺は肺癌にかかっていた。しかも末期の肺癌だった。
やはり人の死に方なんてわからない。健康に気をつけても不慮の事故で死んでしまうかもしれない。
正直なところ、肺癌にかかったということよりも、「腎臓じゃなくて、こっちか」と驚き、20年以上、毎日2箱近く煙草を吸っていた俺には思い当たる節がありすぎて当然と言えば当然なのだろうと、素直にそう思った。
それに彼女にもよく言われていた。「そんなに煙草を吸っていたら肺癌になっちゃうよ」と。ああ、そう言えば「出世もできない」と言われたな。
結局、彼女の言う通りになってしまった。これじゃあ彼女に合わせる顔がない。会う予定などないのに俺は彼女の顔を思い出して、「ごめん」と勝手に謝った。
母方の祖父は肺癌で他界した。爺ちゃんは、いつも煙草を吸っていたし、いつも酒を飲んでいた。というよりもそれ以外の姿を見た覚えがない。これは遺伝だ、俺は酒こそ飲まなかったが、これは嫌な遺伝の在り方だと思った。
本当は、こんなのヘビースモーカーの責任転嫁だ。爺ちゃんと俺は違うのだから。
まだ頭が働いていたときは「悪いけど、先に逝くわ」とお袋に軽口を叩き、「この、親不孝者が!」と涙を溜めたお袋から頭をこづかれた。
俺には記憶がほとんどないが、お袋が言うには祖父は肺癌でかなり苦しんだらしい。
お袋は祖父の苦しむ姿が色濃く残っているようで、俺のことを過度に感じるほど心配してくれた。
ただ、不幸中の幸いというべきか、俺はさして辛い思いをしなかった。
ただ、頭がぼんやりする日が多くなり、思い出していたのは彼女のことだった。
彼女は学内で人気があった。俺には高嶺の花だった。俺なんかの存在にも気づかないだろうと思っていた。
彼女は可愛かった。人気もあった。優しかった。たまに強情で口うるさいときもあった。
だが、そんな俺が彼女と付き合うことができた。信じられなかったが、本当に本当に彼女と過ごした日々が楽しくて幸せだった。
自分の人生で彼女の存在は思っていた以上に大きくて、宝箱におさまりきらないくらい思い出に満ち溢れていた。
頭がうまく働かなくなると、俺は何年か前に彼女と再会したような気がしていた。大学生のままの彼女が突然現れ、ほんの数回だが再び彼女と過ごすことができたような気がしていた。それは病気が悪化しているせいだと思った。
ところが、ある日、お袋が病室にハートのネックレスを持ってきて「これって大事なものなの?」とベッドに横たわる俺に問い掛けた。そして、そのネックレスを目にしたとき、俺は間違いなく彼女と再会した思い出すことができた。
俺は「これを持っていたい」とお袋からネックレスを受け取り、両手で大事に握りしめた。
人間が順番通りに逝くとは限らない。3歳や4歳で不幸にも事故に巻き込まれて亡くてなってしまう人がいれば、大病を患うことなく90歳まで生きる人もいる。
不条理だと思うが、どうすればそうならないようにできるのか、神様ではない俺にはわからない。
要するに偶然なのか、それとも必然であるのかはわからない。ただ、少し早い気もするが俺にもその順番が回ってきたということだけなんだろう。
ただ、新井は勝手に横入りしてしまった。それが残念だった。それを予定調和とは言わせない。言わせてたまるか。
日々が過ぎるのと同時に、考えるのに疲れ、眠いなあ、と思い目を閉じることが日に日に増えていった。
俺は頑張れたかなあ、と思い出そうとしたが、電池がきれてしまったようで頭が働かなくなっていた。
彼女は今どうしているのか、と思いを馳せる。だがわかならない。わかるはずもない。
あれだけ好きだった彼女と疎遠になった原因は俺にあった。彼女が仕事で移動になって、電話で話しても「仕事は?」「体調はどう?」などと社交辞令のような会話ばかりで、いつのまにか他人行儀になっていた。
でも、彼女はいつだって俺のことを気遣ってくれていた。
会えないことを理由にはしたくないし、それはできないが、距離が遠のいた途端に俺は怖気づいた。
俺では彼女は幸せにできないのかもしれない、いやできないのだろうと思うようになってしまった。
でも、できることなら、もう一度で良いから会いたい。俺の残り時間ももうあと僅かだ。
そして、彼女に「さようなら、ありがとう」と言いたい。
彼女はどこでどんな生活を送っているんだろう?彼女はきっと歳を重ねても可愛らしい女性になっているだろう。そして素敵な旦那さんや彼女に似た可愛い子供もいるのかもしれない。
幸せになっていて欲しいと強く願った。俺にできることはそれくらいしかなかった。
ダメだ、頭が回らない。
考えようとしても脳が拒否している。
ただ、本当なら俺は自分の手で彼女を幸せにしたかった。幸せになって欲しかったなんて嘘だ。俺は自分の都合の良い解釈をしているだけだ。
今になって往生際が悪いし、俺は未練たらたらだな、とみっともなくなったが、それが俺の本当の気持ちだと気づいた。やっと認めることができた。
今頃になって本音がでるなんて、俺はどこまでも情けないと思ってしまう。
でも、彼女は「あなたらしいね」と笑ってくれるかもしれない。
ああ、眠いなあ。
どうしてこんなに眠いのだろう。
俺はゆっくりと瞼を閉じた。
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