第32話 私

私は35歳だった。まだ若いと言える歳だろう。それなのに私は乳癌にかかってしまった。

きっかけは会社の健康診断だった。発見されたときはステージ4。

乳癌にかかってしまう女性が多いことは知っていた。でもまさか私がなるとは思ってもみなかった。

余命宣告も受けたが、私は泣き喚いたりしなかった。

 


私は変わっているのかもしれない。もっと生きたい、死にたくないとは不思議と思わなかったし、寿命が予め決まっているなら、それに従うだけのことだと割り切った。

何より、幸せに生きてこられたし、一生懸命に頑張って生きてきたと、私は自信をもっていた。



病床に伏せる私には沢山の友人が見舞いにきて、みな泣いていた。特に美世と香夏子は頻繁にお見舞いにきてくれた。会社の上司に同僚、新しくできた友人。みんなが悲しみ、私は幸せ者だと思い、また泣いた。

私は自分のことしか考えていなかったのかもしれない。周りの人たちからどれだけ大切に思われていたのか、私がいなくなったらどう思わせてしまうのか、私は自己満足していただけで、そこまで考えが及ばなかった。



ただ、彼はお見舞いに来てくれなかった。

ううん、彼は私がこんなふうになっているとは思っていないからだ。

もしも、私がこのまま消えていなくなるなら、私は彼にもう一度で良いから会いたいと強く願っていた。



大学生のときに付き合っていた彼は私には特別な存在だった。

優しくて、面白くて、顔が悪くないのにいつも自虐的で、マイナス思考で、正義感が強くて、いつも煙草を吸っていて、なんでもかんでも自分一人で背負ってしまおうとして、でも私には大切な人だった。



彼と私には共通の友人がいた。その人が私たちを結び付けてくれた。

その人は、ある日、突然、何も言わずに逝ってしまい、彼は自分のことを酷く責めた。私はそんな彼をどうして放っておけなかった。どこまで彼の力になれたのかはわからないけど、彼は笑顔を取り戻してくれた。心配だったけど、私はただ嬉しかった。



大学を卒業し、就職してすぐに私は関西に移動になった。彼は関東、私は関西、東と西に別れてしまったが、私は彼との恋が続くと思っていた。

でも、忙しいのか、それとも別に理由があったのかは私にはわからない。だけど、彼は段々と連絡して寄こしてくれなくなってしまった。

多分だけど、忙しいからではなく彼は彼なりに悩み、考えていたのだと思う。

でも、彼の声を聞くことができなくなってしまい、私は彼がいかに自分にとって大きな存在で、そして大切だったのかを思い知り、彼の声を聞きたい、彼に会いたいと願っていた。



就職してから私が病床に伏せるまで、私は同僚や先輩、取引先の男性など、3人の男性から交際を求められた。素直に嬉しかったが、私は「付き合っている人がいる」のではなく「私には好きな男性がいます」と言ってお断りした。

付き合っているのかどうかわからない。だけど、私はやっぱり彼が好きだった。良いところ、悪いところ、全てを含めて私は彼が好きで、私の人生で彼は特別な存在になっていた。



結局、私にとって短くなってしまった人生の中で彼は最後の彼氏だった。

就職しても私たちは付き合い続けると疑いもせず、そう思い、そう信じていた。

ただ、それは叶わない夢になってしまった。

未練だとかそういうものではなく、彼は今、何をしているのかな?と考えた。

ああ、やっぱり会いたいなあ、と素直に思った。

たったの一度で良いから会いたいと願った。




ある晩、私は夢を見た。その夢の中で私は大学生のときの容姿で、見たことのある景色は眺めていた。

私は自分はもう死んでしまったのだと思った。

ただ、足は磁石で吸い寄せられるように歩き出し、彼を見つけた。

彼は大学生の彼ではなく、歳をとった彼だった。そして私は持っていないはずのスマートフォン持っていることに気がついて、画面を見た。そして私がいる夢のような空間が未来だと気づき驚いた。3年先の未来に、なぜか大学生の私がいる。

やっぱり夢だと思った。でも、彼に会いたいと思い、彼に話しかけた。



少しだけ髪が薄くなってしまった彼は狼狽していた。当たり前だと思った。大学生の私が、きちんと歳をとった彼となんの前触れもなく突然再会したのだから。

彼は私のことを娘さん?と言い、そして幽霊と訝しみ、もしかしてタイムトラベラーと混乱していた。

本当は幽霊なのかもしれない。ただ、私がそれを自覚してしまうと本当に死んでしまいそうで誤魔化した。幸い、私の体は透明ではなく、他の人にも認識されていた。

それから、タイムトラベラーというのはあながち間違ってはいないと思った。彼は机の中にタイムマシンを隠しているの?なんて馬鹿なことを言っていたけど。



彼の実家にも十数年ぶりに行くことができた。建て替えたという彼の実家は立派になっていて、落ちたら怪我をしてしまいそう2階への階段はとても緩やかになっていた。私は時の流れを感じずにはいられなかった。

彼は相変わらずゲームが好きなように思えた。でも、少しだけ、他の人からしてみればどうでも良いことかもしれないけど、私は違和感を覚え、そして私には彼が生きるのに疲れてしまっているのが手に取るようにわかってしまった。そして彼が抱えている問題にも気が付いてしまった。



だから私は3年後の世界にいるのかもしれない。

そして彼が一番よく知る私。私もできることなら、その姿で彼に会いたかった。

そして、例えそれが神様の気まぐれだとしても、私はあのときのままの私で会うことができた。



じゃあ、この時代に私が来られた意味はなんだろう、と考えてみた。

彼と話し、彼を見て、彼の雰囲気を知り、私にはテストで山が張った場所が出題されたように、すぐに答えがわかった。

心が弱り、今にも消えてしまいそうな彼と会うには、でなければ手遅れになってしまう。だから、しかなかったのだろう。

でも、私に何ができるのだろう?何か、何かないかな?と考えた。



目が覚めたとき、私はまだ生きていた。見慣れた真っ白な天井。暗い病室。誰も座っていない寂しそうなパイプ椅子。私はまだ生きているのだと確信した。

大丈夫。少しでも時間があるなら、私は彼にできることをしたいと強く願った。彼は「それは自惚れ」だとか「奢り」だと私に言い返しそうだったが、それでも一向に構わなかった。



別の夜、私と彼はシアターにいた。彼はスクリーンに見入っていた。過去の映像が流れ、彼が映り、私がいた。

私は彼の隣に座り同じ映像を並んでみた。彼の手に私の手を重ねても、彼は気づかなかった。それはとても残念なことだった。

彼はときに怒り、ときに泣き、ときに辛そうに顔を歪めていた。

あれは私にとって走馬灯なのかもしれない。そう思いながら、彼と一体どこから映し出されているのかわからない映像を最後までみた。



最後に映ったのは丘公園だった。私が彼に財布をプレゼントをした場所。

私が彼の特別だと知ることができた場所。私にとっても彼は特別だった。

捻くれていても、マイナス思考でも、馬鹿みたいに煙草ばかり吸っていたけれど、彼が私にとって特別な存在で、私は心から彼を愛していた。



エンドロールが流れ、私に関わってきた人たちの名前が次々と表示されては消えていく。そのとき、私は泣いていた。ああ、やっぱり終わっちゃうんだと。

満足できていたはずなのに、仕方がないことだと割り切ったつもりだったのに、私は声をあげて泣いた。



歳を重ねた彼と会えるのが、これが最後だとわかっていた。

私は病床に伏せていたので、彼からプレゼントして貰ったネックレスを持っていなかった。それなのに、彼と再び丘公園で会えたとき、私の首にはネックレスがぶら下がっていた。私はそのネックレスを持っていることが、彼と会うことができる最後の証拠だと確信した。どうしてだろう?ただ、私にはわかってしまった。

私はそれを彼に預けることにした。少しでも彼の人生が良いものになるように願いをこめて。



彼は「また会えるかな?」と私に問い掛けた。

私はその答えを持ち合わせていなかった。

「こればっかりはわからないなあ」会いたいと思いながら、私はそう言うしかなかった。



3年先の彼がどうなったのかは私には知る由もない。

ただ、ほんの少しでも、彼の力になれたら、それで良かった。



大学2年生の終わりから4年まで、そしてどこまで続いていたのだろう?

人生という尺度で計れば、決して長いとはいえない交際期間。それでも、たった数年でも、私は彼を誰よりも愛していた。今まで付き合ってきた誰よりも。



病床に伏せる姿を見せるは嫌だった。それでも、もう一度だけでもいいから彼に会いたかった。

泣き虫の彼のことだ。私を見て号泣してしまうかもしれない。

でも、私はそれを嬉しく思い、「あなたに会えて私は幸せだった」と伝えたかった。




睡魔に襲われて目を閉じる。ああ、眠いなあ、と思う。

私が再び目を覚ましたとき、見慣れた白い天井はもう見えなかった。

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