第19話 ひとつの愛のかたち

 

亜由未は予定通り退院した。松葉杖を持つ姿は痛々しく、俺は大学まで電車で4駅の実家まで車で迎えに行き、帰りも送ることにしていた。

「ガソリン代を要求する」俺の部屋に貼ってあった紙にはそう書かれていた。お袋から書面でガソリン代を請求されるくらい、俺は亜由未を乗せて、亜由未のための足と化していた。



12月中旬にもなると学内には人もまばらで、余程の用がなければ生徒が集まることはなかった。

「だいぶ慣れたね」

「そうでしょ」亜由未は松葉杖を掴んだままピースサインを作る。

「ほら、危ないから」

「ああ、ごめんね」

亜由未は再び松葉杖をおろし、右足出しを軸にしてをするように片足で何回かジャンプをして、感覚を確認している。怪我を負った左足にはまだギプスがまかれている。亜由未はコツを掴みなおせたのか、杖に体の重心を傾け、ゆっくりと慎重に歩き始めた。

カーキ色のロングコートを羽織る亜由未の胸元には俺がプレゼントしたネックレスがぶらさがっている。


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退院当日、亜由未の母親に「ちゃんと送り届けます」と連絡をいれてから、場違いだろうが、なんだろうが、少しのあいだ亜由未と苦楽をともにした病室でプレゼントを差し出した。

「どうしたの、これ?」綺麗にラッピングされた箱を見て亜由未は驚いた。

「快気祝いなのか、退院祝いなのか、とにかく亜由未へのプレゼント」

「だって私は何も用意していないし、それに・・・」

「気にしないでいいだんよ。俺があげたいだけだから」

「本当にありがとう。ねえ?今、空けてもいいかな?」

「それはもちろん」気恥ずかくなる。亜由未は丁寧にラッピングを剥がし、長方形の箱をそうっと開けた。

「ネックレス?」亜由未は俺に質問を投げ掛けたが、首を縦に振っただけで詳しくは答えなかった。

「あ、ここにハートがある。可愛いなあ」

「気にいってもらえたら良かった」

「本当にありがとうね」亜由未は心の底から喜んでいるような表情を浮かべ、俺も安心して胸を撫でおろした。


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亜由未の横に着き、亜由未が転ばないように周囲に気を配る。

「プレゼントしておいてなんだけど、俺は身につけないかと思っていたよ」

本当は病室で亜由未が箱をあけて、その場で亜由未の首にネックレスをつけてあげるのが恋愛のセオリーなのかもしれない。ただ、そんな器用なことはできないし、亜由未も大事そうに箱に戻してしまったので、俺としてはどうしたらいいかわからかった。「つけてよ」なんて強要できるわけもない。

だから、俺は亜由未がペンダントを見につけてくれているのかがわからなかった。

だが、俺の不安は昨日で解消していた。


昨日、その日の卒論のノルマを達成した俺たちは、車で亜由未の家まで着き、俺が先に外へ出て助手席をあけ亜由未の体を支えて降ろすと、亜由未は「ちょっと待っててね」と松葉杖を車にぶつけないように気をつけて降りると、ぴょんぴょんとと急いで玄関へ向かった

ドアを開け、またすぐにドアが開く、亜由未はコートを脱ぎ、中に着ていた紺色のセーターの胸元に手をいれ、俺がプレゼントしたネックレスを取り出した。

「見て、ちゃんとつけているよ。本当にありがとう」

夕闇の中の嬉しそうな亜由未の笑顔と小さなハートが二重に重なり、温かくて優しい輝きを放っているように見えて、俺はつい見惚れてしまった。



「いや、なんだか勿体なくて」照れくさそうに笑う亜由未を見て、やっぱり俺はこの女性が好きなんだと再確認した。

亜由未は目が大きくクリクリとしていて、表情が豊かに富んでいた。可愛らしい顔立ちの亜由未が驚き、笑い、ときには怒っている顔、それぞれに魅力があり、それらを含め、外見だけではく横山亜由未という女性に魅かれていた。



歩く亜由未の髪が少し前後に揺れる、亜由未は髪形をはショートボブに戻さず、俺の要望に応えてくれているのか、手入れをしながら伸ばしているようだ。

「本当に人がいないね」

「亜由未だって事故に遭ってなければ、とっくに卒論を提出して来ていないはずだよ」

「うん、多分ね」

極力、事故という言葉を使わないように気をつけていたが、何かの弾みでどうして出てきてしまう。



千葉に会う確率はかなり減っていると思っていた。母親が現金を持参して謝罪に訪れたことだって伝わっているはずだ。仮にこちらの姿を見つけても声をかけてくることはないだろう。

亜由未も千葉のことを口にしなくなった。俺に気を遣ってくれているのが手に取るようにわかった。でも、それで良かった。



もし、千葉と会ったら俺はどんな顔をするのだろう?

香夏子の言葉が頭にこびり付いて離れない。

ただ、香夏子は別におかしなことは言っていない。オブラートに包まなかっただけだ。不必要な情報だったかもしれない。知らなくても良いことだったのもしれない。

しばらく頭を悩ませたが、結局のところ、俺は知ってよかったと香夏子に感謝した。



このことが後々になって、何かしらの形で露見したら、俺は平常心を保っていられたかどうかもわからない。亜由未の関係はヒビ割れで済まず、木っ端みじんに砕け散ったかもしれない。

ヒビが割れたら、接着剤で割れないようにくっ付けるだけのことだ。但し、砕け散ってしまったら、もはや修復はできないだろう。

それは気持ち次第で、間違いなく俺は接着剤を手にとり、関係を続けようとした。

そもそも亜由未のいない生活なんて想像できなかったし、したくもなかった。



「おっとと」亜由未が態勢を崩し、俺は慌てて亜由未を抱きとめた。

「ごめんごめん。慣れたつもりでもやっぱり難しいね」

亜由未の体に触れるたびに、やるせなくなる。

もし、亜由未を抱くことができたら?と思わずにはいられない。



怪我を負った亜由未にそんなこと言えるはずがない。そのまま「亜由未とセックスしたい」なんて言えるわけがない。

ただ、もしも亜由未を抱きしめることができたら・・・

夜をともに過ごすことができたら・・・

俺は亜由未から千葉との思い出を、千葉との過去を、千葉の匂いを、千葉の存在を、亜由未から千葉に関する何もかを忘れさせることができるかもしれないと思うようになっていた。

そのとき俺は必死になるだろう。初めて経験するようにうまくやろうとして失敗する、アダルトビデオで知識を得た知ったかぶりの童貞になっているはずだ。



「どうしたの?何か考え事」前方から亜由未の声が聞こえる。

俺は亜由未の態勢を元に戻ししてから一歩も進んでいなかった。

「いや、なんでもない。それよりも手伝うから今日も頑張ろう!」

「おー!」亜由未は松葉杖を空高く持ちあげた。

「だから危ないって」俺は急いで駆け寄った。



互いが裸で抱きあい、肌が触れ合うことに悦びを覚えることが愛情を確認する1つ方法だとしたら、俺はすぐにでも亜由未を求めるだろう。

ただ、俺も亜由未もそれほど性に関心を抱かなかった。

勿論、その行為に快楽と悦びを感じた。ただ、俺は亜由未の裸を見るよりも、愛らしい亜由未と話し、2人で出かけることのほうが好きだった。

しかし、3か月近く亜由未と体を重ねられないことにもどかしさも感じていた。

香夏子の言う通りだ。何も不自然なことはない、至って健全だ。



「ほら、また止まってる。置いていっちゃうよ!」

「ごめんごめん」駆け足で亜由未へ近づく。これだけ近くにいるのに手を握ることさえできない。

「どうしたの?」

俺は倒れないように亜由未を後ろから抱きしめた。今はこれが精一杯だ。

「なんでもないけど、理由なんかなくてもいいんだ」

「私は動けないけどね」と微笑む亜由未を、俺は心の底から愛おしいと思った。



なんとなく大学に入り、なんとなく大学生活を過ごし、なんとなく就職先を決めた。ただ、亜由未と出会えたことは忘れない。運命や奇跡とかと言った安っぽい言葉で済ませたくなかった。

できることなら、この先もこのまま続けばいい。なんとなくではなく、大切と思える女性と一緒に。

 


               ✦



涙が溢れ出て止まらない。残念ながら座席に座り、パジャマ姿の今の俺には煙草もなければハンカチも持っていない。

仕方がないのでパジャマ代わりのTシャツで涙を拭う。

亜由未と再会したとき、俺は過去と向き合おうとしなかった。

もしまた亜由未と会うことができたら、俺は「幸せだった」と断言できる。

君と会うことができて、君と同じ時を過ごすことができて。

大変なことはあったけど、君に救われた、と。

時計の針は指で戻すことはできる。物理的ならばどうにできる。だが手で触れられない現象には為す術がない。それができるのは神様と呼ばれる人智を超えた存在だけだろう。

わかっている。わかっていても後悔せずにはいられない。


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