第18話 知らなくても良いことはある
突然の登場に三人の視線が俺に集まる。
「どうしたの?忘れ物を取りにいくんじゃなかったの?」亜由未は至って平静を装っているように見えた。
「ああ、ちょっとね」
「なんだか、吉田君が聞きたいことがあるみたいだよ」パイス椅子に腰を下ろし、サイドヘアをゆるくポニーテールにしている女性が答える。
「吉田の声が小さくて聞こえなかったんでしょ?」窓際に凭れかかり、スマートフォンを手にし、キャップを深く被った女性が俺を一瞥してから、亜由未を見る。
「なんか、吉田が聞きたいことがあるらしいよ、亜由未にか、私たちにか、それはわかんなけいどさ」
「博司くん、美世と香夏子、わかる?」
「どうも」と答えたのはパイプ椅子に座っている女性、この子が
「そうだね、久しぶりだから忘れられていそうだし」身長が170センチはあるだろう。キャップにおさまらない髪の毛が背中まで続いている。亜由未の説明を聞く限り、彼女が
なるほど、亜由未も含めて、この3人が高校時代からの付き合いというわけか。
「それでどうしたの?何を聞きたいの?」美世は静かに、そして確認するように俺に問い掛けてきた。
「ああ、そのことなんだけど」言い淀む。ただ、手ぶらで戻ってきた以上、もう覚悟を決めるしかない。
「当ててみようか?」香夏子が横やりをいれる。
「千葉のことでしょ?」
大切な試験を前にして緊張をほぐすように呼吸を整える。
「そう、そのこと。あいつのことで知っていることがあるなら、教えて欲しいんだ」
「なんで、どうしてここで千葉君のことが出てくるの?」亜由未が動揺しているのが見てとれた。
「それで、千葉の何を聞きたいの?」香夏子は持っていたスマートフォンをジーンズのポケットに押し込んだ。目をキラキラさせている。もしかしたら面白がっているのかもしれない。
「千葉のことを俺は嫌いだけど、千葉が俺を嫌っているのもわかる。でも、千葉がどうしてあそこまで俺を敵視するのか、その理由を知っていたら教えて欲しいんだ」
「あーそれね」香夏子は美世と顔を見合わせ「亜由未、吉田に話していないの?」と香夏子は少し驚いた表情をした。
「別に隠すとかそんなんじゃなくて、知らなくても良いことだし、言うことでもないし・・・」亜由未の返答がしどろもどろになり、美世はフォローをいれるように
「まあ、別に話さなきゃいけないようなことでもないしね」と震えそうな亜由未の手を握った。
「亜由未、俺はできることなら知っておきたい。いや知りたいんだ」
返答はない。亜由未は美世が握った手を放さず、俯き、気まずそうに視線をあげようとはしなかった。
「すごーく簡単に言うと、千葉は完全に逆恨みしているの。吉田に亜由未を寝取られたと思いこんでいるだけ。まったくキモイよね」
「ちょっと香夏子!」いち早く反応したのは美世だった。
「亜由未と吉田君の前で、軽はずみにそういうことを言っちゃダメだよ」
寝取られたって何だよ?思考が追い付かない、どういうことなんだ?
「でもさ、この際はっきりしたほうがいいよ。吉田だって、ずっと気になっていたんでしょ?」
「ああ」声が低くなる。もう片足だけでなく両足を突っ込んでいる。何か納得できる答えを貰えるまでは動けそうになかった。
「亜由未は千葉と付き合っていたんだよ。大学に入ってすぐだから、何年前だ?」香夏子は病室の天井を見上げ、えーと、と暗算でもするように目を閉じた。
「付き合うって、そういうのじゃ・・・」亜由未の否定は尻窄みで、後へ続かない。
「いや、付き合っていたでしょ?例え、3か月やそこいらでも」香夏子は過去へ遡るのを諦めたのか、瞼を開き、確認をするように亜由未を凝視した。
「香夏子、いっぺんに話してたら吉田君が混乱するだけだよ」美世は亜由未の手を握ったまま離さないでいた。
亜由未のことで話しているのに、本人が蚊帳の外。いや、敢えて発言を控えているのかもしれない。
「吉田君、誤解がないように言いたいんだけど、確かに亜由未が千葉くんと付き合っていたよ。でも、ほんの少しだけ。もう昔の話だから」
「でもセックスはしたんでしょ?」
「それは・・・」亜由未はどう答えたらいいのかわからず、俺に一度だけ視線を合わせると、バツが悪そうにすぐに逸らした。
「香夏子はデリカシーって言葉を覚えたほうがいいよ。私はもう慣れたけど」美世は残念そうに溜め息を吐いた。
「別に年頃の男女が付き合ってセックスをするのは何もおかしくはないでしょ?健全だよ、むしろしないほうがおかしいって」香夏子は更に続ける。
「吉田だって亜由未とセックスしたんでしょ?」
「ちょっと香夏子」美世の静止を振り切るように香夏子は口を動かし続ける。
「吉田、まさかとは思うけど、付き合う女の子が初めての相手じゃなきゃ許せないとか、変な妄想や願望を抱いていないよね?好きな女の子が処女じゃなかったらショックを受けるとか?」
「まさか!俺だって亜由未が初めての彼女じゃないし、今まで付き合っていた子だってある程度の経験は・・・」俺は病室で何を言っているのだろう。途中で話すのを止めてそのまま黙りこんだ。
「もういいよね、亜由未」美世は握っていた亜由未の手を優しく振りほどいた。
「吉田君、いきなりで混乱しているのはわかるよ。でもね、物事をごちゃまぜにしないで。亜由未と千葉くんが付き合っていたのは前の話。吉田君にも彼女がいたのと同じ。でも、今、亜由未はあなたと付き合っている。過去は過去、今は今、それだけのことなんだよ?」
「吉田はさ、千葉に振り回されすぎなんだよ。あんなんだから亜由未にも愛想をつかされたのに、あいつはまだわかっていないみたい」香夏子は苦虫を嚙み潰したような顔で、ペットボトルのコーラーを勢いよく飲みはじめた。
「あのさ、この話ってどれくらいの人が知っているの?俺は初めて知ったんだけど」
「うーん、どうだろう?数は多くないと思う。なんせ3年くらい前のことだし、みんなにとってはどうでもいいことだと思うから、覚えている人のほうが少ないんじゃないかな?」美世は至って冷静に答えた。
亜由未は・・・一言も発さず、祈るように両指を絡ませ、穴があくのではないかと思うほど一点を見つめていた。
「私はこれで良かったと思っているから」
「香夏子、もうよめようよ」
「だって吉田は逆恨みされているだけだよ?その原因を知りたいと思うは当たり前のことじゃん」
興奮している香夏子を宥め、美世と香夏子は病室を出ようとする。
「吉田君、こんなことが原因で亜由未を傷つけたら私は許さないから」
「吉田、私も美世と同じ。千葉なんかのことを気にして亜由未のことを傷つけたら、あんたのことを絶対に許さないから」
二人は釘を刺すようの険しい表情で「わかった?」とでも言いたげに病室を後にした。
「香夏子、もう少し考えてから口に出そうね」
「なんで?」
二人の声が遠ざかる。病室に残された俺と亜由未は二人して黙ったままで、沈黙が長ければ長いほど、俺は針でチクチクと刺されているような錯覚を引き起こした。
「あのね・・・」沈黙を破ったのは亜由未だった。
「別に隠すつもりはなかったの。深い理由はないの、本当に」亜由未は堰が切れたように次々と言葉を重ねた。ただ、表情は曇り、せっかく元気になってきたはずなのに生気が吸い取らているように見えた。
「博司君が千葉君を嫌っているのは知っていたし、でも千葉くんは別れたはずなのにいつまでもヨリを戻したいって」
「だからって、なんで千葉なの?よりにもよって・・・」
ゆっくりと亜由未に近づく。ゼンマイがきれそうな玩具のように、ゆっくり、ゆっくりと。
「ふう」と俺は溜め息を吐き、ベッドの横でなく、美世が座っていたパイプ椅子へ倒れるように座り込む。
「軽蔑している?」
「そういうわけじゃないんだ。亜由未を軽蔑することじゃないよ」
「ただ・・・」
「ただ?」
「ショックが大きすぎて、うまく整理できていない」
「ごめん」
「いや、謝ることじゃないんだ」
会話のキャッチボールは続かない。暴投しているからではない。飛んできた球を念入りに確認して投げ返さないからだ。
「今日はこれで帰るね」俺は立ち上がってパイプ椅子を畳む。
「うん」亜由未は力なく首を縦に振った。
「また・・・また明日くるからさ」
「え?」
「大丈夫、俺も少し混乱しているだけだから。明日までになんとかなると思う」
何の確証もなかった。ただ、このままではいけないとこだけはわかっていた。
「色々考えちゃうかもしれないけど、俺はやっぱり亜由未が好きだから」
亜由未の顔は、まるで新しく電球を付け替えたときのようにパッと輝き、やがてその瞳から大粒の涙がとめどなくあふれ出た。
「最近、泣く回数が増えてない?」正直に言うと俺も一緒になって泣きそうだったが必死に堪えていた。
「ありがとう、ごめんね」俺はハンカチで涙を拭うと、亜由未は目を赤くして微笑んだ。
「また明日ね」
「うん、また明日」
泣き虫の二人は一度だけ唇を重ね、我慢で耐え切れなくなっていた俺は亜由未と同じように目を赤くして、「また明日ね」と亜由未に手を振って病室を後にした。
✦
若いっていうのは難しいことだらけだ。ただ、人と距離を置き、関わろうとしなくなった今の俺にはすこしだけ羨ましい。
あの日のことは忘れようにも忘れなれない。俺は帰宅して、亜由未が千葉に抱かれている姿を想像して発狂しそうになった。家の柱に頭を打ち付けてやろうかと本気で考えた。
良いことは忘れるくせに悪いことばかり覚えている。それは今も昔も変わらない。
マイナス思考だから今の俺はこうなってしまった、と自覚もしていた。
寛容、寛大、笑わせるな。無理だ、そんなことは。
俺は聖人君子ではない。多分、この世に生きるほとんどの人がそうなんだろう。
達観でも悟りでもない、これはただの諦観だ。
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