第17話 パブロフの犬
「入院生活はどうだった?」
「そんなこと、聞かなくてもわかるでしょ?」
亜由未の退院まで、あと三日。亜由未の髪の毛は襟足が伸びて、ショートボブからセミロングと呼んでもいいように見えた
「あともう少しの我慢だから。あのさ、亜由未には今の髪形も似合っていると思うよ」俺はパイプ椅子ではなく、亜由未が足をぶらぶらさせているベッドの横に腰をおろした。
「足、気をつけてね。あんまりブラブラさせているとぶつけるよ」
「ああ、ごめんごめん」亜由未はブランコのように揺らしていた両足を止めた。
「それでなんだっけ?」
「だから、俺は今の髪形も好きだよってこと」
「ありがとう」亜由未は臆面もせずに褒めたことに照れたのか、俺にはにかんで見せた。
「やっぱり気にいらないの?」
「ううん、そうじゃなくて髪の毛がなかなか洗えないから、もうあちこちがぼさぼさだよ」亜由未は手元に置いてあった櫛を持つと不満げにとかし始めた。
千葉の母親が来訪したことは亜由未に伝えておいた。まだ卒業していない。ある程度の情報交換は必要だと思っていた。ただ、亜由未が入院中に千葉と会ったのか?それを聞くのが怖くて、敢えて知らんふりをしていた。まるで興味がないように。
千葉が退院したのを見計らって、看護長にきちんと謝罪した。看護長からは「今回だけは目を瞑りますが、次はないですからね」と厳しく言い付けられた。ただ、自業自得とはいえ、会えない期間は長くなってしまった。亜由未だって手術が怖かったはずだ。不安もあったはずだ。俺だって、できることならば毎日見舞いに行きたかった。
「傷痕はやっぱり残っちゃうの?」
「うん、ほんの少しだけね」亜由未はベッドの端にかけてある松葉杖を手に持ち、床をコンコンと叩いた。
懸念はしていたが、やはり事故のせいで消えない傷を負ってしまった。俺はバイクで事故にあったときに大怪我を負い、手術の痕が痛々しく残っている。縦に15センチほどあり、男だから「まあいいや」とさして気にも留めなかったが、これがいざ自分の大切な女性となると話は別だ。
傷なら千葉に残ればよかったんだ。戒めとして。
「ほら、また怖い顔をしてる」
亜由未に指で頬を突かれる。「ごめん、本当に無意識なんだ」
まるでパブロフの犬だ。千葉が絡むと過剰に反応してしまう。悪い癖になっていた。
「でも、こうやって無事に退院できて良かったよ、色々あったからさ」
「うん。でも博司君だけじゃない、みんなに迷惑をかけちゃった」亜由未も人のことは言えない。自分が悪いということ口に出すことが多くなっていた。
亜由未が自省して黙りこんでしまうと空気をやけに重く感じた。何をどう話せば良いのかわからない。亜由未へのプレゼントは用意したものの、どのタイミングで、何と言って差し出せばいいのか?そのことにも俺は頭を悩ませていた。
「博司君、もうすぐクリスマスだね」
「そうだね」12月中旬はどこもかしこも赤と緑のコントラストで溢れかえり、サンタクロースは絵となり、人形となり、あちらこちらに出没していた。
「何か欲しいものってない?」
「いきなりどうした?それに随分とストレートに聞いてくるね?」
「それで何かないの?」
「うーん、別に何もないかな」本心だった。亜由未が事故に遭うまでは色々と考えていた。ただ強請るのも何か違うし、ただ亜由未とクリスマスをどう過ごそうかと、そのことばかり考えていた。
「何かあるでしょ?ほらプレステだっけ?博司君ゲーム好きでしょ?」
「いや、クリスマスプレゼントにゲームを買ってもらうとか、それって親子みたいじゃない?」
「それはそうだね」と亜由未は楽しそうに笑った。
「あれ?車に忘れ物をしてきたいだ」棒読みにならないようになるべく自然を装ったが「なんか怪しいなあ」とすぐにバレた。俺はポーカーで負けるタイプだと自覚していたが、自分でもさすがに演技が酷すぎるとは思っていた。
「ただ、忘れ物は本当だよ」いつ渡せばいいのかわからなかったので、お袋から借りている車のダッシュボードに亜由未へのプレゼントを常に入れていた。
お袋に見つかる可能性は大いにあったが、そんなことは二の次で、亜由未に会うときは手の届くところの置いて置きたかった。
「ついでにジュースでも買ってくる。何がいい?」
「じゃあ、温かいレモンティーがいいな」
「了解、ちょっと待っててね」亜由未に手を振りながら病室を出る。
結局、亜由未は最後まで個室だった。病院にも都合があるのだろうが、保険適用で退院まで個室でいられるというのは特権のようなものだった。
亜由未からプレゼントの話を持ち掛けられたとき、今を逃す手はないと思った。
亜由未はどんな反応をするのだろう?喜ぶだろうか?それとも遠慮をするだろうか?
大切な女性に贈り物をするとき、高揚感と少しだけ不安に駆られる。
大病院というだけあって駐車場まで往復すると結構な時間がかかる。俺は一度スマートフォンを取り出して時間を確認する。15時40分、大丈夫だ、まだ時間は充分すぎるほど残っている。それでも自然と急ぎ足になる。
エレベーターに近づく。タイミングよくドアは開き、中から見たことのある2人の女性が姿を現した。
「あれ?吉田くん」
「本当だ、吉田だ」
亜由未の友達だ。名前が出てこないのは単純に俺がこの2人が苦手だったからだ。
「亜由未はいるよね?」
「うん」
「で、吉田はどこにいくの?」
「ちょっと駐車場まで」
「ここって駐車場まで歩くよね?」
「そう、それに料金もやたらかかるし」
よく喋る二人だと思う。俺がこの二人を苦手としていたのは、口が悪いのとやたらと騒がしかったからだ。
亜由未には話したことがあった。正直に「あの2人がちょっと苦手だな」と。
だが、亜由未は怒りもせず「まあ、人それぞれだから仕方がないよ」と苦笑した。
「でも、私には2人とも大切な友達だから」亜由未はそう付け加え、実は高校からの付き合いだということも教えてくれた。
「それじゃあ、俺は駐車場まで行くから」
亜由未の大切な友達に無下に扱うことはできない。精一杯の作り笑顔で2人が降りてからエレベーターに乗り込む。
「行ってらっしゃーい」
「外は寒いよー」お気楽な声で送り出される。
「うん」俺は返事を短く返した。
ドアが静かに閉まろうとした、その隙間から
「千葉もここに入院してたんでしょ?」
「だって、そもそも千葉君が運転して事故ったんだよ?」
「つくづく縁があるねえ、亜由未と千葉は」
「私は嫌だけどね、そんな縁は」
悪寒が走り、両腕で体を抱え込む。ぞわぞわと何かが蠢いている錯覚を起こし、
両足は疲労で悲鳴を上げたようにガクガクと震えてるいる。
閉まってしまった扉をこじ開けたくなる衝動に突き動かされ、咄嗟にドアに手を置く。
本当に偶然だろうが、千葉の話を聞いてしまった。それだけだ。それなのになんなんだこの嫌な感じは。パブロフの犬ではない、これはアレルギー症状に近い。
下へさがるエレベーターが再び無重力になる感覚を覚えさせる。
ああ、やっぱり気持ちが悪いなあ。ハンカチで口を覆う。
気になって仕方がない。そもそも亜由未の友人がいるときにプレゼントを渡すチャンスなんてあるのか?
思えば全てが言い訳だった。単純に気になって気になって仕方がなかった。3人で何を話すのかが怖くてたまらなかかった。
エレベーターのボタンに『絶対に押さないでください。押すと大変なことになります』と警告文が貼られているのに、好奇心が疼き、善人の仮面を被った悪人が本性を表したかのように、俺は1階に到着したエレベーターから降りずに、迷うことなく、もう一度4階のボタン押した。
エレベーターに乗り込むと④のボタンを連打する。そんなことをしてもスピードは変わらないが、気が急く。
盗み聞きするくらいなら、声に出して、直接聞けばいいだけのことだ。
呪文のように繰り返す、寛容、寛大であれ、男らしく、嫉妬はみっともない。
自分に自信がない証拠だった。せっかく全てがおさまりつつある。大丈夫、大丈夫だと自分に言い聞かせる。
エレベーターが到着すると、俺は頼まれたレモンティーも買わず、すたすたと病室へ向かった。
「それマジ?」
「本当だって」
「2人ともここは病院だから、もう少し静かにね」
部屋の外でも声が聞こえてくる。亜由未の言う通り、病院ではお静かに、だ。
ふう、意を決してドアを開く。
「ごめん、ちょっといいかな?」
「あれ、吉田くん、随分早いね?」
「それとも何か忘れ物したの?忘れ物だらけだ」
「・・・」何も言わず、気まずそうにしている亜由未と目があう。亜由未は俺の表情で何かを察してしまったのかもしれない。だが、もうここまで来たら聞くしかない。例え、聞かれたくないことだとしても。
「ちょっと、教えて欲しいことがあるんだ」と言いながら、俺は後ろ手でドアを閉めた。
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