第16話 母親

千葉は退院したらしい、というのも俺は千葉と関わらないようにしていたので、そのことを真紀から聞いた。

千葉のほうから接触してくるはずもない、俺もそれでいいと思っていた。

風向きは千葉に有利に吹いている。ここでまた揉めると俺は完全に学内の嫌われ者になるだろう。それでも一向に構わなかった。



亜由未の退院の日が決まり、事故の後処理も粛々と進み、順調と表現して良いのかわからないが、とりあえず俺にとってはストレスに悩まされず、穏やかな日々が戻りつつあった。



そんなある日、千葉の母親は我が家を訪ねてきた。

「なんの用ですか?」つっけどんな対応をする。何をしにきたのかわからないが、嫌な予感だけはしていた。ただ、千葉の母親は俺の予想を裏切った。

「この度は息子がご迷惑をお掛けして大変申し訳ありませんでした」

インターホンのカメラ越しに深々と頭を下げている女性が見える。この人が、千葉の母親なのか・・・カメラ越しに見える千葉の母親はやつれているように見えた。

勿論、初対面なのでいつも通りなのかもしれないが、息子に散々迷惑をかけられた俺にはしてみれば、この平身低頭の女性が、未だにきちんとした謝罪をしない千葉と親子であるという事実がどうしてもピンとこなかった。



「中へどうぞ」俺は玄関のドアを開け、千葉の母親は「よろしいんですか」とおどおどしていたが、「目的は事故のことですよね?」とこちらから声をかけると「そ、そうです」と答えたので「だったら中で話しましょうよ」と促した。



俺は来客用のスリッパを用意する。「どうぞお上がりください」

「すいません」失礼します。千葉の母親は神社で参拝するように、丁寧にお辞儀をして履いていたパンプスからスリッパへと足を入れ替えた。



無警戒というわけではなかった。なにせ、千葉という男には嫌というほど迷惑をかけられた。千葉の母と名乗った女性も家に招き入れたら豹変するかもしれない。一抹の不安を抱きながらも、俺はお茶を煎れて、正座でうなだれている千葉の母親の前に差し出した。

「すいません。ありがとうございます」と言いながらお茶に手を付けようとはしなかった。



「それであの・・・」千葉の母親は手にしていたハンドバッグから銀行の封筒を差し出した。

「ええと、これは?」

「遅くなって本当に申し訳ありません。どうぞお収めください」

好奇心と猜疑心が入り混じりながら、俺はおそるおそる封筒を手に取る。重い、現金で給料を支給されたサラリーマンのように片目でそっと中を覗き見た。



「足りないかもしれませんが、今お支払いできる精一杯の金額です」

封筒の中にはピン札で100万円も入っていた。俺は予想していなかったので封筒を落としそうになり、両手を慌ただしく動かして封筒をキャッチした。



「いや、さすがにこれは・・・」緊張で唾を飲みこむ。

「いえ、ご迷惑をおかけして、吉田さんの車を駄目にして、おまけに入院代も吉田さんの保険で補っていただいて・・・足りない分はもう少しお待ちください」

「いえ、だから、うーん、どうしたらいいのかな?」

確かに保険の等級はかなりあがり、金額もかなり増えた。保険会社にしてみれば信用できない加入者ということだ。



「新しく車をご購入する予定ですか?」

「そのことなんですが」俺は保険会社とのやり取りを話した。

事故で自損した場合、適応額は市場価格が反映されること。要するに俺の壊れてしまった車は中古で、しかもかなり安く購入した。だから、市場価値はほとんどない、千葉の母親には正直にそう伝えた。

仮に修理したとしたら、購入額の倍以上かかるだろう。修理はできない、かといって同じような車が手に入るか?というとそれもかなり難しかった。



千葉の母親は俺の話を聞き終えると動揺していた。

「車を弁償できないうえに入院費まで補っていただくとなると、あとお幾らお支払いすれば・・・」俺に尋ねているのか、独り言を呟いているのか、顔色がどんどん悪くなっていた。



「正直にお話しすると、今回、千葉っていっても息子さんにはとても迷惑をかけられました」

勝手に運転されて、違反をされ、亜由未を巻き込み、病院での俺に対するあの態度。到底許せることではなかった。

「ただ、卒業まであとわずかです。変なを残したくないんです」

「それはどういうことでしょうか?」

「簡潔に申し上げると、できることなら僕は千葉とは関わりあいをもちたくないということです」

千葉の母親はショックを受けたのか、それとも当然だと思ったのか、俯いて黙り込んでしまった。

俺は構わず進める「だから、できる限り最小限で済ませて、後になってこの事をぶり返したくないんです」

「じゃあ、私はどうすれば・・・」

俺は自分なりの解決策を見つけていた。



「さすがにこんな大金は受け取れません。ですが、最初に買った車の金額だけ頂ければそれで構いません」

「ちなみにそれはお幾らだったんですか?」

「えーと」後頭部を右手で掻く。本当は保険代やら何やら混みで31万近くかかったはずだ。でもそれだと持参してきた50万の半分以上を貰うことになってしまう」



「車の購入代は諸々混みで20万です」嘘を吐く。

「え?」千葉の母親は驚いた様子をみせた。

「だから、ここから20万いただいで、病院代とかそういうのはもう無しでいいですから」

「でも、それでは・・・」

本当にこの人は千葉の母親なのか?と疑いたくなる。息子は遺伝子を操作されたのでないかとさえ思った。

「いえ、それでいいんです。そもそも学生が車を持つなんて分不相応だったんです」

本音をいえば、100万円丸々貰っても良いくらい迷惑をかけられた。足りないとさえ思ってしまいそうだ。それに大学生が自分の車を所持していてもおかしなことはない。



ただ、嘘を吐いたのは明確な理由があった。そもそも悪いのは千葉本人であって母親ではないからだ。

「それともう一つお願いしたいことがあって、一筆いただけませんか?この事故のことで後々揉めないように、これで解決しました、という旨の証拠を頂きたいんです」

「それは構いませんが、本当にそれで宜しいんですか?」

「はい」借金取り紛いのことをこれ以上続けたくなかったし母親が息子のことで苦しむ様を見るのも嫌だった。



即席だが、大学ノートを持ってきて、受け取る金額を書き、受け取りましたという文章と、今後事故のことは互いに関与しませんと俺と千葉の母親が記入し、印鑑をもってきていなかった千葉の母親には指印をしてもらった。



「本当にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

千葉の母親はドアを開け、外に出ても何回も何回も深々と頭を下げ続けた。

俺は何も言わず、同じように頭を一度だけ下げると室内へ戻り煙草を持って、もう一度外へ出た。母親の姿は見当たらない、帰ってくれたようだ。

こういうのは嫌だな・・・悪くはないのに良心の呵責に苛まれるようだ。



千葉の両親は、千葉が中学生のときに離婚しているらしい。だからといって息子があそこまで性質の悪い人間に成長しては良い理由にはならない。

まあ、家庭内に複雑な事情がなくても暴走族に入る奴もいるので、一概に家庭環境がその人の人となりを形成するとは思っていなかったが、千葉に関しては異常性を感じていた。



びゅうう、冷たい風が容赦なく体を通り抜ける。もう11月も終わりだ。どうりで寒いわけだ。

風向きは変わるだろうか?いや、そんなことはもうどうでもいい。これで諸々のことは片付いた。

千葉の母親に「学内では俺ではなく千葉がみんなから心配されていますよ」となんて言ってしまったら最悪だな。俺は底意地の悪いことを考えながら、灰皿に捨てた煙草の火が消えているのを確認し、秋の終わりの寒さで体が冷え切る前に部屋へと戻った。

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