第7話 直視
亜由未が帰り、夕飯を食べ終えると猛烈な睡魔に襲われた。夜勤の仕事をしているとわけのわからない時間にやたらと眠くなることは頻繁にあった。
ベッドで横になり少しだけ目を瞑る。いくら眠いとはいえまだ20時半だ。俺はテレビをつけたまま、少しだけ眠ることにした。
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ふと、目を覚ます。今は何時だろうと思い枕元に置いてあるはずのスマートフォンに手を伸ばすと木の感触が肌に触れる。上半身を起こして確認する。うん?ここはどこだ?寝ぼけているのか?
ああ、わかった。これは大学のあちこちに設置してあった木造のベンチだ。
何回も、何十回も見たことのある景色が広がる。また夢か・・・と思いながら違和感を覚える。景色が余りも鮮明過ぎる。全てが色づいている。細部にもきちんと色が付いている。モノクロではなくフルカラーだ。自分の着ている服が、部屋で横になったとき着ていた家用の半そでTシャツに七分丈のスエットを穿いているせいか現実と過去の境界線が見つからない。
俺の前を女子二人組が「なにそれ?」「笑えるでしょ?」と言いながら楽しそうに歩いてくる。俺は自分が着ている服が家でパジャマ代わりに着ているようなものだったので慌てて両手で体を覆い隠した。目が合わないように視線を下ろす。ところが、その二人組の女子は意にも返さないように歩みを止めず、こちらに一度も視線を送ることなく通り過ぎて行った。
夢は夢でも、あのときの夢とは違う。空を見回す。空は茜色に染まり、いつからあったのか気が付かなかったが、イチョウの葉が足元を覆いつくしていた。
夢の中のはずなのに頭が異常に冴えてくる。ああ、あのときのことか、と察した。
そうだとすると今のこの景色は11月半ばのはずだ。そう気づいた途端、ベンチに座ったまま景色が暗転もせずにいきなりテラスのある食堂へ移る。せわしなくて目が回りそうだ。
いる。やっぱりか・・・俺がいる。正しくはあのときの俺だ。
ということはここから先、見たくもない光景を見せられることになる。パジャマのような恰好をしている俺から、苛立ち気味でスマートファンの画面をにらめっこしている、あの時の俺から目を背けた。
目を背けた先にいた茶髪でストレートヘアの女の子が「もういいじゃないですか、吉田先輩」とスマホに八つ当たりしている俺を宥めている。
この子を俺は知っている。それなのに名前が出てこない。ただ、覚えていることは亜由未と付き合っていることを知っている上で俺に好意をもっているとストレートに気持ちを伝えてきた女の子だ。
見たこともあり、俺の人生に深く関わっていたことは間違いない。
ああ、思い出した。あの子は真紀だ。俺はなんでこんなことまで忘れてしまったのだろう。歳をとりすぎたのか、思い出そうとしなかったのか、その両方かもしれない。
「全く、何をしているんだか!」苛ついている自分の姿を改めて見るというのは、恥ずかしいというより情けなくなる。
「食事に行くくらい問題ないんじゃないですか?」
「いや、でもさ」
このとき、亜由未は亜由未のことを好きだと公言していた千葉という奴と二人でいた。卒論で必要な資料を取りにいくと亜由未に、同じゼミの千葉が「俺も必要だから一緒に行こう」と強引についていったいた。
亜由未は大学3年生のときに免許を取得していた。車の保険も念のために家族限定を解除しても亜由未が運転して、万が一事故が起こして保険が適用されるようにしていた。だから、このとき亜由未に車を貸して欲しいと頼まれたとき、心配はしたが俺は車を貸すことができたのだ。
「ごめんね、博司君。なるべく早く帰るから」
「どうにもできないの?」
「うん、無理っぽい」
「亜由未も千葉のことをよくわかっているよね?」
「うん」
「もしもし、吉田か?」
「なんでお前が亜由未の電話に出てくるんだよ?」苛立ちがピークに達しそうだったのは覚えている。
「お前さ、亜由未を好きだってあちこちで言いまくってさ、何で普通についていくの?しかも俺の車で一緒になって。お前さ、本当にどうかしているぞ!」
俺が忌々し気に机をコンコン叩いている。その音は時間とどんどん強くなっていく。覚えている、あのときは怒りがピークに達していた。
「吉田先輩、机を叩きすぎです。それにうるさいです」
「そんなにカリカリするなって。飯を食ったらすぐに王子様の元に戻すよ」
ステレオで非難させる。ただ後者の非難には謝る必要がないと思い、真紀に目配せして叩くのを止めた。
千葉のこういう物言いがたまらなく嫌だった。仮に亜由未にちょっかいを出していなくても千葉とは友達にはなれなかった。
「まあまあ、そっちには真紀ちゃんもいるんだろ?」
「いるけど、それがなんなんだよ?」
「お前もさ、たいしていい男でもないのにやるよな。亜由未ちゃんが人気あるのは知っているんだろ?それなのに今度は後輩の真紀ちゃんから好意を抱かれてさ」
「お前なんかが慣れ慣れしく亜由未ちゃんとか呼ぶなよ!」
「おお、怖い怖い。それは彼氏の特権ですか?それとも余裕がないのかな?」
「な、そ、それでお前は何が言いたいんだよ?」返答に詰まっているのは、あのときの俺もなぜ亜由未が自分に好意を抱いてくれたのかが謎で、自分よりも格好いい男に取られてしまったらどうしようとヤキモキしていたからだ。
嫉妬する男は情けない、束縛する男は器が小さい、常に寛容であること。誰かの受け売りではなく、あのときの俺はそれを美徳とし、それを実践できるように強がっていた。好きだからこそ嫌われたくない。嫌われないように男らしくする。
今でこそ愚かだと思う。そもそも、男だからこうあるべき、女性ならこうすべきなんて時代錯誤だ。だいたい男らしいの定義さえ今でもよくわからない。
ただ、あのときの俺には他の選択肢がなかった、というよりもそれ以外の選択肢を探さなかった。
「おい、吉田、聞こえているのかよ?黙っていないでなんか言えよ」
「お前と話すことなんかねえよ。いいから亜由未と電話を代われ」
「焦るなって。お前はいいよなあ、亜由未ちゃんだけでなく、真紀ちゃんもお前なんかのことを好きだって言うんだから世の中は不条理だよなあ」
「お前といま人生論を語り合うつもりはない!いいから電話を代われって!」
千葉は亜由未に聞かれたくないことをずかずか言う。こいつにはデリカシーの欠片もない。
だから俺はお前が嫌いだったんだ。ベンチに座ったまま電話の向こうにいる千葉に嫌悪感を抱く。
「お前、亜由未ちゃんが不安になっていることをわかっているのか?お前を信じているといっているけど、それもどこまで本当なのか?疑わしいもんだぜ」
「は?」
「ちょっと千葉君、何を余計なことを言っているの?もう電話を返して」
普通なら聞こえない会話がスマホのスピーカー機能を使用しているようで、何もかもが漏れて聞こえてくる。
都合の悪いことや思いも出したくないことに蓋をして封印していたつもりだったのか。確かにこんなやり取りはしていた。ただ今はっきりとその光景を見せられている。蓋を空けられたせいで体中に記憶の粒子が纏わりついてくる
あのとき、亜由未が俺と真紀との関係を疑っているのもわかっていた。
わかったつもりでいた。知っているつもりでいた。心配をかけないでいた。安心させるつもりだった。
つもり、つもり、つもりでいた
何の確証もない。ただそう思っていることにしていただけだ。自分にとって都合の良いように。
自分で過去の自分を見続けることがこんなにも辛いことなのか。目を背けたくなる。俺はクズだな。俺はもちろんそうだが、煽りをやめない千葉も人間として、男としても相当どうかと思ってしまうほどのクズだ。クズ同士が電話越しに主導権を握るために言い争っているだけだ。
「ともかく、俺は今日亜由未ちゃんと夕飯を食ってくるから、お前はお前で好きなようにしろ。あ、真紀ちゃんと飯でも食ってくれば?お前が送り狼になったら俺には好都合だし」
ツーツーツー、千葉はそう言い残して一方的に通話を切った。
「千葉さんなんですって?」手持ち無沙汰だったのか、真紀は暇そうにテラスから外を眺めている。
「亜由未と夕飯を食ってくるってさ」投げやりに答える。
「じゃあ先輩は私に付き合って食事に行きましょうよ」真紀は大きく背伸びをして、可愛いいとは思えないマスコットを付けたベージュ色のリックサックを掴んだ。
「どうして?」
「どうしてもこうしてもないでしょう?私はさっきからずっと待っていたんですから」
「待っていてくれって頼んでいないだろう?」
「なんか吉田先輩ってたまに血の通っていないロボットみたいなことを平然と言いますよね?」真紀はわざとらしく両手を心臓のとこで交差させ、傷つけられた真似をする。
「先輩、まさか亜由未さんにも同じようなことを言ったりしていませんか?」
「まさか。お前と亜由未を一緒にするなよ」
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不安と焦りと苛立ちが三本のトリコロールカラーのようにそれぞれをしっかりと区切られていたのに、全てが入り混じり灰色の塊と化して胸の中へ、心の奥底を目掛けてドスンと落ちていく感覚。
ベンチから慌てて立ち上がり、過去の俺と真紀の間に割って入ろうとするとミラーハウスの仕掛けのように見えないガラスにぶつかり、俺は情けなくよろけた。
「今日くらいは飲みに行きましょうよ?」
「まあ、亜由未が帰ってくるまでならな」
駄目だ、ここから先のことを俺は知っている。そもそも、もっと早く行動するべきだった。亜由未と千葉を二人で行かせたこと、車を貸してしまったこと、帰りを真紀と飲みながら時間を費やして待っていたこと。全てを後悔する。ただ、悔やんでも悲しんでも怒りで我を忘れても時間を巻き戻すことはできない。
過去に干渉させないなら、どうして今になって俺はこの光景を見させられているのだろう。力なくベンチに戻り、腰をおろして天を仰ぐ。煙草を吸いたいと思うが、ポケットにはライターしか入っていなかった。
祈るように手を合わせて目を瞑り、溜め息を漏らす。
瞼を開けると座っていたベンチが、居酒屋のカウンター席に変わっていた。俺の服装に変化はない。どうやら、この夢はここで終わらせてくれないようだ。
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