第2話 働くということ
元号が平成から令和に変わったからといって驚くような変化は起きなかった。当たり前だとも思う。1999年のノストラダムスの大予言とはわけが違う。いや、あのときもごく一部の人間が大騒ぎしていただけで自分には関係なかったし、信じてもいなかった。
ただ、困ったことに日本でパンデミックが発生した。流行り病なんて授業で習った「ペスト」や「スペインかぜ」くらいしか思いう浮かばなかった。まあ、あとは人間がゾンビ化してしまう、それこそわけのわからない、存在するのかどうかも怪しい未知のウィルスくらいだろう。
惰性の学生生活を終え、要領よく単位を取得した俺は卒業して何となく営業職に付いた。しかし、なんとなく選んだ営業の仕事は3年で終わった。限界だった。
発破をかけるという部長からのパワハラ、新人を鍛えるという名目で先輩社員から掃除当番を押し付けられ、毎日のようにデスク、トイレの清掃、これだけでも嫌なのに営業成績が悪いと20人ほどの全社員の前で叱咤激励、いや激励はなかっただろう。叱咤だけが毎日のように続いた。まさに起きながらにして醒めない悪夢をみているようだった。あれは他の社員に対する見せしめだったのだろう。辞めてからそう思うようになった。
たったの3年で会社を辞めた俺に両親や友人達はきつくあたってきた。
「根性なし」「弱虫」「それくらいで辞めたら他の仕事なんかできるわけがない」
聞いたことがあるフレーズのオンパレード。胃が痛くて痛くてたまらず、鬱病なる寸前まで追い詰められたような気がした。
本来なら、辛くても泣きながらでも、それこそ血反吐を吐いてでも仕事を続けれなければいけなかった。
それは俺自身のためであり、また彼女と思い描いた未来を実現するためには必要なことだった。
しかし、俺は逃げた。仕事だけでなく、彼女からも。
順風満帆な人生なんかそうそうあるものでない。俺は鬱屈した気持ちのまま一つ目の会社を辞めてから1年も要して、やっとビジネスホテルの準社員という形で雇われることができた。勿論、前職のことは履歴書に書かなった。職業は書いたが全くの別物。しかも、会社が経営難で潰れたことにした。
完全に経歴詐称だが、2つ目の会社に採用されるまで、その前職が再就職の妨げになると思い知らされていたからだ。
客商売も本当に大変だった。そんなことを言いだすとキリがないが、酔っ払った客に殴られたのは一度や二度ではなかった。格安のビジネスに何を求めているのかはわからなかったが、あのときは「お客様は神様」の時代。「カスハラ」なんて言葉があることさえ知らなかった。
流行り病が世界だけでなく日本中も蝕んでいた頃、観光客の激減、宿泊業もインバウンドの影響も受け、売り上げは目を疑いなるほど落ち込んだ。
そんなとき、「こんなご時世に泊まりに来てやったんだ。いつも以上に奉仕しろよ。ほらさっさと荷物を持てよ!」
初老の男は手に持っていた手提げ鞄を俺に向かって突き出した。
格安ビジネスホテルにそんなサービスは存在しない。
「ここは一日のストレス発散の場ではないですよ。それとも弱い者イジメがお好きなんですか?」俺はつい無意識でそんな言葉を口から吐き出してしまっていた。
俺の言葉を一言一句聞き逃さなかった初老の男性は、言うもまでもなく激昂した。
「おい、小僧、お前だよ、お前!今何て言いやがった」
どうして年配者は小僧呼ばわりが好きなんだろう。俺にもそんなことを考えるくらいの余裕はあったのだが、事務所にいた支配人がピンボールで押し出されたように飛び出してきた。
「おい、吉田!ちょっと来い!」俺よりも身長が10センチほど高い支配人は俺の頭を鷲掴みにしながらロビーに出して、そのまま前屈測定するのかと思うほど強い力で俺の頭を押し下げた。
「そんなので許してくれると思ったら大間違いだよ、土下座して謝れ!」
怒りで爆発していた男は鼻息を荒く興奮していたが、俺はその男とは正反対で、心は感情を持たないロボットのように冷め切っていた。
これでいいのかもしれない。もういいだろう。これ以上は精神よりも肉体に負荷がかかり過ぎる。
俺は鷲掴みにしていた支配人の手を強引に引き離し「土下座をしろと言うなら辞めさせて頂きます」そう言って支配人の反応を確かめた。
宿泊客が減少の一歩を辿るなか、居れば給料を払わなければいけない従業員と、その従業員が怒らせてしまった客。どちらにつくのかは考えるまでもなかった。
「わかった。お前には今日で退職してもらう。その代わり土下座はしなくてもいいからちゃんと謝罪しろ」
「わかりました」
「大変申し訳ありませんでした」俺は自分が納得できる範囲で頭を下げ、その場を離れた。
「おい、待てって!そんなので許さると思っているのか!おい!待てよ!」
聞き流す、無視する。もう頭を下げるのさえ嫌だった
こうして俺は流行り病が猛威をふるい、次の職のなどあてなどないのに2つ目の会社を辞めた。それは俺が33歳のときだった。長く務めたと思っていた。終身雇用など
鼻から頭にない俺にはそう思えた。
ただ、辞めてからが本当に大変だった。次が見つからない。どこもかしこも、わけのわからない病気が蔓延したせいで、従業員を解雇していても新しく採用をしていない。いや、できないのだろう。会社を存続させるだけで精一杯だと、経営者ではない俺にももわかっていた。
新卒者さえ採用していない会社さえあったのだから俺のような中年の、特筆するべき才能や資格をもっている人間を欲しがる企業など見つかるはずもなかった。
2年くらい引きこもりになってしまった。両親がきつくあたってこなかったのには、ある理由があったが相当苛ついていただろう。家に長く居すぎるとわからなくてもいいことさえわかってしまった。
流行り病が終息を迎えそうになった頃、やることと言ったらPS4しかなかった俺も本格的に仕事を始めることにした。家に居続けるのも限界だったし、腫れ物をみるような両親の目を違うものに変えたかったからだ。
「あそこのコンビニでアルバイトを募集してるってよ」
買い物帰りのお袋がノックもせずに入ってくる。「あそこってどこ?」俺はPS4のコントローラーを握りしめながら聞き返した。
「小学校に行く大通りから踏切に向かう道に入ってすぐのところ」
「ああ、あそこか」家に閉じこもりすぎて鈍くなった頭を凝りほぐすように思考を巡らす。自転車で10分くらいのろところに確かにコンビニがあったはずだ。
「まあ、いつまでも体を労わっていても無駄だろうし、まだ働けるなら働いたほうがいいか」
「あんたの体のことは理解しているつもりなんだけど、やっぱりずっち家に居られるとストレスが溜まっちゃう」
「わかっているって。すぐに電話で聞いてみるから」
「そうしなよ、いつまでも家に居られるとこっちも困るから」心の底からそう思っているからだろう。お袋の目が「少しは働け」と訴えているように見えた。
「善は急げ」という言葉はこういうときには使わないだろう。2年近く家で引きこもっている時点ですでに「善」という言葉の意味を失っている。とにもかくにも電話番号をインターネットで確認して、すぐに電話をかけて面接の予定まで漕ぎ着けた。
ところが・・・いざ面接に行くと50代前半の覇気のない店長から露骨に嫌な顔をされた。
「もうすぐ40代になるのにアルバイトをしたいの?」
「駄目ですか?」
「駄目じゃないけどさ・・・本当は大学生とか欲しいんだよね」
正直というか、時代にそぐわないことを口にする店長だ。「駄目なら駄目で他を当たります」
「いや、駄目ってわけじゃないんだけどさ」そう言いながら店長は険しい顔で新たな発見でもないかと探すように履歴書と俺の顔を交互に見比べた。
「夜、そう夜勤なら今人が足りないから、夜ならどう?」
どうもこうも選択肢が一択なら答えはどちらかだ。
「やります。夜で問題ないです」
「じゃあ夜勤で採用ってことで」そこまで言いながら店長は急に黙り込んだ。。
「うちの夜勤は大変だけど大丈夫?」
心底面倒臭い人だと思った。ただここまで話がつながってきた以上、俺も「大丈夫だと思います」と「思います」の保険をつけておいた。
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