乙女じゃない2

 夢を見ているのかと思った。


 吹き抜けた一陣の風に花びらが舞い上がると、辺り一面が桜色に染まる。

 

 黒い夜空に乱れ散る桜のコントラストがどこか狂気めいていて。

 うーん、夢は夢でも、もしかししてこれは悪夢なのでは。ぼんやりとそんなことを考える。


 手の平に一枚、花弁が舞い落ちた。


 ぞくりと背筋が冷えたのは四月の夜風のせいか、それとも……。





 春の吹雪がおさまってようやく視界がひらけた時。

 丸い花弁が散らばった桜の木の下に一人、和装の少女が佇んでいた。


「わあ……」


 ベッタベタな感嘆の声が思わず口からこぼれ出た。

 だけど、今回ばかりは自分の語彙力が少ないせいだとは思わない。

 この場に居合わせたらどれほど語彙力のある文豪だって、沁みる歌詞でヒット曲を連発する歌手だって、第一声はそれしか言えなかったはずだ。

 そのくらい綺麗な少女だった。


 顎のあたりで切りそろえられた淡い緑色の髪。

 小さな鼻、花びらみたいに可憐な唇、襟元から覗く白い首筋。 

 

 そして細い指先には——ぷつりと根元から千切ったみたいな、大きくて丸い桜の花の塊。

 一瞬、ほんの一瞬だけ。枝を離れてもなお綺麗な円形を保ったそれが……人形か何かの首に見えて心臓が跳ねた。そんなこと絶対あるはずないのに。


 やがてその少女はゆっくりとこちらを振り返り——視界の中に私を捉えた、と思う。


「……っ!」


 もはや語彙力とかの問題じゃない。感嘆の声すら出てこなくて、私はただだ息を呑んだ。


 振り向いた少女の瞳。

 淡い睫毛で縁どられたその中に、桜の花が咲いていた。

 そう思ってしまう程に儚くて……妖艶な桜色の瞳だった。


 私と視線が交わって、少女の両眼が大きく見開かれた。


 やばっ……まあまあ長い時間無言で眺めちゃった。

 気付いた私は慌てて口を開く。


「こっ、こんばんは……! 初めまして!」


 しかし、少女のあまりの綺麗さにほぼ思考停止していたからか、なんとか振り絞った台詞はめちゃくちゃ怪しいもので。あっ、これなら黙ってたほうがマシだったと秒で後悔した。


 案の定、少女は私を見詰めたまま固まっている。

  

 そりゃそうだよね。結構な至近距離でガン見されて、いきなり声掛けられたんだもんね……。

 これ以上警戒されないようにと、頑張って笑顔を取り繕ってもう一声。


「きゅ、急に声掛けたりしてごめんね!? 私、怪しい人じゃないから安心して! 桜を見て歩いてたらここに辿り着いて……あなたがすごく綺麗だから思わず見とれちゃった!」


 いや、もうこれはただの不審者なんだよなあ。


「あんまり綺麗だから、桜の妖精さんかと思ったよ! 着物もすごく似合ってる! 今日は入学式か何かだったの? 高校生? あっ、大学生かな!?」


 はい、完全にアウトです。眠田ねねこ退場。


 失言のフォローしようとしたはずが、更に個人情報に踏み込んでしまった。

 七海の時もそうだったけど、話せば話すほど駄目な方向に行ってしまうのは何故なんだ。もしかして私ってコミュ力ないのか? この最悪の流れで次何て言えばいいの? もう消え去りたいよ。でもここで去った後日『夢咲川河川敷・二十代~三十代の女性・親し気に声を掛けてくる』みたいな情報出回りそうで怖いし辛い。なんとか誤解を解きたい。

 

「あ、あの……ここでお花見してるの?」


 結局、一周回って馬鹿みたいな質問をした。もうどうにでもなれ。


 わずかの間をおいて、少女はふっと柔らかく微笑んだ。


 ——あっ、やばい。めちゃくちゃ可愛い。そういうの好き。

 基本的に美形は黙ってると冷たそうに見えるから(それがイイんだけど)、微笑んだ時のギャップはまじでヤバイ。初日に七海も見せてくれた「いってらっしゃい」のアレだ。


「はい。ここは、静かですから」


 少女は落ち着いた声でそう言って、私の歩いてきた方向へ視線を向けた。

 まだ耳の奥に残っている喧騒。ああ、と思って私は苦笑いで応える。


「あっちのほうはすごい盛り上がりだったね……」

「お花見の時期はいつもあんな感じです」


 まあまあ怪しい声かけをかましてしまった私と普通に会話をしてくれる。

 良かった、不審者とは思われてなさそうで安心した。


「そっかぁ……よくテレビで映ってる映像って一部の人気スポットだけの話かと思ってたけど、お花見ってどこもそうなんだね……。あっ、私はね、今日初めてこの河川敷に下りて来たの。予想以上にすっごい人でびっくりしちゃったよ。……あなたは、普段からよくここに来るの?」

「いえ、毎年春だけ、桜を見に来ます」

「へぇ……!」


 家が近いのかな。軽いノリで「どこに住んでるの?」と尋ねそうになったけど、それはさすがに踏み込み過ぎかと気づいて、口に出す寸前になんとか思いとどまることができた。偉いぞ眠田ねねこ。

 ちゃんと距離感を保てたことに調子に乗った私は更なる会話を試みる。


「あっちはすごい人だったのにこの辺りだけ誰も居なくてびっくりしたんだけど……ここって穴場な感じ?」


 が、少女の返事はない。代わりに微笑みだけが返ってきた。


 あれっ、質問ミスった? いや、でも今の流れ的に別におかしくはないはず……。


 少女は美しい笑みを湛えたまま、片方の髪を耳に掛ける。

 それに伴って、少女の身に着けている桜柄の着物の袖が揺れた。


 今日は入学式だったのかと思ったけど、入学式ってもっと早い時期じゃかなかたっけ。ふとそんな疑問が頭をよぎる。

 いや、私が忘れてるだけか? もう十年くらい前のことだしなあ……。

 

 少女の装いは桜柄の着物に、深い紫の袴。黒い草履。そこまではごく普通の和装なのだが……なぜか首にチョーカーをつけている。まあ……成人式の振袖も、花魁風とか超ミニとかいろいろあるし……最近の若い子の間ではこのスタイルが流行っているのかもしれない。和ロック、いや和ゴスロリ風か? 

 きっとアラサーの私には分からない、今時の流行なんだな……。

 チョーカーについてはあえて突っ込まないことにして、無難に桜トークを続けることにする。


「そういえば、ここの桜だけなんか形が違うね? 色もちょっと濃いような……」


桜と言えば思い浮かべるのはよくイラストとかで見る薄いピンク色で花びらが五枚のものだと思うけど。

この木に咲いている花は花同士がぎゅっと集まって、まるで手毬みたいな丸い形をつくっている。一つ一つが大きく見えるせいか、樹の高さはそれほど高くないのに、迫力があって華やかだ。


「これは八重桜ですよ」


少女が言った。


八重桜。名前自体は何度も聞いたことがある。でも正直、普通の桜と何が違うのかよく分かってない。

知ったかぶりをするのもなんだし、ここは素直に尋ねてみる。


「八重桜って、あっちに咲いてたのと種類が違うの?」

「種類が違うというよりは……花びらの数の違いでしょうか。一般的な桜の花びらは五枚で、それを一重咲と言います。六枚以上の花びらになると八重咲……八重桜と呼びます」

「あー! なるほど! 花びらの数が違うのかあ……。だから普通のやつよりふんわりしてるんだね!」

「咲く時期も染井吉野より遅いです。八重桜は染井吉野が散る頃に咲き始めるので……」


じゃあ、まだ今は咲き始めってことなのか。それでこのボリューム。満開になったらどれ程綺麗なんだろう。……あ、でも。


「今週末は雨だって……」


今朝の会話を思い出す。

週末の降水確率は九十パーセント。桜流しになると七海は言っていたけれど……。

不安になって八重桜の木を見上げる。

別にめちゃくちゃ桜が好きってわけではないのに、こうして綺麗な桜を前にすると、何となく切ない気持ちがわいてくるから不思議だ。


「……きっと、桜流しになりますね」


八重桜を眺めて柄にもなく感傷的な気分になっていた私の耳に、めちゃくちゃ聞き覚えのある単語が飛び込んできた。


「えっ! すごい! 若いのにその言葉知ってるの!?」

「……桜流しですか?」

「そうそう! 私なんてその言葉、今朝知ったばっかりだよ! 聞いた時、そうめん流しの仲間かと思ったもん」


再びピンクの流しそうめんを想像して笑う私とは対照的に、少女は真顔になった。


あ……やば。このおばさん、八重桜も桜流しも知らないのかよって顔なのでは。ドン引きされているのでは。

もしくは「そうめん流しの仲間」とか言って、馬鹿にしてるみたいに聞こえちゃったとか!?


「え、えっとね……! 普段あんまり桜とか見ないからその……っ」


どうにか言い訳をしようと焦っていると、少女が「ふふっ」と声を出して笑った。


「……あ、すみません。すごく焦ってるのがおかしくてつい……。大丈夫ですよ。桜流しなんて普段あんまり使うことないですもんね」

「う、うん……。あの、そうめんとか言ってごめんね? 決して馬鹿にしたわけではなくて……」

「はい、分かってますよ」


少女の笑顔を見て、私はほっと胸を撫で下ろした。


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