乙女じゃない1
「いつの間にか日が長くなってたんだなあ……」
独り言を零しながら会社の門を出て、歩きなれた道を進んでいく。
時刻は十八時。すっかり日が落ちているものかと思いきや、空にはまだ辛うじてオレンジの光が残っていることに驚いた。
今日は珍しく一時間の残業だった。
総務課とは言うと事務職メインかと想像すると思うが、私の仕事は企業受付兼プラントガイド。事務ではなく、接客がメインの業務だ。
といっても一日中ずっと受付に座っているわけでは無く、まずは受付でお客様をお迎えして指定の応接室へご案内、お茶出し、必要があれば工場見学ツアーへお連れする……というものが業務の一連の流れ。
それぞれの部署の担当者が事前にしっかりと予約をしてくれるので、一日のスケジュールは元から決まっており、急な残業になることはほとんどない。予約がない日は、自席で備品の発注や書類の整理など事務作業を行っている。
基本的には体を動かして人と話す仕事が好きなので、とても楽しい仕事だ。
なんというか……前職の苦い思い出もあるからこそ余計に、こんな素晴らしい会社があってもいいのか? と思う程、超ホワイトな会社だ。
本当に、なんでこんな私が入社できたのか……地球はもうすぐ滅びるのか……(以下略)
そんな感じで、本日の私のスケジュールは十四時からのお客様のご案内、担当部署は購買部というものだった。
十四時半から工場ツアーへお連れして、その後一時間応接室を使用とのことだったので通常であれば定時の十七時には片付けまで終わっているはずだった、のだが。何やら話が長引いでいたようで、それを待っていたら終了予定時刻を一時間程オーバーしていた。
とはいえ、別に予定もなかったので自席でのんびり待っていただけの残業だ。たまにはこんな日があっても良い。残業代出るしね。
「そういえば、今日は田中さんいなかったな……」
購買部の予約は田中さんの名前でされることが多いのだが、今日の担当者は初めて見る名前のめちゃくちゃハキハキした人だった。
時間をオーバーしているのだから終わったなら終わったと連絡が欲しいところなのだが……それをせずに帰るあたり、田中さんとは真逆みたいな人だ。
でも見るからに仕事は出来そうな雰囲気だったし、お茶出ししながら話を聞いていた限り要領もすごく良さそうだったし、会社では大抵ああいう人が上にいく。
田中さん、がんばだよ……!
気弱そうな笑顔を思い浮かべて、心の中で応援しておいた。
▼
家から会社までの距離は、歩いて二十分ほど。
前職の頃から不眠症になっていたので、転職先が決まったら少しでも近くに引っ越すと決めていた。できれば電車にも乗りたくなかった。
だから徒歩圏内で家を探し、今の場所に引っ越してきたのが約三年程前のことだ。
程よく発展した、自然の多い街。ここでの生活が私はとても気に入っている。
自転車に乗れば通勤時間を十分ほど短縮できるけれど、私は歩く方が好きだ。
インドア派のアラサーにとって片道二十分程度のウォーキングは、ちょうどいい運動になる。夏場は死にそうだけど。
その通勤路のちょうど真ん中あたりに大きな川が流れている。
名前は
ちょっと気になってその由来をネットで調べてみたことがあるのだが『一夜にして川の水が無くなったり一杯になったりして、まるで夢を見ているような不思議な川だから』という説があるらしい。うん、それはきっと夢だよ、頭大丈夫か? と思った。
というのはまあ冗談として、紀貫之がこの夢咲川を題材に詠んだ歌もあるというから、昔から愛されてきた地なのだろうなと思うと、何だかしみじみとした気持ちになる。
そんな夢咲川。両端にあるサイクリングロードに沿って数百本の桜並木が続く、この辺りでは有名な桜の名所だ。
ほどよく整備された広い河川敷にはベンチが設置されていたり、河川公園などもあるので、普段から利用者の多い場所なのだが、春にはお花見の人気スポットとしてたくさんの人が集まるらしい。らしい、というのは私は一度も河川敷に降りたことがなく、全てミッチーや総務課の先輩から聞いた話だから。
ネットで『夢咲川』と検索すると『桜』の検索結果がずらりと並ぶくらいには有名で他県からも観光客が訪れ、毎年この時期にはキャンドルナイトなども開催されているのだとか。
満開時に川が桜色に染まる様は、この世のものとは思えない程綺麗なのだという。
あはは、そんな大袈裟な……と思いながら先輩の聞いていたその時の私。三色団子のことを考えていた。
夢咲橋を渡り切ったところで、私は足を止めた。
橋のたもとには、河川敷に降りられる階段がある。
普段なら真っ直ぐに帰宅するのだが、今日に限って足がそちらへ向かって動いたのはどういうわけか。
何となく桜が気になってしまって、気付けば足が勝手に階段を下っていた。
▼
降りてみて正解だったと思うまでに時間はかからなかった。
橋の上から眺めるのとは全く違う光景……桜の枝の両手を広げて私を待っていた。
まるで空が桜色に染まっているみたい。それが率直な感想だった。
一本一本が大きい桜の木がぎゅぎゅっと身を寄せ合って並んでいて、放射状に長く伸びた枝には桜の花が幾重にも重なり、空が見えないほどに覆い尽くされている。
先輩の言っていた通りだ。一瞬にしてどこか別の世界に迷い込んだような不思議な気持になった。団子のことなんて考えていた自分が申し訳なくなる。
「うーん、これは確かに場所取り合戦もしたくなるかもな……」
美人は国を傾けるというし……美しいものに魅了され、何としてでも手に入れたいと思うときの気持ちは、物凄い執着とか念とかになってしまうものかもしれない。
桜の美しさもまた、人を狂わせているのか……。
桜の特等席を巡って殴り合う気持ちが、ちょっぴり分かった気がした。
柔らかい芝生を踏みながら、川沿いを進んでいく。
河川敷は予想以上に賑わっていた。
日が落ちて薄暗かったし、橋の上からだと傾斜になっていてよく見えなかったが、実際傍まで来てみると木の根元にはレジャーシートがたくさん広げられていてかなりの人がお花見を楽しんでいた。週末は雨と知って、お花見の予定を早めた人も多いのかもしれない。
なんというか、物凄く……。
「うるさいな……」
テンションが上がった子供特有の奇声。アルコールによってボリューム調整機能がバグった酔っ払いの大きな笑い声。大学生らしき集団のイッキコール。……どんちゃん騒ぎという言葉がぴったりの雰囲気だ。
まあこの賑わいだからこそ、女一人でも安心して歩けるんだけど。
年々図太くなっていっているとはいえ、普段のひっそりと静まった夜の河川敷を歩くのはやはり怖いものがある。
これもひとつ、春の風物詩として受け入れるべきなのかもしれない。みんなみんな、毎日自分を押し殺して頑張っているのだ。年に数回、浮かれて羽目を外すくらい……と、前向きに考えてはみた、でも。
「いや、やっぱうるせぇな」
酒瓶片手によろよろになったおじさんにドンっと強めにぶつかられたとき、完全に語尾が乱れた。とても乙女の台詞とは思えない。
「姉ちゃんごめんなぁ!」って、ナチュラルに肩を触ってんじゃねぇ。ぶっとばすぞ。
スーツを着ているから、多分、会社員だろう。仕事終わりのお花見。まだ始まって間もないだろうに、出来上がるのがはやすぎやしないか。
元々、あまり人の多いところは好きではない。
河川敷に下りてきたことは正解だったし、桜の美しさは心打たれるものがあるけど、周囲の喧騒にいい加減うんざりしてきた。
自然と歩くスピードが速くなる。
そのままどんどん進んでいくと、やがて人気のない場所に辿り着いた。
賑わっていた場所から五分も離れていない。
相変わらず満開の桜並木が続いているのに、どうしてここだけ誰もいないのか。
少し不思議に思ったがそのまま足を進める。
やがて、大きな桜の木が視界に現れた。
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