時計がない3

『桜』という言葉を聞くだけで何故か無性にわくわくするのは、日本人の遺伝子に組み込まれた本能みたいなものなのか。

 無視しようとしても抗えない、私たちを狂わせる何かが桜にはある気がする。

 まあ……だからといって、お花見の席を巡って殴り合いにまで発展するくらい理性的でなくなるのはいかがなものかと思うけど。


 当事者たちは至って真剣なんだろうが、ニュース映像で見ているだけの人間からすれば、いや一旦落ち着こ? それ花だよ、毎年咲くよ……と思わずにはいられない。

 何をそんな、今年しか見れないんじゃ! みたいな勢いで喧嘩をするのか。

 桜はたくさんあるんだから、一番の特等席じゃなくても良いじゃない。

 人気スポットを外して一人静かに桜を愛でるのも粋な楽しみ方ってもんだ。歌を詠むとなお良いかもしれない。


「やっぱ桜って綺麗だねぇ……」


 天気予報の関連情報欄に表示された満開の桜の写真を見て呟く。

 

「綺麗なだけなら、いいけどね」


 そう答えた七海の声は、どことなく憂鬱な響きを含んでいた。


「ん? どういう意味?」

「……別に」

「その間がすごく気になるんだけど」

「……綺麗なものには棘があるって言うでしょ」

「でも、桜に棘は無いよ?」

「はあ……そういうことを言ってるんじゃないから」


 じゃあ何よ。はっきり言ってよね。

 七海と話していると、何となく会話が噛み合っていない時が多い気がするのは、やはり生きている世界が違うからだろうか。

 それとも七海が「こいつと話すだけ時間の無駄」とか思って適当に話しているからだろうか。……なんかそっちのほうが在り得そうで腹が立つな。


 勝手に深読みして微妙な気持ちになっている私に、七海は言った。


「あんたってほんと馬鹿だよね」


 くっそ……! 話が噛み合わない原因は、やっぱり絶対後者だ。



 ▼



 そんな口の悪い七海だが、さすがはプロの七時。

 仕事は最後まで完璧に、ということで本日も私を玄関までお見送りに来てくれた。


「忘れ物はない?」

「うん! 多分!」

「……はあ、多分じゃ確認してる意味がないんだけど」

「大丈夫大丈夫!」


 とりあえず財布さえ持っておけば大抵のことはなんとかなる。

 それに今から遊びに行くわけでもない、ただ仕事に行くだけだ。

 万が一財布を忘れた時のために職場のロッカーにお金も置いてある。何も心配はいらない。


「……あんた、腕時計とかつけないの?」


 パンプスに片足を入れたとき、七海がそんなことを尋ねてきた。


「あー、前はつけてたんだけど……。去年、だったかな。道路に落としたときに壊れちゃったんだよね」

「何それ……腕につけてるのに、どうやったらそうなるの」

「いやあ、皮のバンドが雨に濡れてたから外して鞄に入れようと思ったら手が滑っちゃって」


 修理に出すほど思い入れのある物でもなかったから、その腕時計とはそのままお別れした。

 その後、代わりの腕時計を購入しようと探してみたりもしたのだが、なかなか気に入るものがなくて。今ではもうすっかり腕時計のない生活に慣れてしまった。


 パソコンやスマホを見れば、そこにはいつでも正確な時間が示されているし、最近ではスマートウォッチなるものを着けている人も随分と増えたように思う。

 私の弟も、随分前に購入していた。何でも出来て、やっぱり便利らしい。


 それでも腕時計を着ける習慣が無くならずに残っているのは、もはや時間を知るための道具というよりは、自身の財力とかセンスとかを周りに示す装飾品……ファッションの一部として自身を飾り個性を出すアイテムみたいな位置づけになっているからなのだろう。私にはあまり興味のないところだ。


「……気に入ったのがあれば欲しいとは思ってるんだけど、なかなかね見つからないんだよねぇ。ま、でも! スマホがあれば問題ないよ!」


 というわけで、ほぼすっからかんの通勤バッグを持ち上げ、呆れ気味の七海に向かってぐっと親指を立ててみせた。


「じゃあ、行ってくる!」


 今日は早起きだったから、いつもより余裕を持っての出発だ。

 なんだか自分が出来る人間になったような気がして、意気揚々とドアノブに手を掛けたところで


「ちょっと待って」


 七海に呼び止められた。


 振り返ると、七海はちょいちょいと手を動かして私を呼んだ。

 何だろうと思いながら一歩、七海のほうへと戻る。


 すると七海はスッと手を伸ばし——

 300万点(初日に採点済み)の手が、ふわりと私の髪を撫でた。


「寝癖、ついてる」


 あー、はいはいはいはいはいはいはいはいはい。やばいやばいやばいやばい。


「社会人でしょ、身だしなみくらいちゃんとしなよ」


 今日で世界が終わっても構わない。

 本気でそう思えるほどに、七海はイケ散らかしていた。


 余りにも唐突な胸キュンイベント。

 注意のお言葉も右から左へとすのまますり抜けて、七海の顔を見つめたままうつけたように立ち尽くす。

 何秒くらいそうしていたかは分からない。


「あんまり見てると見物料とるよ」


 七海のその一言で私の意識は現実に戻って来た。


「——えっ!? 見物料!?」

「なに驚いてんの。美術館入る時はお金払うでしょ? それと同じ」

「同じなのか……」


 七海は「当然」とでもいうように鼻先でふんと笑った。


「ち、ちなみにおいくら?」

「一万円」

「いや、たっか」

「一時間一万円ね」

「ぼるねぇ!」

「こんな近くで見せてやってるんだから当然でしょ」


 少し意地悪そうなその笑みの破壊力たるや。


 七海の言う通り、見物料払うべきなのかもしれない。だんだん頭がおかしくなってきた自分が怖い。


「……じゃあ、改めて、行ってきます!」


 元気に挨拶をして、今度こそ玄関を出ていく。


「いってらっしゃい、気を付けて」





 いってきます、に返事してくれる人がいる。

 それがこんなにも嬉しいことだとは思わなかった。

 歳のせいか、寝不足のせいか。ちょっとしたことで泣きそうになるよな……。


 そんなことを考えながらアパートの階段を下りていく。


「帰ったときも誰かいてくれたらいいのに……」


 呟いて、すぐに思い直す。

 ……いや、誰かは怖いな。知ってる人がいいわ。


 こんなことを言うとフラグになりそうなので、今の発言は全力で取り消しておこうと思う。



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