見えていない
「あれ、ねねこちゃん。おはよう~」
のんびりとした声でにこやかに声を掛けてきたのは、隣の部屋に住んでいる女性——シホさんだった。
「そんなところで何してるの?」
シホさんはつい最近このアパートに引っ越してきた……いや、今それを説明している場合ではない。よって省略!
とりあえず、この最悪の状況に救世主が現れた。そういうことだ。そういうことで話を進めさせてもらう。読者のみんな、そのままついてきな!
「シ、シホさん! おおおおおはようございます!」
「どうしたの、ねねこちゃん。そんなに慌てて……」
シホさんがさらっさらの黒髪ストレートを後ろへ流しながら私の方へ歩いてくる。今日も麗しいです、お姉様……!
「部屋に虫でも出たの?」
「そそそそそれが! 今朝起きたら部屋に変な人がいて!」
「ええっ!?」
私は勢いよく自分の隣を指さしてみせる。
シホさんは一瞬目を丸くして、そして——
「……誰もいないじゃない?」
「えっ?」
きょとんとした顔でそう言った。
「い、いや! すぐそこに! いるじゃないですか! 超イケメンが!!!」
すぐそこの壁にもたれてるイケメンが!
暇そうに空見上げてる場合じゃないんだよ、なんでそんな余裕ぶっこいてんの、ねぇ!!!
「超イケメン……?」
だけどシホさんは本当に何も見えないといった風に首を傾げる。
なんでなんで! 目の前に確かにいるのに! 絶対シホさんも認める超イケメンなのに!!!
「あっ、分かった! ねねこちゃんってば、私のこと揶揄ってるんでしょー?」
「違いますって! 本当にいるんです! 本当に! すぐそこに!」
本当本当と言えばいうほど嘘っぽくなっていくの何。
で、シホさんも「はいはい、分かったよ」みたいな優しい顔するのやめてください。これじゃあまるで私が頭のおかしい子みたいになってるじゃない。
「……ていうか、ねねこちゃん今日は有休取ったっていってなかったっけ? なんでお仕事行くときの服着てるの?」
「えっ!? あっ、そういえばそうだった……!」
消化しなければいけない有休があったから、特に用事はないけど今日入れてたんだった。おはようのイケメンが衝撃すぎてすっかり忘れていた。
不眠症で慢性的な寝不足だから、休みの日は昼過ぎまで爆睡することにしてるのに。なんで七時に起こされたの私。なんでこんな状況になってるの。思ってたのと全然違うことになってるんですけど。
もうやだ、朝から疲れたよ……。これなんていうラノベ?
ぴちぴちの十代ならまだしも、二十七歳になってこの展開はキツイよぉ……。
「ねねこちゃんったら、まだ寝ぼけてるんでしょ!」
シホさんが私の肩を叩いて笑う。
こりゃもうだめだ。有休であることを忘れるといううっかりミスのせいで、イケメンのことも完全に信じてもらえない流れになってしまっている。
非常にまずい展開である。眠田ねねこ痛恨のミス。
「昨日も夜遅くまで起きてたんじゃない? 眠れないのは辛いけど、お酒はほどほどにしなきゃ駄目だよ?」
「いや、ちが……」
「そうだ! 私、ヨガをやってるんだけど、寝つきが良くなる安眠ヨガっていうのあるから今度一緒にどう?」
「えっ、そうなんですか! ぜひ! ……じゃなくて! あのっ、本当にイケメンが……」
「じゃあ、私は仕事行くね。ねねこちゃんもずっとそんなところに立ってないで早くお部屋に入りなよー。ヨガはまた改めて日にち決めようね」
「シホさん待って、あの……」
「超イケメンの夢の話は、そのときゆっくり聞かせてね」
ちがうんですよシホさん……っ! お願い行かないで、私を見捨てないで……っ!
もっと縋りつきたいところではあったけど、出勤するシホさんをいつまでも引き留めているわけにもいかない。
結局私はそれ以上何も言えないまま、シホさんの去っていったほうを眺めて立ち尽くすことしかできなかった。
再び私とイケメンだけが残された廊下に立って思う。
『どうやらこのイケメンは、私以外の人には見えていない』
いやこんなん通報してどうしろと?
逆に私が捕まるわ。部屋に私にしか見えないイケメンがいるんです! とか言って交番に駆け込むアラサー女とか頭がおかしすぎるんだわ。
——無力だ、この地球で私は無力すぎる……。
もはや成す術もなく、壮大な規模感で打ちひしがれる。
……ねぇ、知ってた? 地球って丸いんだよ……えへへ、本当にワケが分からないや……。
ため息と共に空を見上げてみたら、どこから飛んできたのか、小さな桜の花びらがふわふわと彷徨っていた。
そうか、今はもう四月だったな、と思い出した。
仕事があるかないか、平日か休日か、ただそれだけで動く機械的な毎日だ。時間の流れも季節の移り変わりも、もうずーっと前から意識の外に追い出されていた。
春は出会いの季節、何かが起こりそうな予感がする、と。学生時代にそんな歌を聴いたことがあるような気がする。タイトルは知らない。ただその時は、甘い香りを含んだ四月の風にみたいに、いつか私に訪れたらいいな、とぼんやり思った。
まあ……そんな子供っぽい淡い期待はここまで来る途中で、全部道端に捨ててきたけど。夢とか希望とか、なりたい自分だとか、そんなことを考えたままじゃ、普通の大人になれなかったから。
それなのにどうして今更こんなことに。
何だかもう可笑しくなってしまって、ふっと諦めの笑いを漏らす。
その流れで隣に視線をやると、目が合ったイケメンはやれやれとでもいう風に軽く頭を振って。
「まあとりあえず入りなよ」と言った。
いや、ここ私の部屋なんですけどね……。
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