知らない1

 十二時半のチャイムが鳴り終わるのと同時に、周りの社員たちが次々に席を立つ。


 皆大好き、待ちに待ったお昼休憩の時間だ。

 だがしかし。私は今だ自席でパソコンを操作していた。

 別に急ぎではないから午後に回してもいいんだけど、今日はなんだか無性に今終わらせたい気分なのだ。大抵のことは後回しにしがちな私にだってそんな日もある。


 省エネとかで電気が消された少し薄暗いオフィスの中、私至上最速スピードでキーを叩く。

 エンターキーをターンッ! としたところで背後から声をかけられた。


「どうしたの、眠田。いつも以上に仕事おそいじゃん」

「みっち~……」


 初登場からなんて失礼な奴。

 紹介しよう、私の同僚だ。

 同僚と聞けば察しの良い方はもう既にお気づきのことだろう。そう——私に例の青いお茶をくれた同僚というのはまさしく今目の前にいるこの人物、三井みついなのである。


 プロローグからここまで読んで下さった皆さんは、きっと私を『イケメンによわよわのアラサー』思っておられることだろう。まあ、そこは否定しないんだけど……こんな私も一応社会人で、普段しっかり仕事をしているのだということをお伝えすべくそろそろ会社トークを挟ませてもらおうと思う。

 私、眠田ねねこ……お喋りなことに定評のある女なもので、多分どうでもいいことも二千文字くらいは余裕で喋るだろうから「今そんなに時間がないんだよ」という方は、あとでゆっくり読むことをおすすめする。


 ではどうぞ。



 ▼



 私の勤めている会社は外資系機械メーカーで、日本でもかなり有名な企業だと思う。私にとってこの会社は二社目で中途入社になるわけなのだが……厳しい戦いの末に内定を勝ち取った日は、まじで地球が滅びるのかと思った。

 

 広大な会社敷地内には全部で五つの建物があり、私の所属する総務課とみっちーの所属する法務部は同じ建物の同じフロアにある。


 法務部は『仕事さえしっかりこなせば他は自由』とような方針らしく……オフィスカジュアルや制服の社員が多い中、毎日Tシャツとデニムで出勤してくる三井とその上司(法務部は二人しかいない)はかなり目立っていたから、覚えるのは容易かった。

 しかもその上司の人、電話の声がとにかくめちゃくちゃ大きい。聞く気がなくても聞こえてしまって、入社した当初は笑いを堪えるのが大変だった。

 その隣の席でもくもくと仕事をする三井を見てはなんて真面目な人なんだ……と感心したものだ。……まあ実際のみっちーは、真面目の対極にいるような人物だったわけなんだけども。それを知るのはまだ少し先のことになる。


 そんな感じで、距離にしてわずか五メートルいた私たちだが、担当している分野が全く違うので業務上関わることはなくて。

 青春っぽく言うと『近くて遠い存在』というやつだった。話したことのない憧れの同級生的な。


 入社して一ヶ月ほど経ったある日、私は初めて一人で電話番をしていた。

 上司も先輩も全員席を外していて、誰も頼れる人がいない。どうか難しい電話が掛かってきませんように! と願っている時ほど掛かってくるのが外線あるある。

 緊張しながら出てみたら、海外からのものだった。

 外資系の会社で英語必須、というのは面接を受けたときから勿論分かっていたんだけど。

 なんか色々焦りすぎた私、先方の言っていることがどうしても聞き取れなくてそりゃあもうテンパりにテンパった。後でかけ直しますと伝えたのだが向こうは急ぎの用事だったらしく、なかなか引き下がってくれず。十分ほど半泣きで受け答えをしていたら——颯爽とやって来て電話を代わってくれた人物がいた。


 それが私とみっちーの、ファーストコンタクトだった。


「貸して」


 そう言って私の手からさっと受話器を取り、ものすごく流暢な英語で話すみっちーは、デキる女そのものだった。軽く惚れた。(やはりチョロい)


「あ、ありがとうございます……! すみません、お忙しいところお手を煩わせてしまって……」


電話を終えたみっちーに慌ててお礼を言うと、みっちーは軽く会釈して「これあげる」とポケットからカラフルな包み紙のキャンディを取り出し私の机に置き、颯爽と自席に戻っていった。超クールでかっこよかった。


——海外出張のお土産だろうか。

包みを開くと「色どうした?」と言いたくなるような丸い球体が現れた。

普通なら食べるのを躊躇するようなものだったけど、まさかの人物に親切にしてもらったことが嬉しくて、心がぽかぽか温かくて。

私はそれを、そっと口に入れる。


死ぬほど不味かった。







 ——というようなことがあり、今では一緒にランチをする仲になったというわけだ。

 気兼ねなく話せる相手が職場に一人でもいるとやっぱり嬉しいもの。一応先輩ではあるけれど、私は親しみを込めて彼女をみっちーと呼んでいる。


「お腹空いたからこの海外のお土産っぽいお菓子一個貰うねー、むしゃむしゃまっず!」


 いいよ、と言う前にもう口に入れ、一連の流れで文句まで言いきる。……何となくみっちーの人となりが分かっていただけたのではないだろうか。


 げほげほと数回咳き込んだあと、何とか飲み込んだらしいはみっちーはギリィと奥歯を鳴らした。


「なんだこれ激まずなんだけど。これ誰に貰った?  眠田への宣戦布告か? ふざけんな」


ファーストコンタクト時に激まずキャンディ渡しておいてどの口が言ってんだ。

じゃああれはみっちーから私への宣戦布告だったってことか? ふざけんなだよ。わなわな。


「落ち着いて、みっちー。それはエンジェ……購買部の田中さんからのお土産だよ。こないだ会議室片付けてた時に貰ったんだ」

「ああ……」


 みっちーは顎に手を当てて宙を見上げた。田中さんの顔を思い浮かべているのだろう。


「眠田それ、いじめられてるわ」

「まじで!? 善意でくれたのではなかったのか!?」


 あの人の良さそうな優しい笑顔からは悪意なんて微塵も感じられなかったけどな……。


 大抵の人は、会議が終わるとお茶請けの食べかすも散らかし放題にして出て行くなか(まあ、それを片付けるのも私の業務のうちだから全然いいんだけど)田中さんだけはいつも、映像を映すために使った機器やコードを片付けたりゴミを一ヶ所に集めて帰ってくれる。


「あっ、良いですよそんな! 私がやりますので」

「いえいえ、すみません。僕達が使ったものですので、すみません。手伝います」

「……ありがとうございます」


 これが私と田中さんのいつものやり取りだ。

 正直、なぜ謝られているのか分からない。


 田中さんは『良い人だけど仕事は出来ないタイプ』の典型だと思う。

 助け合いは人として素晴らしいことだけれど、それを会社の中でやると『頼めば何でも引き受けてくれる人』みたいな立ち位置になってしまって、仕事を押し付けられるようになる。その失敗は一社目で経験済みだから多分、間違いない。


 たまに社内ですれ違うときの田中さんは、いっつも両手一杯の書類と荷物を抱えて小走りだ。きっとまた、自分の分ではない仕事をやってるんだろうなあと勝手に同情している。……まあ、そういう私も田中さんの仕事を増やしている張本人なわけだし、どの面下げて心配してるんだと自分でも思う。

 会議室の片付けも、本当はもっと真剣に断ればいいのだろうけど……数十人規模の会議にお茶やお菓子を出したときなどはカップや備品の量もかなり多いので、手伝ってくれる人がいると物凄く助かるからお言葉に甘えている。


 だから私は彼のことを、天より遣わされし救世主メシア——エンジェル田中と呼んでいる。もちろん、心の中でだけだ。


「私がこれ貰ったらその場でブチギレよ」

「みっちーは、少し田中さんのこと見習った方が良いと思うよ」


 ちなみにここまで長々と説明しといてなんだけど、彼の苗字が実際に田中かどうかは知らない。見た目のイメージだけで勝手に名付けさせてもらった。

 つまり私は、彼が良い人っぽいということ以外は何も知らない。適当な事ばっか言ってごめんなさい。


「ていうか、眠田。まだ仕事終わんないの? 先にご飯行っちゃうよ」

「え、やだ! もうすぐ終わるからちょっと待って!」

「ええー、どうしようかなあ。……まあ二秒くらいなら待ってあげてもいいけど?」

「短すぎるんだよなあ」

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