雪解雨
市河はじめ
雪解雨
僕から俺に変える瞬間を見失ってしまった。
父さんをオヤジとも呼んでみたいし、些細なことで苛々して母さんに当たり散らしてもみたい。
14歳を迎えたばかりの僕は、
僕には、いつまで待ってもその瞬間がやってこない。
しかし、14歳を迎えたばかりの僕にも思春期はやってきた。恋をしたのだ。
「悠くん、このクッキーちょうだい」
「ダメだよ、これは僕の」
いつも僕のお菓子に手を伸ばしては、僕が顔を
僕から見た彼女は、すごく我が儘。
それでも、彼女のことは誰もが口を揃えて大人しい、という。たしかに、耳下で二つ結びにしたおさげの髪と、おしゃれとは程遠い銀フレームの眼鏡は「大人しい」を体現しているようだ。
昔は声が小さく引っ込み思案で、いつも僕の後ろをついて回っていた。
その大人しい彼女が、僕にだけに向けるその我が儘に、つい心が動いてしまったのだ。
「悠くんのとこのお菓子、いつも美味しいんだよね。うちはママがスーパーで買ってきた安いやつだから、悠くんが羨ましいよ」
僕の部屋に遊びに来た晴美は、いつものように自分の家庭と僕の家を比べた文句を口にする。それは、小さい頃から変わらない。悠くんの家にはおもちゃがたくさんあって羨ましい、部屋にベッドがあって羨ましい、もう何度も聞いた文句。それでも、僕からしたらおもちゃが少なくても母親が本を読んでくれたり、家族みんなで川の字になって寝たりできる晴美の家族の方が温かくて羨ましいと思う。
口を尖らせて晴美は続ける。
「悠くんのとこはさ、いつもお花飾ってあって、美味しいお菓子もあっていいよね。うちのママ、センスないんだよ。お花詳しくないし、クッキーよりお煎餅派だし。この前なんてお弁当に
そんな小さなことでも気にしなければいけないなんて、女子のコミュニティは大変だなあ、と僕は思わず笑ってしまった。相変わらず晴美の尖らせた口は戻らない。
慌てて緩んだ口元を戻し、僕は言う。
「筑前煮、いいと思うけどなあ。お袋の味ってやつじゃん」
「それでね、結局友達に見られちゃって、『お袋の味じゃん、いいなあ』って言われたの。絶対いいと思ってないのに。馬鹿にされたのかなあ」
馬鹿にされてないよ、言おうとするや否や彼女は僕から目線を外し、本棚の方を見て立ち上がった。
あ、と晴美は小さく言ってから、本棚から漫画を3冊抜き取って
「この漫画、みんな話してて気になってたんだよね。借りてくね。次来た時に返すから」
「ちょっと待ってよ。それ、まだ読んでないから」
僕の止める声は届かず、晴美は部屋を出て行ってしまった。部屋の扉が閉まると、耳鳴りがするほどしんとした部屋が寂しく感じた。彼女がつけていた制汗剤の香りだけがそこに残る。
相変わらず我が儘だ。
-------
晴美とは、僕がこの街に引っ越してきた時に出会った。晴美と出会ったこの日は、僕が生まれてから覚えている最古の記憶になる。あの日は雪だった。
都心にも雪が積もる、朝から天気予報はその話題ばかりだった。母さんはため息を吐きながら、引っ越しのトラック動くかしら、なんて言っていた。
結局、想定していたよりも雪は積もらず、僕はがっかりしていた。雪が積もったら、大きな雪だるまを作ろうと思っていたのだが、靴の踵を埋める程度の雪では、僕の作りたかった雪だるまは作れそうになかったからだ。
思いのほか早く到着したトラックから父さんと母さんが荷下ろしをしている時、不意に「こんにちは」と声を掛けられた。
見れば、大きなスコップを持って雪かきをしているおばさんがいた。
「こんにちは」
僕は見慣れない大人に少しぎこちなく返事をする。
「お引越し?」
「うん」
「お隣の田村です。よろしくね」
「うん」
朗らかな声で話してくれるおばさんに、僕の緊張はあっという間にほぐれた。サクサクと音がして、音の方を見ると、雪がまだ積もっている道路から、おばさんの方へ駆け寄ってくる小さな女の子がいた。
「ママ」
走っていた彼女は、僕と目が合うと途端に走るスピードを緩め、おばさんの後ろに隠れた。
「この子、うちの子なの。晴美って言うんだけど、仲良くしてくれる?」
おばさんはその子の背中をぐい、と押しながら、僕へ問いかけた。
「うん、僕は八木悠太。友だちになろう」
晴美に握手を求めて右手を出したが、彼女の右手には小さな雪だるまが乗っていた。おどおどとその手をどうするか引っ込めたり出したりした後で、僕の手に雪だるまを乗せた。
「友だち、なる」
トラックのエンジン音にほとんど掻き消されてしまうほどの小さな声で彼女は言い、お礼を言う前に走って家の中に入ってしまった。
「あら、ごめんなさいね。悠太くん。うちの子いつもああなのよ。私に似ないで恥ずかしがり屋でねえ」
ガハハ、という音がぴったりな笑い声を上げてから、落ち着いたらうちに遊びにきてちょうだい、と言った。僕は返事をして、父さんと母さんに雪だるまを自慢しに行った。お隣のおばさんと話した、とお隣の家の方を指差したら、少しドアが開いていて、その隙間から晴美が小さく手を振っていた。僕は手を振り返してから雪だるまを指差し、ありがとう、と言った。
雪だるまは解けないように日の当たりにくい場所に置いておいた。それでも子供の手で作れるくらいの小さな雪だるまは、次の日にはなくなっていた。
それから、あの朗らかな晴美の母さんと僕の母さんは仲良くなり、僕らが一緒に遊ぶ回数は増えた。最初は話し掛けても小さな声でぽつりとなにか答える程度だった晴美も何度か遊ぶうちに段々と慣れてきて、あれがしたい、と自分の意見を言えるようになった。
僕は友だちとして、素直に晴美が自分の意見を言えるようになったことが嬉しかった。まるで妹の成長を喜ぶような、そんな気持ちだった。
それが恋心に変わったのはいつだったか。
ほんの些細なことだったと思う。
「悠くんは特別だよ」
彼女はよく言っていた。
その「特別」が、僕だけに向けられるものであって欲しいと、ある日ふと思ってしまったのだ。それが恋心だと気が付いたのは、14歳になって間もない頃である。
--------
漫画を次来た時に返す、と言ってから晴美は5ヶ月も僕の部屋に来なかった。
5ヶ月後、僕の部屋に来た晴美は、誰もが「大人しい」といった晴美ではなかった。おさげだった髪は下ろされてゆるく内側に巻かれており、銀フレームの眼鏡は外していた。会わない間に一気に大人びている。
「いっくんと付き合うことにしたんだ」
晴美の言う、いっくん--こと渡邊
樹とは、中学に入ってからあまり話していない。なにか決定的な出来事があったわけではない。家が近かったということだけで遊んではいたが、元々あまり性格が合うタイプではなかったのだ。
「そうなんだ」
晴美は地味な容姿をしていたが、整った顔立ちをしていた。眼鏡の分厚いレンズで小さくなっていた目は、眼鏡を外したことで大きく見えるし、大人しく人についていく姿も守ってやらなきゃいけない気にさせる。
いずれ誰かが晴美の良さに気付いてしまうとは思っていたが、よりにもよって、樹とは。
「いっくん、ずっと私のこと好きだったんだって。ついに私にも春が来たかって感じだよ」
やや俯きがちにそう言った晴美の顔はやや赤らんで見える。少し上がった口角を、唇を噛むことで下げようとするそのいじらしさから、彼女の高揚感を察することができた。
「良かったじゃん」
そう言うのがやっとだった。必死に口角を上げて笑顔を作ろうとしたが、声も手も震えていた。
「いっくんがね、悠くんに悪いことしたかなって気にしてたんだ。悠くんが私のこと好きなわけないのにね」
顔を上げ、まっすぐに僕を見る目は縋るようだった。僕がうっかり気持ちを伝えてしまわないように、樹との恋を応援してくれるように、そんな色々な願いを彼女は視線に込めていた。
「ないよ、ない。晴美は我が儘だし。僕は晴美のことをずっと友だちだとしか思ってないよ」
思ってもみないことを必死に口にした。友だち、のその先。考えたことがないといえば嘘になる。本当は晴美の横にいるのは、僕であって欲しいとずっと思っている。僕だけが知っている晴美を他の誰かが知ることが嫌だ。僕の知らない晴美になることが怖い。
「いっくんね、また悠くんと私と3人でまた遊びたいって言ってたよ」
きっと樹は気付いたのだろう。僕が晴美に抱いた気持ちに。そして、自分が晴美に抱いた気持ちに。だからこそ距離を置いたのだ。
そんな彼が今更。
「そうだね、また遊ぼうよ」
出来うる限りの笑顔を貼り付けて、僕は晴美を見た。晴美の目は潤んでいる。ごめんね、と彼女は小さな声で言った。そんなことを言わないでくれ。そんな目で見ないでくれ。
彼女はニットの袖口で目元を拭ってからにこりと笑った。
「あ、そういえばね、いっくん自分のこと『俺』って言うようになったんだよ。笑っちゃうよね。今まで『僕』だったのに、急に変わった」
「へえ」
いつの間に。僕の知らない間に樹は大人になっていた。
「しかも、絶賛反抗期。いつも親うざいって言ってる」
ここまで話して、ふと樹の話をし過ぎていることに気が付いたのか、晴美は目線を窓の外に一度やってからそういえば、と言った。
「悠くん、今日雪だね。」
窓の外には雨混じりの雪が降っている。
「あ、うん。そうだね」
「覚えてるかな、悠くんが引越してきた日も雪だったよね。あの日、せっかく握手しようとしてくれたのに、私手に雪だるま持ってたから握手できなくて。反対の手に持ち替えればいいのにどうしていいか分かんなくなって、
ふふ、と彼女は笑い、思い返すように僕の左上を見ていた視線を僕に戻す。そして続ける。
「あの時、ちゃんと握手しておけば良かったなあってずっと思ってたんだよ」
「雪だるまも雪だるまで嬉しかったけどね」
晴美は僕の前に右手を差し出した。
でも、僕は手を出せなかった。
「握手、できなくなるなんてねえ」
彼女は出した手を僕に伸ばしたまま、少し悲しそうな顔をした。彼女は目を細めてから、僕の遺影をそっと撫でた。
「あの事故さえ起きなければ、悠くんも、いつの間にか自分のこと『俺』って言うようになったり、親への文句言ったりしてたのかな」
枯れ始めた
「なんてね。ちゃんと前向くね。ごめんね、悠くん」
外の雪は、いつの間にか雨に変わっていた。
--------
僕から俺に変える瞬間を失ってしまった。
父さんをオヤジとも呼んでみたかったし、些細なことで苛々して母さんに当たり散らしてもみたかった。
僕には、いつまで待ってもその瞬間がやってこない。
しかし、14歳を迎えたばかりの僕にも思春期はやってきた。恋をしたのだ。
でも、この気持ちは誰にも言えないし、伝わらないままだ。
雪解雨 市河はじめ @kw_1
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