第22話 衝撃
私の手から指輪が無くなった。
全身の力が抜けていく。
私は今まで何をしてきたのかな。
ただその疑問だけが頭の中で繰り返させる。
何も残らない。
ただ絶望がそこにある。
何度も私を救った指輪は手の届くところにある。でもそれが物凄く遠い。
お腹の中の子は一生懸命暴れて私を励まそうとしてくれるけれど、もう私にはそれだけの力がなかった。
たった一つの指輪、それは私を暗示のように私を縛り付けていた。
それが心地よかった。大切にされていると感じた。ただ高木くんの隣に居られたらいいと思った。
そして大切なものを必死に守った。何があっても守ると決めていた。
だけど指輪が外された瞬間、全てが遠くに消えた。
何故高木くんと一緒にいる理由が分からない。
何故妊娠しているのか分からない。
何故私はそんなに指輪を大事にしていたのか分からない。
ただ今私にあるのは結果だけ。
優しかった高木くんはもういない。
大好きだった高木くんはもういない。
私を守ってくれる高木くんはもういない。
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私のお腹の子を守ってくれる人はいない.....
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あの時相談に乗ってくれた女医さんの言葉を私は思い出した。
“10代の子はみんな中絶する。そして5年後くらいに今度は不妊治療にやってくる。”
私にはその選択も出来ない。ここで堕ろしたら、次高木くんとの子供を見るたびに今日のことを思い出すと思う。
でも私はもう抵抗ができなかった。
結局は私は高校生で、籠の鳥。恋する事は許されてもそれ以上は許されない。
そしてそれが正しいという世の中で、実際それが正しい。
高校の担任はよく、「もう高校生は大人です。」と言っていた...。
だけど結局は私は子供で、大人じゃなかった。
私と高木くんの選択は全部間違いで、やってはいけないこと。
誰もそれを“大丈夫”だとは言ってくれない。
もう私を支えてくれる人はいない。
私は高木くんとの全てを諦めた。
「優香、これにサインしなさい。」
お父さんは私の目の前に書類を一枚出した。そしてボールペンが一本添えられる。
かつて私も書いた妊娠中絶手術同意書。
前回の私はお母さんのサインを勝手に書いたけれど、今度は本物の同意書。
たった一つの欄、私の名前を書く所だけが空白になっている。
ほんの10秒で書ける“さよなら”の契約書。
私はそれを見るだけでポロポロと涙が溢れてきた。
中絶を決意した辛かった思い、消せなかった命への思い、大切にした命への思い、そして....これから消えていく命への思い。
このお腹に込めてきた全ての思いが溢れてくる。
私は全ての思いにゆっくりを蓋をした。
そしてボールペンを手に取った。
ほんの数グラムのボールペンが重い。
心臓の音が
目から溢れる涙が鬱陶しい。
手が震えるのが鬱陶しい。
机の上にボールペンを走らせる音が響く。
一画、一画、ボールペンの先から血が漏れているように感じる。
ボールペンで書かれた黒色の私の名前。
私には赤ちゃんの血で書かれているように見えた。
「さようなら、あの世で会いましょう。」
私はもう二度と言わないつもりだった言葉を言った。
これから私は高木くんにお別れを言う。
私にとってもう高木くんとの大切な宝物で、この子無しに高木くんともう一度子供を作ろうとは思えないから...。
今までいろんな思い出をありがとう。
私は心の中で高木くんに伝える言葉を決める。そしてその言葉を高木くんに伝えようとした時....
「ふざけるなよ!!何が責任だ!!」
高木くんは突然隣で大声を上げた。
高木くんは目の前に置かれた指輪を取り、再び私の左手薬指にはめた。
「俺は高校生だ。だけど、どうにかして優香を幸せにするって決めたんだ。優香のことを考えてない?そんなわけないだろ。
俺が今日挨拶しようとしていた人が、無言で中絶同意書を差し出すような人だとは思わなかった。」
お父さんは黙って立ち上がり、拳を振り上げて高木くんを殴った。
殴った勢いで高木くんが座っていた椅子はそのまま後ろに倒れた。お父さんの拳の振り上げた拳はかなり強力だった。
高木くんは自身の体重とお父さんの拳の勢いで後頭部をフローリングの床に強く叩きつけられる。
まるでボーリングの球を床に落としたような鈍い音がリビングに響いた。
私は慌てて椅子から立ち上がって高木くんに近づいた。
「高木くん、大丈夫?」
私は床で痙攣している高木くんに話し掛ける。だけどちゃんとした返事がない。
普通ならここで返事が返ってくるはずなのにそれがない。
私は高木くんが危険な状態かもしれない事に気が付く。
「高木くん、高木くん。しっかりして!!」
さっきまでお別れをしようとしていたのに、私は気がついたら一生懸命に高木くんの名前を呼んでいた。
高木くんはピクピクと動くけれど、まともに返事をしない。
私は何度も何度も何度も高木くんの名前を叫んだ。
だけどまともに高木くんは返事をしない。
思いっきり高木くんの頬を叩いた。それでも高木くんは答えない。
私はフローリングを見た。わずかに赤い。
高木くんの頭を打った場所を確かめると、髪の毛が濡れていた。
触った手のひらは高木くんの血で真っ赤になった。
私は高校のクラブ活動で無理矢理出席させられた安全講習会を思い出す。
私は高木くんの胸に耳を当てた。心臓は動いている。口はわずかに動いていて、わずかだけど呼吸はしている。
「お母さん、救急車を呼んで!!」
部屋の端でオロオロとしていたお母さんは慌てて部屋に置かれている電話機の受話器を持ち上げた。
多分これで救急車は来る。
私はあの時習った事を必死に思い出す。
“頭を強く打った時は頭をなるべく動かさない。”
“出血は上から強く押さえて止める。”
“患部は冷やす”
私は急いで洗濯したばかりのタオルを持ってくる。そして冷蔵庫から保冷剤を取り出してタオルに挟んでそのまま高木くんの怪我をしている部分に衝撃を与えないようにゆっくり当てる。
あとは何をしたらいいのかわからない。でも息をしているなら揺すったりしないほうがいい。
ただ私は高木くんの名前を呼び続ける。
それしかできない。
保冷剤を挟んだタオルが少しずつ赤く染まっていく。私は泣き叫ぶけれど、高木くんの意思は
私は高木くんの手を握った。
もうそれしか出来なかった。
どれくらい時間がたったのかわからない。
ただ覚えているのは救急隊が家に入ってきたこと。
頭を固定するための器具を嵌められた高木くんをただ見るだけだったこと。
事情を知った救急隊が警察を呼んだこと。
救急車の中、ただ祈ることしか出来なかったこと。
私は病院の待合室で高木くんを待った。高木くんの
さっき必死に洗い流したのに、私の手には高木くんの血の匂いがいつまでも残っている。
高木くんがいる処置室に医者や看護師が何人も出入りする。もしかしたらかなり状況が悪いのかもしれない。
私は高木くんが最後に嵌めてくれた指輪をみる。
もしかしたら指輪のダイヤモンドが砕けてしまうかもしれないと思うと心が張り裂けそうなくらい怖かった。
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