第七集 酒と嘘と琴の音と

 平州へいしゅう刺史しし崔毖さいひより酒宴に招かれた小恬しょうてんは、暁鹿ぎょうかの心配をよそに一人で向かうという。


「崔毖って儒教倫理にうるさい相手だと思うんだよね。実際に慕容部ぼようぶへの対応を見ても分かるように夷狄いてき嫌いなのは確実だし、私一人の方が向こうだって心を許すと思う」


 一人で残されては手持無沙汰という部分も半分はあったであろうが、どこか不満そうな暁鹿は、懐から小さな筒状の物を取り出して小恬に手渡した。乾燥したあしの茎に刻みを入れた物。すなわち葦笛である。


「何かあったら、これを強く吹け。すぐに乗り込んでやる」

「ありがと。でも今回は大丈夫だと思うよ」


 夕暮れ時になってから客桟やどやを出た小恬は、桃色の襦裙じゅくんをひらめかせ、ほんの数十歩ほど先にある州府へと向かっていく。

 州府の入り口では、既に平州刺史・崔毖が待っており、互いに拱手きょうしゅを交わした。


「甥から話は聞きました。どうやら大変な目にあったとか……」

「幸いにして、こうして無事に襄平じょうへいに辿り着く事が出来ました以上、それも報われたと思っております」

「ささ、どうぞ中へ」


 酒宴には、崔毖の他に、先日顔を合わせた崔燾さいとうを始め、平州の役人が顔を揃えていた。

 酌をして回る女官や、役人たちの妻などもいる為、女性自体の姿はあるが、賓客としてなら小恬が紅一点である。しかも若く未婚の貴族令嬢となれば、必然的に多くの者が話しかけてくる。

 ここでも小恬は、虚実入り混じった受け答えを繰り返して危なげなく切り抜け、宴も終盤に差し掛かった。

 そこで小恬は、琴を演奏している楽師に話しかけると、自分に弾かせてほしいと申し出る。その様子は周囲の者たちの目を引き、彼女が琴の前に座ると、場が静まり返って彼女の演奏を待った。


 小恬が弾き始めた曲は、軽快で明るい雰囲気を持ちながらも、どこか物寂しさや幽玄さを漂わせている。その曲は「酒狂しゅきょう」と言った。

 これはこの時代より半世紀ほど前、王朝に仕えた阮籍げんせきが作曲したものと言われている。彼は魏の役人であったと同時に、竹林七賢ちくりんしちけんと呼ばれる思想家の筆頭であった。

 その頃の魏は、司馬しば一族による権力掌握が進んでおり、しん王朝へと禅譲ぜんじょうされる直前だった。友人や知人が政争に敗れて次々と命を落とす中、阮籍は政治派閥から距離を取り、酒浸りの生活を送って隠遁する事で、その天寿を全うしたのである。

 この酒狂という曲には彼の人生観が込められていると言われており、全てを忘れて楽しく酒を飲もうという陽気な雰囲気の中に、個人の力では覆らない乱れた世への悲哀が裏にある。


 教養としての知識も多い役人たちは、この曲に込められた意味を知っていた事もあり、都から断絶してしまった辺境で孤立しながら、こうして酒宴に明け暮れている自分たちの境遇を自然と省みてしまった。

 曲が終わると、空気が重くなって静まり返ってしまったが、そこで小恬は酒杯を手に微笑みながら呟いた。


とし寒くして、しかのち松柏しょうはくしぼむにおくるることを知る、と申しますれば、皆様ご立派にあられます」


 季節が寒くなって多くの樹木が葉を落とすようになると、そこで初めて松や柏は葉を落とさず緑のままである事に気づく。転じて逆境にある時にこそ人の真価が問われるという、孔子の言葉を引用した小恬は、夷狄によって孤立させられた平州にありながら未だに役目を務めあげている事は立派であると褒め称えたのであった。

 先んじた琴の演奏から連なるその言葉に涙腺を潤ませる者もあった。


 こうして小恬が大勢の役人たちに感銘を与え、その流れで酒宴はお開きとなった。挨拶をして役人たちがぞろぞろと帰っていく中、小恬はそのまま席に残った。

 ひと通りの見送りを済ませた崔毖が、そんな小恬を見かけて話しかける。


「如何なされた? 酔いが回りましたかな?」

「いいえ、大丈夫です。ただもう少し、杯を重ねたいと思いまして。よければご一緒に」

「それでは一献」


 酒宴における発言や振る舞いで、すっかりと小恬に心服している様子の崔毖は向かい合って座った。小恬は二つの杯に酒を満たし、片方を崔毖に差し出して互いに杯を進めた。しばらくの間を置き、ふと思い出したかのように話題を振る小恬。


「そういえばここに至るまでに、昌黎しょうれい郡で夷狄の軍勢が争っておりました」

「えぇ、全く夷狄という奴らは野蛮でどうしようもない」


 そう切り返した崔毖に、小恬は口元を袖で隠してわざとらしく笑ってみせた。


「州刺史もお人が悪いですね」

「……どういう意味ですかな?」

「"事のことわりれば、すなわち労せずして成る"、でございましょう」

「これはこれは、小姐おじょうさんにはお見通しですな。左様……。"諸侯を屈する者は害をもってし、諸侯を役する者は業を以てし、諸侯をはしらす者は利を以てす"」


 物事の因果関係を正確に読めば、苦労せずとも利益を得る事が出来るという韓非子かんぴしの言葉で問いかけた小恬に対し、相手を屈するには力を使い、働かせるには明確な仕事を与え、動かすには利益をチラつかせるという孫子そんしの言葉で返した崔毖。その顔は酒で赤くなりつつ不敵な笑みを浮かべていた。


「夷狄同士で潰し合ってくれれば、必然的に我らに利がある。また戦で昌黎が乱れれば夷狄の所に逃げ込むような血迷った民衆の目も覚め、我らの所に流れてきましょう」


 その崔毖の言葉は、もはや自供にも等しかった。小恬は再びわざとらしく笑ってみせた。


「全く、お悪い人でございますわね。でもワタクシは、そういう方は好きでしてよ」


 そう言って立ち上がり、崔毖の胸に飛び込む小恬。


「あ、ちょ……、小姐おじょうさん、酔いが過ぎますぞ……」


 若い娘にいきなり抱き着かれて慌てる崔毖だったが、彼はそのまま眩暈を覚えて意識が遠のいていった。

 そうして床に伏せて昏倒した崔毖を、小恬は静かに見つめながら、まだ脈がある事を確認した。

 先ほど崔毖に差し出した杯に、生薬のひとつである曼陀羅花マンダラゲ(チョウセンアサガオ)の粉末を微量に混ぜておいたのである。

 これは後世の西洋医学において全身麻酔の成分にも使われる、強い麻酔作用がある物だ。幻覚作用などもある為、時代によっては自白剤などにも使用された危険な薬物である。

 小恬は静かに立ち上がると、部屋の外にいるであろう家人を呼んだ。


「どなたか! 州刺史が酔いつぶれてしまいましたわ! 寝室まで運んであげてくださいまし!」


 こうして、州刺史が先に酔いつぶれてしまったから客桟に帰りますと挨拶をして、危なげもなく州府から出たが、途端に手の震えが止まらなくなった小恬。

 策に自信はあったが、このような大芝居を打ったのは初めての経験である。必死に平静を装っていたが、内心では緊張で心臓が張り裂けそうな気分であった。

 だが結果としては大成功。州府の周りの噂話どころか、本人の口から明確な自供を引き出す事に成功したのである。






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