第六集 令嬢見参

 襄平じょうへいの城門に、たちが現れてから、襄平の市中はもちろん、州府に噂が届くまでそれほど時間はかからなかった。

 絹で出来た桃色の襦裙じゅくん(ツーピースドレス)に身を包んで高笑いを響かせる小柄な令嬢。そして巨大な背包と二本の剣を背負い、ぎこちない片言で喋る、付き人と思われる胡族こぞくの女従者だ。


「はいぃ? ワタクシを知らないんですの!?」

「たわけぇー。こちらにおわすおかたを、どなたとこころえるぅー」

「そう! 幽州ゆうしゅう臨渝りんゆ耿家こうけの令嬢、耿小恬こうしょうてんとは、ワタクシの事でございますわよ?」

「ずがたかいわぁー」

「部屋を用意して州刺史に取り次ぐくらい! すべからく! さっさとやってくださいませんこと!?」


 襄平は別に戦時下であるわけでもなかった以上、城門の出入りがそこまで厳しくされていたわけではなかった。しかし余所から来た流民は大抵の場合、簡易宿舎などで寝床が用意される程度である。

 しかしこの自称令嬢の出現は、その謎の勢いに押され、あれよあれよと政庁に程近い客桟やどやの上等な部屋が用意され、そのまま平州へいしゅう刺史ししの耳にまで届く事になった。


 そんなこんなで客桟の部屋に入った小恬と暁鹿ぎょうかは、ようやくくつろげるに至ったわけだが、余計に疲れた様子を見せる暁鹿と違い、小恬はどこか興奮気味で襦裙の薄いすそを宙に浮かせながらくるくると舞っている。


「気持ちいい! 何か気持ちいい! 何かが目覚めそう!」

「いや、しかし、こんな目立つ方法で入って良かったのか……?」

城市まち外れの簡易宿舎に押し込まれた所で、政庁内部の声なんて聞こえないでしょう? 何よりもそんな雑居房みたいな所、私の貞操の方が危ないし!」

「話には聞いていたが、漢人の女が貞操とやらを気にするのは本当だったんだな……」

「私も話には聞いてたけど、胡人の女は本当に気にしないわけね……」


 儒教倫理の強い漢人の社会では、女の貞操は非常に強い意味を持つ。婚前に処女を捨てるような者は、奴婢ぬひ娼妓しょうぎと同一視されて軽蔑された。それが例え本人に責任の無い強姦の類であったとしても、世間体が悪くなるとして婚約が破棄されたり、嫁の貰い手が無くなったり等も日常的な話だった。

 体を汚されるくらいならば舌を噛んで自死を選ぶほどの女性も多かったのである。


 一方で、そうした宗教的倫理観の無い胡族では、男女の性交渉は少年少女の遊びの延長のような牧歌的なものであった。結果として子供が出来れば、それは天の授かりものだとして夫婦となるのである。

 しかし力こそが正義という胡族の中では、当然のように夜這いや強姦によって女を得ようとする男も多い。だがその結果として子供が出来たならば、女側の両親も天の采配だとしてそれを認めるのが普通の事であった。

 そもそも医学も無く、食糧も安定せず、他部族との戦争に明け暮れる胡族においては、生まれつき病弱な子供はそもそも大人にすらなれない。運よく大人になっても弱ければ、男なら戦場で使い捨ての駒にされ、女なら強引に手籠めにされて子を産む腹となるしかない。

 だが同時に、女が政治や軍事に関わる事を無条件に忌避されていた漢人社会と違い、胡族ではそれがない。むしろ力さえあれば、女であろうと部族を率いたり、前線で戦う戦士として尊敬され認められたわけだ。

 弱いのが悪い、生き残りたければ強くあれ。自分の自由に生きたければ誰よりも強く。そういう理屈である。まさに究極の弱肉強食社会だ。


 漢人の社会も、胡族の社会も、後世から見れば両極端極まりない。そうした文化的隔絶が、この時代の漢人と胡人が分かり合えない原因のひとつになっていたのである。


「えーと、その……、暁鹿もやっぱり、経験……あるの……?」

「ん? か? あるぞ。子を孕んだ事はまだないが」

「あ、あぁ……、そうなんだ」


 どこか言いにくそうに訊いた小恬に対し、表情を変える事もなくサラリと答える暁鹿。この辺もまさに漢人と胡人の感覚の違いが現れた部分と言える。


 そんなやりとりをしている間に、州府からの遣いを名乗る者が部屋にやってきた。その相手は三十歳前後の文官風の男で、平州刺史・崔毖さいひの甥にあたる崔燾さいとうと名乗った。


「幽州臨渝から来たとお聞きしたのですが、我が叔父は記憶にないと困り果てておりまして……」


 そうした相手の反応も、小恬としては想定済みであった。城門の時とは打って変わり、落ち着いた態度で切り返す。その様子はどこか悲しげで、後ろに黙って控えている暁鹿からすると、滑稽さと怖さを同時に感じるほどであった。


「えぇ、そうでしょうね……。我が祖父である耿奬こうしょうは、幽州のおう刺史には疎まれておりましたから、側近とは言えぬ地位でした。引き合わせられた事もなかったでしょう。されど王刺史に逆らう事は忠義に反するとして、心苦しくも忍従していたのです。そんな祖父の苦悩を、ワタクシはずっとそばで見て参りました。崔刺史のお立場も、ワタクシには痛いほどわかります……。今は亡き祖父の喪が明け、幽州が夷狄の手に落ちた今、身を寄せるのは崔刺史のもとしかないと思い至り、こうして襄平へと参りました。もしもお邪魔だというのなら、ワタクシも潔く立ち去る所存です」


 そう言って小恬は瞳を潤ませた。崔毖の立場や現状を鑑みた上で、虚実を交えた泣き落としといった所である。

 小恬の生家である耿家は、この時代の制度である九品官人法きゅうひんかんじんほうにおける地方貴族の最高位・郷二品きょうにひんには至っていなかったが、落ち目だったとはいえ臨渝における貴族であった事に嘘は無い。その点で怪しまれて調べられても問題は無かったのである。

 崔燾もまた自身の叔父が州の内外の臣民から見限られて孤立していく様を見続けていた事もあり、それを忠義を貫いた結果であると評されて涙腺が緩んだ。


「あなたもご苦労なされたのですね……。やはり分かってくれる人は分かってくれるものですな……。いらぬ疑いをかけてしまった事をお詫びいたします。そして必ずや叔父にも伝えます。どうぞお寛ぎくだされ」


 そう言って深々と拱手礼をした崔燾に、小恬もまた丁寧に礼を返して見送った。

 崔燾が袖で涙を拭いつつ客桟から出たのを窓から確認すると、交渉の様子を黙って見ていた暁鹿が溜息をつきながら言う。


「それにしても欺くのが上手いものだ……」

「兵は詭道きどうなり、ってね」


 戦場とは騙し合いである事を言った孫子そんしの一節を呟きながら不敵に笑う小恬。実際にはその言葉の後には「のうなるもこれ不能ふのうしめす」と続く。つまり真の実力は隠しておくという意味であるが、今回の場合はむしろハッタリに近かった。


 そんな小恬に対し、平州刺史の崔毖から酒宴への誘いがあったのは、それから三日後の事であった。





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