蛍雪の功(明視点)
(そろそろか……)
明は筆を走らせていた手を止め、音を立てないよう細心の注意を払って窓から外を覗き込む。
(やっぱりな)
地面に蹲るようにして眠る雨蘭が、室内から漏れた灯りにぼんやり照らされている。
彼女の周りには古びた巻子本が散らばっていた。勉強途中で力尽き、地べたで眠ってしまうのが今や彼女の日課なのだ。
毎日、毎日ご苦労なことだと溜息をつき、明は窓際の棚上に置かれた灯りを消す。わざと大きな音を立てて御簾を下すことも忘れない。
そうすることで雨蘭は居眠りから目覚め、宿舎へと引き上げていくのだった。
「明様、おやすみなさい」
返事はないと分かっているのに、彼女は立ち去る際に必ず声をかけていく。
相変わらず馴れ馴れしい女だとは思うが、不思議と嫌な気にはならない。
(馬鹿な女だ。夜遅くまで独りで学んだところで大して身にならないだろうに)
三か月の間に読み書きできるようになるなど無茶な話だ。
そのうち音を上げて「明様、もう少し易しい基準にしてくれませんか」と泣きついてくるかと思ったが、田舎娘は文句の一つすら言わず、睡眠時間を削って勉強しているらしい。
(これではまるで俺が性悪男だな)
無理難題を振りかけたのは明なので、性悪男と思われても仕方ない。
――それどころか、廟に集められた候補者たちは明のことを既に『態度の悪い補佐官』とでも思っているはずだ。
女に好かれるつもりはない。だから顔も出さずにいる。
それなのに、あの田舎娘に性悪男だと思われることを何故こうも躊躇うのだろう。
明は舌打ちをして、執務机の筆を片付けた。
雨蘭が帰るのを待っている間暇なので、梁に頼まれた仕事を柄にもなくこなしてしまっている。
優しさで雨蘭を待っているわけではない。寝ようとしたところでどうせ眠れないので、時間を潰しているだけだと自分に言い聞かせる。
机の灯りを消そうとした時、誰かが離れに近づいてくる音がした。
「明、起きてる?」
「こんな夜更けになんだ」
幼馴染は軽く扉を叩いた後、勝手に鍵を開けて入ってくる。
寝巻姿でないことからして、この時間まで仕事をしていたのだろう。信じられないが、彼にとってはそれが幸せなようなので明は口を出さずにいる。
「頼んでたやつ、いつ頃できそう? できる限り早く承認をもらいたいみたいで」
「署名ならもうした。机に置いてある」
そう告げると、梁は不思議な色をした目を大きく見開き、瞬きを繰り返す。
「もう終わったの? きちんと目を通してくれた?」
「ああ」
梁はその場で巻子本の中身を確認し、驚いた様子で「本当だ」と呟く。
「最近楽しそうだね。何か良いことでもあった?」
脳裏にふと雨蘭の笑顔が浮かび、明は顔を顰める。
「……何もない」
「そう」
何もない。雨蘭が毎晩勉強しに来ること以外はいつも通りだ。
田舎娘の、無駄な努力は認めてやっても良いが、それだけである。
「おやすみ」
梁は何かを見透かしたように目を細めて笑うと、巻子本を持って出ていく。
残された明はしばらくその場に立ち尽くし、胸の奥に渦巻く感情を何と呼ぶべきか考えていた。
蛍雪の功〈了〉
雨蘭が勉強しに来るようになり、一生懸命頑張る姿を見て明の心が動き始める頃のお話でした。
書きたかったのですが、書籍版にも入れられなかったのでようやく供養できました!
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