エピローグ
それって一体誰のこと!?
(ついにこの時が来てしまった)
今日は後宮入りの日だ。緊張のあまり口が渇いて仕方がない。
(よりにもよって移動が牛車とは……遅い、遅すぎる!!)
雨蘭は牛が牽く屋形の中にぽつんと座り、王宮にたどり着くのをただひたすら待っていた。
廟を出発して随分経つが、一向に到着する気配がない。歩いた方が早いくらいの進度だ。
お姫様も楽ではないな、と雨蘭は思う。
雨蘭の牛車は王宮の武人たちに囲まれ、厳戒態勢下にある。それに続いて、嫁入り道具を乗せた複数の車もぞろぞろ王宮に向かっていた。
何事かと道に出て眺める民衆は、まさか田舎娘の嫁入りだとは露ほども思わないだろう。
(女官たちに舐められないようにしないと。最初が肝心って梅花さんも言っていたな)
雨蘭が緊張しているのは、今日が後宮の使用人たちとの初顔合わせになるからだ。
長年王宮に仕えている女官たちはかなりの力を持っていて、舐められたら最後、主人に対しても容赦なく嫌がらせをしてくるだろうと梅花に脅されている。
できる限り仲良くしたいものだが、雨蘭の場合、出自からして望み薄である。自分より格下相手に仕えることになり、反感を抱く者も多いだろう。
牛車がようやく王宮に辿り着き、これから暮らすことになる翡翠宮と思わしき建物の前で停まる。
「雨蘭様、こちらにどうぞ」
楊美と同じような年頃の女官に案内され、雨蘭は外に降り立った。
一生懸命手入れした雨蘭の髪を、さぁっと風が撫でる。
まるで皇帝訪問の練習風景を見ているかのようだった。女官たちが横一線に並び、雨蘭に対して深く頭を下げているではないか。
そのような真似はしなくて良いと言いたかったが、梅花に立場を自覚して堂々と振る舞えと言われていたので、雨蘭は精一杯、高貴な女性の真似をした。
「素敵……」
翡翠宮を前に、雨蘭は呟く。
翡翠宮の名の通り、美しい翠で塗られた飾り門があり、その奥に落ち着いた造りの建物が広がっている。
「
女官のまとめ役らしき女性が紹介したのは、まだ若く初々しい少女だった。恐らく雨蘭よりも歳下だ。
「これから雨蘭様の世話役を務めさせていただきます、雪玲です! まだ王宮に来たばかりの若輩者ですが、よろしくお願いします」
頬を紅潮させ、緊張の面持ちで挨拶をする可愛らしい女官に、雨蘭はほっとする。
「よろしくお願いします。貴女のような若い子がいてくれて良かった」
建物の中は雪玲が一人で案内してくれた。若い女官をつけることになったのは、意地悪ではなく明の配慮らしい。
「雨蘭様の嫁入り道具、数もですけど、素晴らしい品々でしたね」
「皇太子が贈られたそうよ。寵愛っぷりが窺えるわね」
「気を引き締めてお仕えしなければ」
時折、女官たちが物陰でひそひそ話す声が聞こえてくる。ひとまず雨蘭の文句を言っている人間は一人もいないようだ。
「女官の間では雨蘭様の話題で持ちきりです。なんでも、庶民の出であるにも拘らず、壮絶な女の戦いを制し、皇帝にも皇太子にも愛されているのだとか!」
雨蘭が女官たちの内緒話を気にしていることに気づいたのか、雪玲は無邪気に話しかけてくる。
「え、ええ……?」
「聡明で美しく、優しい方だと聞いていました。そんな方にお仕えできるなんて幸せです」
(この子は一体誰の話をしているのだろう)
梅花と間違えていないかと、雨蘭は小首を傾げる。
建物の中を一周して戻ってくると、嫁入り道具が次から次へと運び込まれていた。それだけでなく、玄関付近は何やら騒がしい。
「明啓様! 私共が呼んで参りますので奥の部屋でお待ちを!」
「顔を見に来ただけだ、すぐに戻る」
「お茶をお出しします、こちらへどうぞ」
(あ、明様)
長身の男は雨蘭の存在に気づくと、丁重にもてなそうとする女官を振り切ってやって来る。
「無事着いたか。ここはどうだ、快適に過ごせそうか?」
「はい。色々とお気遣いをありがとうございます」
「梅花もじき到着するだろう。困ったことがあれば何でも言え」
側に控える雪玲は、きらきらした目でこちらを見ている。
玄関口の若い女官たちも、憧れや尊敬の眼差しを向けてくれているようだった。
「あの、何だか私のことが誤解されているようなのですが……」
「そのようだな。噂に恥じぬ、立派な妃を目指してくれ」
明はそう言ったものの、笑いを堪えるのに必死なようだ。
雨蘭が噂と掛け離れた人間であることを、彼が一番良く知っているのだから仕方ない。
「今に化けの皮が剥がれるのでご期待ください」
「翡翠宮から悲鳴が上がるのも時間の問題だな。楽しみにしておく」
雨蘭はその夜、早速翡翠宮を抜け出した。忍び込んだ調理場で、明の計らいにより移動してきた萌夏と再会を果たすことになるのだが、それはまた別のお話。
〈了〉
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