第35話 はじめま……あれ?

「ただいま戻りました」

「あれっ、早かったね。もう大丈夫なの?」


 調理場に戻った雨蘭を見て、萌夏は驚いた顔をする。


 老人に戻りなさいと言われ、調理場で働いていることをどこで知ったのか不思議に思いながらも雨蘭は戻ってきたのだ。


「はい、少し気分転換ができたので」


 問題は全く解決していないが、桃饅頭の老人に再開し、畑を褒めてもらったことで気持ちは軽い。


「今のところ、料理への文句は来ていないですよね?」

「たぶん」


 萌夏と雨蘭は料理長の様子をちらりと窺う。いつもなら片付けに残らない男が、腕を組んで椅子に座っている。

 

 頭が垂れているので居眠りしているように見えるが、皇帝に出した料理に万が一問題があった時のため、ああして待機しているのだろう。


「こんなもの食えるか! ってことなら、とっくの昔に話が来てると思うよ。皿も空になって戻ってきてるから、心配無用さ」

「それなら良かったです」


 格子状の窓から調理場の前を集団が通り過ぎていくのが見えた。

 候補者たちはここを通らない。服装からして正規の使用人だろう。

 

「あ、ちょっと待ってて」


 萌夏は集団の中に知り合いを見つけたらしく、洗い物を置いて飛び出して行った。


 雨蘭が洗い物を代行してしばらく経つと、萌夏は最新情報を入手して戻ってくる。


「食事が終わって、皇帝はしばらく休まれるんだってさ。時間が空くから部屋に戻って待機するらしい」

「お腹いっぱい食べた後は眠くなりますもんね」

「ウチらの仕事もこれでひと段落だね」


 皇帝の食事は何事もなく済んだようだ。

 萌夏が天井に向かって両腕を伸ばすと、ボキボキと心配になる程の音がした。


 朝からピリピリしていた調理場に一時の平和が訪れた。はずだったのだが――


「料理長」


 現れた黒い服の男に、その場にいた全員が注目する。

 声をかけられた料理長は椅子からパッと飛び起きた。


「貴方自らいらっしゃるということは、料理に何か重大な問題がありましたか?」


(もしかして、料理長は明様の身の上を知っていたのかな)


 いつもとは別人に見える料理長の腰の低い対応を見て、雨蘭は考える。


「いや、良くやってくれた。食べる人のことをよく考えた食事で素晴らしい、という言葉を預かっている」

「それでは如何なさいましたか……」


 明は洗い物をする雨蘭を見た。嫌な予感がする。


「ちょ、あれ! 黒髪の、薄墨色の目をした美男子!」


 萌夏は興奮気味に言うと、肘で雨蘭を小突いた。


「雨蘭、俺と来い」

「……はい」


 雨蘭は洗い物を止め、布で手を拭い、明の言葉に素直に従う。

 萌夏は目と口をまん丸に開いて、雨蘭が歩いていく様子を見つめている。


(ああ、ついにバレてしまった。使用人に呼びに行かせるとか、もう少し気遣ってくれても良かったのに)


「どこへ行くのでしょうか」


 雨蘭は小走りに明を追いかけた。

 移動中、女性とすれ違う度に黄色い歓声が上がるが、彼は全て無視して足早に通り過ぎる。


「皇帝がお前を呼んでいる」

「えっ!? 私、何かしましたか?」

「気づいてないのか。お前は呆れるほど疎いな」


 改めて記憶を辿ってみるが、皇帝に呼び出されるようなことをした覚えはない。


「疎いと言いますが、明様が皇太子かもしれないことには、薄々気づいていましたよ。でも、考えないようにしていました」

「聞いたのか」

「今日明かされたのでしょう?」

「老いぼれじじいが勝手にしたことだ」


 明は皇帝に対しても舌打ちする。酷い暴言だが、身内なら許されるのだろうか。


「何故正体を隠していたのですか?」

「正体と顔を隠していたのは女避けのためだ。梁を表に立たせれば、見た目と地位にしか関心のない人間は、都合良くあれを皇太子だと思うからな」

「つまり、敢えて立場を入れ替えていたのですね」


 以前梁が仕事をしていた建屋の中にある、頑丈な扉の前で明は立ち止まる。

 扉は武装した武人二人に守られており、ここが目的地と察せられた。


「そういうことだ。舐めた態度を取るお前には、何度も言ってやりたいと思ったがな」


 彼はにやりと笑い、雨蘭の額を指で弾く。


「開けてくれ」


 明が頼むと、武人たちはさっと扉を開けてくれる。


(この扉の先に皇帝が……)


 雨蘭はごくりと唾を飲み込む。明に続いて一歩、二歩、踏み出して、部屋に足を踏み入れたところで雨蘭は床に伏して挨拶をした。


「お初にお目にかかります! 雨蘭と申します!」

「そんなことはしなくていい、顔を上げて前を見ろ」

「ですが、皇帝ですよ?」


 不安げに明を見つめると、彼は「俺は皇太子だが」と言う。ごもっともだ。


「雨蘭や、こちらを見なさい」


 前方から声が掛かる。つい先程聞いたばかりの声だ。

 まさかと思い雨蘭が顔を上げると、壇上の立派な椅子の上には、見覚えのある顔の老人が座っている。


「……え? 桃饅頭のおじいちゃん? おじいちゃんが、恵徳帝?」

「すぐ分かると言っただろう」

 

 皇帝は悪戯っぽく微笑んだ。


 金の羽織と帽子を身に纏い、先程までと姿は異なるが、間違いなく桃饅頭の老人だ。

 彼の横には、いつも老人を迎えに来る人物が控えている。


「そういうことだ。お前を廟に送り込んだのも、あの人のくだらない悪戯だ」


 思考が停止した雨蘭の横で、明がため息混じりに言う。


 皇帝は「悪戯ではない、私は初めから本気だった」と孫の発言を否定した上で、「少し話をしよう」と呆然と佇む雨蘭に声をかけた。

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