第34話 桃饅頭のおじいちゃん
皇帝訪問までの一週間があっという間に過ぎていく。
皇帝に出す料理のことで雨蘭は忙しくしていたが、明の忙しさはその比ではないようで、事件の真相解明は一旦保留となっている。
雨蘭の前菜がどうなったかというと、料理長から見事合格を頂いた。
それどころか雨蘭の話を受け、彼は葛藤しながらも他の品を見直したようである。
雨蘭は「私の仮定が本当に正しいかは分からない」と告げたが、料理長には「梁様が何故お前を指名したか分かった気がする」と過大評価を受けてしまった。
もし雨蘭の読みが外れ、皇帝が激怒したら――定職に就くという雨蘭の夢は潰えるだろう。
大緊張の訪問当日、雨蘭はいつもの格好で調理場にいた。
芋のスープを作る必要があることに加え、演習のように見学をするわけにはいかない。
どうせ皇帝の目に触れないのだから、いつも通りの服装で問題ないと雨蘭は考えたのだ。
「ねぇ、さっき給仕の知り合いに聞いたんだけど、皇帝だけじゃなくて、皇太子もいるらしいじゃん!」
萌夏が卵を泡立てながら、興奮気味に話しかけてくる。
当日までに何度も改良を重ねた渾身の芋スープが運ばれていくのを見届け、ホッと一息ついたところだった。
いつもの雨蘭であれば、当たり障りのない受け答えをして会話を終えただろうが、皇太子という言葉を聞いて過敏に反応する。
「皇太子!? どのようなお方か、聞きましたか?」
「短めの黒髪に薄墨色の吊り目、黒い官服で超美形だって。王宮で流れてた噂は正しかったみたい」
(あれ……やっぱり……)
萌夏の話を聞き、雨蘭の顔は引き攣った。
「他に何か聞きましたか?」
「実はずっと廟に滞在されてたらしいよ! 集められてる女たちが、今更気づいてぎゃーぎゃー騒いでるってさ」
がつん、と頭を殴られたかのような衝撃が走る。
(あああああ。これはもう、十中八九そう。皇太子って明様のことだよね!?)
そっと蓋をしていた恐ろしい可能性が、ここへ来て自ら飛び出してきてしまった。
「北の地区にいるのって、もしかして皇太子なんじゃない? 雨蘭、それらしき人を見かけなかった?」
「さ、さぁ……記憶にありません」
きっと今頃、他の候補者たちは本物の皇太子が誰であるかを知り、驚きと興奮に震えているだろう。
一方、雨蘭は後悔と恐怖でガタガタと震えている。
「アンタ、大丈夫?」
「緊張していたのか、急に疲れが。萌先輩、少し休憩をいただいても良いですか?」
「行ってきな! 後のことはウチらに任せといて」
雨蘭はふらふらと廟の外に出た。心安らげる場所と考えた時に、一番に浮かんだのはやはり畑だ。
皇帝はまだ食事中だろう。加えて、畑は見学予定に組み込まれていないらしいので、出くわしてしまう心配もない。
当然と言えば当然だが、皇帝のために一生懸命準備したのになぁ、と緑でいっぱいの畑を眺めて雨蘭は落胆する。
(戻りたくないな。他の候補者たちにまた怒られるだろうし、食事の評判を聞くのも怖い)
土の入った麻袋の上に腰を下ろし、これからのことを考えた。
これまで明にしてきた数々の無礼を、彼自身はきっと嫌味一つ言う程度で赦してくれるだろう。
(梁様は畏まらなくて良いと言っていたし、明様も本気で俺を敬えと思ってたら、正体を明かすよね)
恐ろしいのは他の候補者たちだ。
明が美男の皇太子だと知れた今、彼女らがどのような暴徒に出るか分からない。
梁の毒茶事件の後、梅花が春鈴と香蓮を牽制することで一定の平和が保たれていた。
もしかしたら、雨蘭と仲良くしてくれている梅花まで、今日を境に敵に回ってしまうかもしれない。
(これまでは可愛い嫌がらせで済んでいたけど、今度こそ本気で来るかもしれない)
廟へ来て初めて講堂に集められた際、女性たちが放っていた殺気を思い出し、雨蘭は夏なのにぶるりと震える。
「そこのお嬢さん」
「はい?」
しわがれ声だったので、燕かと思って顔を上げた。
しかし、雨蘭の前にいるのは燕よりも健康そうで、仙人のような白い髭を生やした老人だ。
「桃饅頭のおじいちゃん!?」
声が裏返った。意外な人物の登場に驚き、慌てて立ち上がる。
「おお、やっぱりあの時のお嬢さんか。雨蘭と言ったな」
「どうしてここに? また家出ですか?」
雨蘭が心配をすると、老人は朗らかに笑う。
「少し廟に用があってな。堅苦しくて疲れてしまった」
「それで抜け出してきたのですね」
つられて雨蘭も笑った。
(おじいちゃん、もしかしたら燕様のように、皇帝のお知り合いかな)
今日廟に来ているということは、皇帝の御一行と共に行動しているのだろう。
失礼があってはならないと気を引き締める。
「良い畑だ」
賞賛の言葉を聞き、雨蘭は瞬時に元気を取り戻す。
「ありがとうございます! 皇帝に見ていただきたくて、一生懸命頑張りました」
「慣れない環境でよく頑張っていると聞いているよ」
「皆さんに良くしていただいているお陰です」
「私の贈り物は気に入ってくれたかな?」
老人はにこにこ笑いながら尋ねた。
「はい! 桃饅頭にあのようなお礼をくださり、ありがとうございました。今日は裏方仕事だったので、見窄らしい格好で済みません……」
雨蘭はいつもと同じ、冴えない服装を選んだことを後悔する。贈り主に会えるのなら、着飾っているところを見せたかった。
「見た目の美しさは大して重要ではないと私は思っている。大事なのは本質だ」
「は、はい」
「中身の美しい人であり、中身を見て判断できる人であってほしい。そう願っているが、お嬢さんはやはり私の見込み通りだった」
(えーっと、見込み通りとは?)
使用人の素質が十分ということだろうか。
恐らく老人は雨蘭に「気にしなくて良い」と言ってくれているのだと思うが、どうも話についていけていない気がする。
雨蘭が小首を傾げていると、逞しい男が茂みを掻き分け現れた。どこかで見たことのある光景だ。
「すぐにお戻りください」
「早かったな、
「いつものことですから。燕様と一緒の時は尚更……」
迎えに来た男は、深い、深い溜め息をつく。
「仕方ない、戻るとするか」
「あの、お名前を教えてもらえませんか?」
雨蘭は去り行く背中に問いかける。
「なに、すぐに分かる。お嬢さんは台所に戻りなさい」
老人は楽しそうに言うと、そのまま行ってしまった。
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