第32話 なぜ貴方が
「はい。安心して、毒は入っていないわ」
「ありがとうございます」
静はお茶を出してくれる。温かくも冷たくもないそれは、苦いような、甘いような独特の味がした。
彼女に連れられて向かった先には、背負って歩けるほどの木箱が置かれているだけだった。
雑踏の中、椅子に座った高齢の男が、眠るようにして木箱の番をしている。
雨蘭と静も、お尻がはみ出すほどの小さな椅子に座って向き合った。
「貴女はなぜ事件のことを調べているの?」
静は乱れた髪を結い直しながら、雨蘭に尋ねる。
「私、梁様が倒れた場にいたんです。それで、軍の出した結論に納得がいかない方――梁様の幼馴染に真相を調べるように言われました」
「そう。掘り返したところで良いことはないと思うけど」
彼女の顔色が曇る。間違いなく、何かを知っているようだ。雨蘭はぐいっと茶を飲み干し、直球勝負に出た。
「黄藤草のこと、聞いてもいいですか?」
「混入したのは間違いなく私」
髪を結び終えた静は、短く息を吐く。
聞き出すまでに時間を要するかと思ったが、あっさりと教えてくれた。
「……意図的に、ですよね」
「そう。一杯飲んだだけでは死なないぎりぎりを狙って調合した」
「何故そのようなことを?」
「彼に頼まれたからよ」
「彼?」
「梁様」
静の口から飛び出した意外な人物の名前に、雨蘭の頭は真っ白になる。
「そんな、どうして……」
「どうするつもりだったのか、私も知らないわ。本人が飲む羽目になったのは偶然で、本当は飲ませようとしていた相手がいたはず」
「そのこと、軍の取り調べでは話していないのですよね?」
「ええ。事故と言い張った」
容疑者の静は事故であると主張する。
被害者の梁は、真相が明るみになる前に静の主張を受け入れ、関係者に厳しい処罰を与えないよう申し出た。
(だから皇帝軍は事件からあっさり手を引いたんだ)
「静さんは仕事熱心な方だったとお弟子さんに伺いました。何故梁様の頼みを受けたのですか?」
雨蘭が彼女の立場だったら。例えば、丹精込めて育てた野菜に毒を混ぜろと言われたら、絶対に断るだろう。
どれだけお金を積まれたとしても、生産者の誇りにかけて許せることではない。
「正直報酬には興味がなかった。後継も育ってあの場所に未練がなかったことと、結局は我が子可愛さ故に、かな」
彼女は自嘲の笑みをこぼした。
「えええ!? 静さんは、梁様のお母様なのですか!?」
「私が勝手に母のような存在だと思っているだけ。彼は拾い子なの」
驚きの情報に雨蘭は目を見開く。
「梁様は皇帝のお孫さんでは?」
「恵徳帝がどこかで拾ってきた子だから、孫のような存在かもしれないけれど違うわ」
何もかも初めて知ることだ。
梁の存在に騒いでいた他の候補者たちも、このことを知らないのではないだろうか。
「そう、なんですね……。では、梁様が毒を飲ませたかった相手とは、一体誰なのでしょう」
雨蘭の知る梁は穏やかで優しく、いつも笑顔で、人を傷つけるような人間には決して見えない。
彼が誰かに毒を飲ませようとするなど、とても想像ができなかった。
「恵徳帝の本当の孫かもしれないわね」
「梁様は皇太子ではない?」
静は寂しそうな表情で頷いた。
「誰よりも努力をして、相応しい器を持っていながら、どう足掻いても彼は世継ぎにはなれないの。きっと、本当の孫に対して複雑な気持ちを抱いていたと思う」
だから彼の要望に応じた、と静は言う。
軍にこのことを話すつもりかと聞かれ、雨蘭は力なく首を横に振る。
(こんなこと、誰にも言えない。明様にも何と話したら良いか分からない)
雨蘭は話を聞かせてくれた静に礼を言い、預けたままだった荷物を回収して帰路についた。
◇◆◇
その日の晩、北の離れを訪れた雨蘭は、明の机に無言で動物の彫刻を置いた。
「これは何だ」
「市場で明様似の置物を見つけたので、お土産です」
「例の女は見つかったのか」
聞かれると分かっていた。気持ちの整理ができていない雨蘭は事実を隠す。
「いえ……。後日改めて探しに行きます」
「そうか」
正直に生きてきた雨蘭にとって、記憶にある限り初めてついた嘘だった。
罪悪感の塊が肩のあたりにずしりと乗る。
(明様ごめんなさい。確信に至るまでもう少し待ってください)
明は今日も忙しそうだった。巻物に書かれたにょろにょろ文字を読みながら、朱色の墨で何やら添削を入れている。
「明様、梁様はどのような方ですか?」
幼馴染である明ならきっと、梁のことを誰よりも知っているはずだ。
「あれは柔和に見えるが頑固で、根っからの仕事人間だ。朝から晩まで働き詰めでも苦にならないらしい。そういう意味ではお前と似ている」
明は一瞬眉間に皺を寄せたが、筆を動かしながら答えてくれる。
「人間関係で揉めていたとか、事件の前に何か気になる点はなかったでしょうか」
「俺の知る限りではないな。見ため通りの平和主義で甘い男だ。敵を作りがちな俺とは違う」
(明様にも思い当たる節はなし、か。そうなると、怪しいのは本物の皇太子くらい?)
梁こそが皇太子だと思い込んでいた雨蘭には、本物がどのような人間なのか想像もつかない。毒を飲ませたくなるほどの、嫌な奴なのだろうか。
「明様はこの国の皇太子をご存知ですか」
「知っている。怠惰でやる気のない奴だよ」
「梁様はその人のことを嫌っていました?」
「……疎んでいたかもしれないな」
明は硯に筆を置き、立ち尽くす雨蘭を見た。
彼の僅かな微笑みに、いつぞや梁が見せた陰のある表情が重さなる。
いつだ、いつのことだと雨蘭のちっぽけな脳みそが一生懸命記憶を呼び覚ます。
鼓動が早まり、汗がじわりと滲む。手を伸ばしたら触れられる距離に真相が存在する気がする。
「雨蘭」
「済みません、ぼーっとしていました」
「何かあったのか? 疲れたのなら早く戻って休め」
「芋の他には何を植えようかなーと悩んでいただけなので、大丈夫です」
下手な誤魔化しが通じなかったのか、明は近くに寄れと手招きをする。
動揺しながら机の手前に歩みを進めると、立ち上がった彼は雨蘭の頬を指でぎゅっと挟んだ。
「お前はいつも通り馬鹿みたいに笑っていろ。そうでないと気が休まらん」
「みんさま、いひゃいです」
彼らしい横暴な振る舞いだが、眼差しは優しい。黒髪に薄墨色の目、端正な顔が雨蘭のすぐ目の前にある。
(あれ、本物の皇太子ってもしかして……まさか。まさかだよね)
一つの解に辿り着きそうになった雨蘭は、思考を止めた。
もし答えが正しかったとしたら――
雨蘭はとんでもない失態を犯してきたことになる。
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