第14話 上手くいかない日だってある

(ああ、まずい)


 眩暈がして手元が狂う。大根の皮を剥いていたはずが、自身の指に包丁の刃がざくりと刺さっている。


 昔はよく失敗して手が傷だらけになったものだなぁ、と雨蘭はぼんやり考える。脳は殆ど動きを停止していた。

 隣で菜っぱを刻んでいた萌夏がその姿を見てぎょっとする。


「アンタ、えらいこっちゃ!!」

「あはは……このくらい大丈夫ですよ」


 ドンっという大きな音に、立ったまま眠りかけていた雨蘭の目が一瞬覚める。


「やる気のない奴は今すぐ出て行け!!!!」


 鈍く大きな音が拳を調理台に叩きつけた音であると認知する前に、朱料理長は雨蘭を怒鳴りつけた。


 これまでも厳しく指導されることはあったが、出ていけと言われるほど激昂させてしまったのは初めてだ。


「済みません、集中します!」


 反射的に勢いよく頭を下げた。寝不足のせいか、血が流れたせいか、激しい眩暈が雨蘭を襲う。


「その状態で調理する気か!? 料理に血が入ったらどうするんだ!!」

「申し訳ありません! 先に止血をします!!」

「帰れ。その状態が続くのであれば、二度と来なくて良い」


 料理長はそう言い捨て、調理に戻る。彼は雨蘭の存在をいないものとして動いているようだった。


 どう行動するのが正解か分からず、ぼんやり立ち尽くす雨蘭を押しのけるようにして、熟練の彼はあっという間に大根の皮を剥き、作りかけていた料理を代わりに進めてしまう。


「顔色が悪い、早く帰りな。あれくらいの怒り方ならよくあることだから大丈夫。傷の手当てをして、体調が戻るまでしっかり休んだ方が良いよ。少なくとも今晩は顔を見せない方が良いね」


 見兼ねた萌夏が、優しく雨蘭に教えてくれる。


 長年料理長のもとで働く先輩の言うことに従った方が良いと判断し、傷口の応急処置を済ませ、雨蘭は調理場を後にした。

 

 心と体がどんより重い。折角任せてもらえる品数が増えたのに、一瞬の不注意で追い出される事態に陥ってしまった。


(掃き掃除だけはしておかなくちゃ……)


 丈夫な体が取り柄だと思っている雨蘭の頭に、出来ることをしないで休むという文字はない。


 手は痛んだが、血は止まっている。いつもより早い時間から、傷口に負担をかけないようゆっくり掃除を終わらせた。


「朝からご苦労様です〜」


 水拭きまでやり遂げて切り上げようとした頃に、ようやく本日の当番が姿を表す。


 春鈴は桃色のふわりとした巻き毛を揺らしながら、嫌味っぽく雨蘭を労った。

 平常時と異なる髪型からして気合が入っている。衣も身分の高い女性らしく、煌びやかな銀の正装だ。


 春鈴と共にやって来た香蓮も同様に、細かな刺繍が施された美しい衣を纏っている。


「今日は随分お美しい衣を召されていますね」

「分かる? 昨日梁様に偶然お会いしてお話ししていたら、廟の様子を見に来てくださることになったの」


(なるほど。それは気合が入るだろうな)


 式典が開催されるという大事な通知を雨蘭が見逃したのかと心配したが、個人間の約束らしい。


 梅花の姿が見えないことを不思議に思ったが、彼女は確か所用があるということで、昨晩から特別に実家へ戻っていたはずだ。


「掃除が終わったのなら、さっさと宿舎に戻ってよ」


 香蓮がいつもの通り、鋭い目つきで雨蘭を睨む。


「私も梁様にご挨拶をしたいのですが……」

「はぁ? まだ自分の立場を理解していないの?」

「そうですよね。それでは梁様によろしくお伝えください」


 彼女らの気を悪くして、喧嘩をしているところを梁に見せるのもどうかと思う。


 きっと雨蘭の「よろしく」は伝えられないだろうし、雨蘭が行った掃除は彼女らの手柄にされるだろうと察しがついたが、大人しく引き下がることにした。


(時間ができたからせめて勉強はしないと)


 日中、燕がいる時は彼の気分次第で勉強を見てもらえる。

 そのため、夕方の仕込みまでの時間は廟で勉強していることが多いが、今日は寄り付けない。


 調理場も廟も追い出されてしまった雨蘭は仕方なく部屋に戻る。誰もいない部屋に気が抜けて、硬い寝台に寝そべる。


「わーーーーーっ!!!!」


 寝台に横たわったら最後、いつの間にか深い眠りに落ちていたようだ。気づいた時には部屋が真っ暗で、驚いた雨蘭は寝台から転がり落ちた。


(たっぷり勉強するはずだったのにぃぃぃぃ!!)


 日が暮れてしまっているので今が何時頃かも分からない。雨蘭はぼろぼろになってきた教材をかき集め、とりあえず宿舎を出て走る。


 調理場の灯りはまだついており、そっと中を覗くと萌夏が片付けをしているところだった。料理長が去っていることからして、大体の時刻が分かる。


「萌先輩、片付けを手伝いましょうか?」

「雨蘭!? わざわざ来てくれたのか。でもその手じゃ水を使えないだろ。傷が塞がるまではウチ一人で大丈夫。顔色、だいぶん良くなったね。あと必要なのは栄養補給だ」


 そう言って萌夏は彼女の夜食用携帯食を麻袋に詰めて渡してくれる。


「ありがとうございます」


 萌夏に顔色を指摘されて気づく。十分に眠れたお陰か、頭はすっきり冴え渡っていた。


(何だか勉強が捗る気がする!!)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る