第15話 先生、意外と優しいですね?

(珍しく灯りが消えている。明様、いないのかな)


 窓から建物の中を覗いてみるも、真っ暗で何も見えない。


 正確な時刻は分からないが、萌夏が調理場で片付けをしていたということは、いつもと大して変わらない時間帯のはずだ。


 毎晩遅くまで灯りを使うわけではないと明は言ったが、大抵は雨蘭が睡魔に襲われるまでは点いている。来た時点で既に消えているというのは初めてのことだった。


(仕方ない、今日は諦めるか)


 帰ろうと振り向いたところ、男が早足に歩いてくるのが見える。それが明だと分かったところで、雨蘭は軽く頭を下げた。


「こんなに遅くまで出掛けられていたのですね。お疲れ様です」

「何だ、いたのか」

「灯りがついていなかったので、帰ろうとしていたところです」


 愛想のない言葉とは裏腹に、彼の息は上がっており、急いで帰ってきた様子だ。


「ありがとうございます」

「何のことだ」

「もしかすると、私のために急いで帰ってきてくださったのかと思って」

「……」


 ぐうぅぅぅ、と大きな音が鳴る。この前は舌打ちだったが、今日はお腹の音で返事をされた。

 恥ずかしかったのか、明は無言で入り口の錠を開ける。


「お腹が空いているのですよね。よろしければ召し上がりますか?」


 萌夏が渡してくれた、夜食が詰まった包みを男に差し出す。

 余程空腹だったのか彼はそれを奪うようにして取り、建物の中へ入った。


 目の前でぴしゃりと扉が閉められるかと思いきや、彼は玄関口で立ち止まり、何か言いたそうにじっと雨蘭の方を見ている。


「どうかしましたか」

「入れ」

「良いんですか?」


 驚いて瞬きを繰り返す。


「いつも厚かましい癖に、今更良い子ぶるな」

「お邪魔、します」


 雨蘭は緊張しながら中へと入った。


 建物自体は木造のしっかりした造りで、柱や天井に細やかな装飾が施されているが、部屋の内部は殺風景だった。


 いつも灯りをつけている部屋には、簡素な執務机と椅子が置かれているだけで、何もない寂しい空間が広がっている。


「明様はここで暮らしているのですよね?」

「仮住まいだ。この忌々しい三ヶ月が終われば宮廷に戻る」


 明は奥の部屋から椅子をもう一脚運んできて、机の角の方に置く。筆、硯、墨に紙も出してくれた。


「もうすぐ火が来る。そうしたらお前はここで勉強しろ」

「ありがとうございます」


 灯具を持った使用人はすぐに現れた。品の良さそうな青年は机の上に灯りを置いて、一言も話さずさっと出ていってしまう。

 偉い人に灯りを提供するのも、使用人の仕事だと雨蘭は学んだ。


「手はどうした。他の女どもにやられたか?」


 明は布を巻いた雨蘭の左手を見て言う。白い布に少し血が滲んでいるので、怪我だと気づいたのだろう。


 朝の調理時に失敗して切ってしまったことを説明すると、明は何かを持ってきた。


 目の前に置かれた物体を観察する。石を掘り出して造られた、小さな入れ物のようだ。細かく鳳凰の形が彫られ、鮮やかな赤で着色されている。


「これは?」

「止血と消毒の薬だ。化膿しないよう塗っておけ」

「ありがとう、ございます」


(明様が優しい……? いや、前から何だかんだ優しい方ではあったけれど、こんな風ではなかったよね)


 どこかに強く頭を打ちつけたのではないかと疑いながら、ありがたく塗り薬を塗布する。

 

 夜食を食べ始めた明を横目に、雨蘭は勉強を始める。日常的に使う単語はかなり覚えられたので、このところは文章を読んだり、書いたりする練習をしていた。


 折角筆と紙があるので、頭に浮かんだ文章を書いてみようと思ったが、そもそも雨蘭は道具の使い方を知らない。

 筆の持ち方はおろか、墨を擦るところからつまづいたので、黙ってじっと明の方を見る。


「何だ、お前も腹が減ってるのか」

「そうではなくて、えーっと、道具の使い方を教えてください」


 彼はチマキの葉を剥きながらため息をつく。


「これまでどうやって書く練習をしていたんだ」

「地面に木の枝で書いていました」

「それ、一式お前にやる」


 彼の顎の先が示すに、筆記用具のことのようだ。

 華美な装飾はされていないが、洗練された質感からして決して安くない品だろう。


「これをですか?」

「どうせ大して使っていなかった貰い物だ」

「ありがとうございます」


 明は食事を中断し、墨の擦り方や筆の持ち方を意外にも丁寧に教えてくれる。


 筆の運びを教えてもらう時、後ろから抱きしめられる形で筆に手を添えられたので、久しぶりの他人との接触に雨蘭は緊張してしまった。


「字が間違っている」

「あっ、棒が一本足りませんね!?」


(あれ?)


「文章は成り立っているが、その言葉は書き言葉としてはあまり使わない」

「なるほど……書き言葉と話し言葉で少し違うのですね」


(あれれ?)


「今日は料理の最中、包丁で手を切ってしまいました。という文章の場合、してしまったの部分はどう書けば良いですか?」

「意図せず、という意味にしたいならこの文字を入れろ」


(明様が、勉強を見てくれている……?)


 結局、「今日はここまでにしろ」と言われるまで、彼はつきっきりで先生役をしてくれた。


 一人で勉強するよりも、耳の遠い燕に教えてもらうよりも、遥かに効率が良い。


「今日はありがとうございました。明様の教え方、一番分かりやすかったです」

「……そうか」

「おやすみなさい」


 教えることを嫌がっていた明が急に態度を変えた理由は不明だが、しっかりお礼をして宿舎へ戻る。


 人生は良いことばかりでない代わりに、悪いことばかりでもない、と雨蘭は思う。

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