第13話 夜の灯りに誘われて
夕食の手伝いから戻った雨蘭は、先に眠っている同居人を起こさないよう、そっと部屋に入り、教本を持って廊下に出る。
夜に慣れた目であれば、月の光のおかげで歩くには困らない。ただ、勉強をしようと思うと明かりが足りなかった。
(私に灯具を買うお金があればなぁ。どうせ梅花さんに怒られるから部屋にはいられないけど)
日が暮れたら寝る生活をしていたこれまでは、縁のなかった代物だ。
梅花に聞いてみたところ、とても庶民に手を出せる値段ではなかった。
事前にもらったお金は全て家のために置いてきてしまったので、今の雨蘭は実質一文無しなのである。
どこか灯りのある場所はないかと雨蘭は敷地の中を彷徨う。
随分端まで歩いて、辺鄙な場所に灯りのついた建屋を見つけた。雨蘭の実家より、一回りも二回りも大きいが、他の立派な建物と比べると小規模だ。
(こんなところに何の建物だろう)
複数の木型が組み合わさった格子窓の前に回る。室内は煌々と灯りがついており、窓の下であれば十分書物が読めそうだ。
窓に人影が映らないよう、這いつくばって静かに移動する。壁にもたれて地面に座り、一番難易度の低そうな教本を開いた。
(よし、見える。今日はここで勉強しよう)
梅花がくれた本には、文字の意味が絵で示されている。自分が既に覚えている音を、文字と紐づけていくという気の遠くなる作業をしなければならない。
今晩中にこの薄い本の文字全てを覚えてしまおうと目標を立てたが、数頁進んだところで眠気が押し寄せてくる。
「おい」
「ふぇ?」
微睡の中にいた雨蘭は、男の声に起こされた。口元に垂れた唾液を慌てて拭い、暗闇に立つ黒い男に驚嘆する。
「明様!? 何故ここに」
「それはこちらの台詞だ。人の気配がすると思ったら……何故こんなところで居眠りをしている。ここは俺の暮らす離れだ。人払いをしているはずなのだが」
「灯りのあるところで勉強をしようと思っていたのですが、いつの間にか居眠りをしていたようです」
人払いをしていると言うが、ここへ来るまでの間、特に見張りがいるわけではなく、誰かに止められることもなかった。
注意書きがどこかに貼られているとしたら、字の読めない雨蘭は気づかなかった可能性もあるが。
もっさりとした前髪のせいで正確には分からないが、明は恐らく幼児向けの教本に視線を向けた後、ため息をついた。
「先が思いやられるな」
「塵も積もれば山となるという言葉がありますし、頑張ります」
「塵がいくら積もったところで何の役にも立たないぞ」
「それもそうですね」
彼は屈み込んで地面に積まれた教本を拾い、パラパラと中身を見る。
「せめて誰かの教えを乞え。話すことができるのなら、単語でなく文章で文字を学んだ方が早い」
「それなら明様にお願いしたいです」
ぴたり、と明の動きが止まる。
「……喧嘩を売っているのか?」
「明様は厳しい試験に合格されて官僚になったのですよね? ぜひ、そのような経験をした方に教えて頂きたいです」
「お前に構っている時間はない」
良い案だと思ったが、明は嫌そうに言う。梅花には先生役を即断られ、萌夏も教えられるほどの知識はないとのことだった。
「他に教えてくれるような人が思いつきません。梁様くらいでしょうか」
頼むつもりは全くないが、雨蘭は脳裏に浮かんだ優しい人物の名前を口にする。
「……梁には絶対頼むなよ」
「はい。そのくらいは弁えています」
「俺のこともそのくらい敬え」
「いつも失礼なことを言ってしまい済みません。教えなくて良いので、せめてここで勉強をすることをお許しください。灯りが必要なんです」
「灯りくらい、楊美に手配を頼めばいいだろ」
「貧乏人には毎日の灯りを買うお金すらありません」
雨蘭は礼拝時にするように、膝と頭をつけて頼み込んだ。
返事よりも先に舌打ちが返ってくるが、その時点で答えを確信していた。
「好きにしろ。但し、俺も毎晩遅くまで灯りを使うわけではないからな」
「ありがとうございます!!」
明は一見怖そうだが、実は優しいところが梅花と少し似ている。
◇◆◇
夕食の手伝いを終え、素早く賄い飯を掻き込むと、嵐のような速度で片付けを終わらせる。教材を抱えた雨蘭が駆けていく方向を見て、萌夏は不思議に思ったようだ。
「アンタ毎晩どこへ行ってるの?」
「北の離れの方に勉強をしに行っています」
「北の離れって北東の角?」
「はい」
「あの区域は私たちみたいな一般人が入って良い場所ではないわよ」
(人払いをしてあるって本当だったんだ)
どうやらここで働く者の間では常識だったらしい。
「一応許可はとってあります。窓から漏れる灯りを使わせてもらっているだけです」
「ふぅん。それならいいけど、問題起こして追い出されないようにね」
「はは……そうならないよう努めます」
仕事、仕事、勉強、仕事、勉強。休む暇なく体と頭を動かして、この数日で随分やつれた気がする。
「これ、持っていきな!」
萌夏はいちじくの葉に包まれた発酵肉を渡してくれる。彼女がひっそり料理場で仕込んで、毎晩持ち帰って食べている大事なおつまみだ。
「萌先輩の夜食では!?」
「いいの、いいの。ウチはいい加減食事制限をしなくちゃ」
「ありがとうございます!」
周りにたくさん助けられている分、成果を出さなければならない。雨蘭は寝る時間を削って毎日勉学に励んだ。
時折部屋の中から明の視線を感じたが、彼は何も言わず、雨蘭の好きにさせてくれた。
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