第10話 嫌われ者に昇格
「わっ」
雨蘭が声を上げたのと時を同じくして、宙を舞った水がばしゃりと音を立てる。
気づいた時には既に回避不能で、雨蘭は降り注いだ水を頭から被ってしまう。
「あー、ごめんなさーい。躓いちゃったぁ」
率先して水を汲みに行った桃色のおさげ髪の女性は、中身のなくなった容器を持って可愛らしく謝罪した。
「
「貴女の方が大丈夫ですか〜?」
「はい。私は丈夫な体が取り柄なので、このくらい平気です!」
明るく返事をすると、春鈴はすっと冷めた表情をする。
躓いた時にどこか打ち付けたのだろうか。心配する雨蘭だったが、少し間を置いてからようやく勘違いをしていたことに気づく。彼女は故意に水をかけたのだ。
「偽善者ぶって気持ち悪い」
春鈴と行動を共にしている白髪の
「そんなつもりは……」
「普通はわざと水をかけられたら怒るか、泣くかのどちらかでしょ」
「やはりわざとだったのですね。本当に転んだわけではないなら良かったです」
「そういうところよ。理解できない」
彼女は冷たく言い放つ。先ほどから一度も視線を合わせてくれていない。
「ほーんと、自分は嫌われてないとでも思ってるのかな」
春鈴の方も先ほどまでの可愛らしい声と打って変わって、地を這うような低い声で呟いた。
(ひぇ……、都の女の人って色んな顔を持っていて強かだ)
嫌われていることに気づいていないわけではない。春鈴と香蓮の他にも、候補者の中には雨蘭に対して小さな嫌がらせをする者がいる。
梁と廟で会ったことが知られて以来、候補者たちの雨蘭を見る目が変わってしまった。
敵にもならない場違いな女から、田舎娘のくせに厚かましく、抜け目ない腹立たしい女に昇格したのだろう。前向きに捉えれば、ライバルとして認められたとも言える。
髪の毛から水滴がポタポタ地面へと落ちていく。意地悪をされるのは悲しいが、彼女らの心情を想像すると仕方ないことだと雨蘭は思う。
「みっともない真似はやめなさい。相手にするだけ無駄よ。さっさと済ませて戻りましょう」
優しい梅花が助け舟を出してくれる。彼女は言葉こそ厳しく、時に攻撃的であるが、手を出してくることはなかった。
春鈴と香蓮の仲良し二人組みは、梅花には逆らえないようで、不満げに掃除へ戻る。
(お金持ちのお嬢様相手に、そんな生ぬるいやり方では掃除の意味がありません! とは言えないよね……気になるところは後で私がやり直そう)
お前は人の気持ちに疎いと兄にもよく言われたが、雨蘭は雨蘭なりに気を遣おうとしているのだった。
◇◆◇
「雨蘭様、明日は朝の手伝いが終わり次第すぐお部屋にお戻りください」
夕餉の手伝いを終えて部屋に戻る最中、廊下ですれ違った楊美に声をかけられる。
老いた見た目に反して背筋がピンと伸びているところや、賢そうな物言いは、流石元宮廷の女官だ。
「明日は何かあるのでしょうか」
雨蘭は記憶を辿ってみるが、思い当たる節がない。彼女に声をかけられなければ、朝の手伝いの後、廟に直行していただろう。
「紙をお配りしたと思うのですがご覧になっていませんか」
(あ……、読めないから何と書かれているか、後で梅花さんに聞こうと思って忘れていたんだ)
教養のありそうな使用人のまとめ役に、文字が読めませんとは言いづらく、雨蘭は苦笑いをしながら誤魔化すことを試みる。
「紛失してしまいました。何と書かれていたのでしょう」
「明日は皆様の能力を確認するための試験があります。その案内でした」
「それは筆記試験でしょうか」
「筆記と面談による問答の両方です」
(は、始める前から終わってる……。官僚になるためには、厳しい試験を通らなければならないと聞いたことがあるけれど、使用人の場合も同じなのかな)
そうだとしたら、自分の名前と野菜の名前程度しか読み書きのできない田舎娘を雇ってもらうのは望み薄である。
「常識を測るための試験で、内容は難しくないと思いますよ」
「は、はい、そうですか」
楊美は途方に暮れる雨蘭に優しい言葉を掛けてくれるが、内容の難易度以前の問題だ。頭が真っ白のまま部屋に帰ると、珍しく早寝の梅花がまだ起きていた。
彼女は火を点した灯具の側で、何やら難しそうな書物を読んでいる。これまでずっと、暇で読書をしているのかと思っていたが、試験に向けて勉強をしていたのかもしれない。
「梅花さん……」
「あら。服を貸してくれる奇特な人間がいたのね」
真冬でもあるまいし自然乾燥で良いと思い、水をかけられたまま放っておいた雨蘭だが、それでは風邪をひくと萌夏がお下がりをくれたのだ。
彼女が痩せていた時のものらしいが、それでも身幅や丈が合わずに不恰好だ。
「明日が試験って知ってました?」
「当然。ここへ来てすぐに通知があったじゃない」
「ですよねぇ……」
「貴女まさか知らなかったの?」
「はい。実は私、読み書きができなくて」
「へぇ、本当に読み書きができない人間って存在するのね。口は達者なのに、不思議だわ」
梅花は馬鹿にしているよりも、驚いているようだった。
当たり前のように読み書きができ、それが話すことに繋がっている者にとって、雨蘭のような存在は理解し難いのだろう。
「明日は筆記試験もあるとか。どうしたら良いんでしょう」
「どうするも何も、できないなら仕方ないじゃない。いつも通り堂々と恥を晒したら?」
梅花は扇で仰いで火を消した。部屋は一瞬で真っ暗になる。
「確かに、今更ですよね。励ましをありがとうございます」
「読み書きができないだけでなく、耳もおかしいということが分かったわ」
しばらくすると、梅花の小さな寝息が聞こえてくる。
どんな場所でも、地面と等しく硬い寝床の上でも寝られる雨蘭が、その晩に限っては珍しく眠れなかった。
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